消滅


 目が覚める。カーテンの隙間から差し込む陽の光が眩しい。上体を起こし、一つ大きな欠伸をしてスマホの電源ボタンを押す。


「あ……やべ!」


 時刻は九時。一限開始目前。急いで着替え、バッグに教科書を詰め込んで外へ出る。ボロアパートの階段を数段飛ばしで駆け下り、自転車置き場へダッシュ。


 ペダルを全力で漕ぎ、三分で学校へ到着。しかし、そこからが難所である。校門を超えると五十メートルくらいの急な坂が待ち構えている。


 これだから田舎の大学は……と、ため息を吐いて駆け上がる。しかし、三分の二くらい上ると苦しくなって減速した。


 呼吸がため息の連続になりそうだ。どうして昨日の自分はアラーム設定を忘れたのか。やり切れない気持ちが込み上げてくる。もう授業休んでしまおうかという考えもあったが、ここまで来たのだから遅刻してでも出席しようと教室へ向かった。


 教室へ着き、座れる席を探したが、一番前の列しか空いていなかった。気まづいな、と思いながらもそこへ座って大人しく授業を受けた。


 授業中、先生がプリント配る時だった。どうしてか、俺を飛ばしてプリントを配り始めたのだ。遅刻したことが気に触ったのだろうかと思い、何も言えないまま授業を終えた。


 そして、遅刻していない二限の授業も俺はいないものとして扱われ、昼食時間になり、友達へメッセージを送ろうにも送れない。購買のおばちゃんにもその辺を歩く人にもエレベーターにもスマホにも、俺の存在は否定された。


 俺はこの世に干渉することが出来なくなっていた。望んだ通り、この世から消滅したも同然であった。


***


 何時間も校内を周り、いろいろ試した。まず、俺は人に力で勝てない。歩く人にぶつかっても俺が一方的によろめくだけ。そして、スマホも他人に影響がある様なことは受け付けなかった。例えば電話、メールの送信、SNSへの投稿など。スマホでできることといえば、写真を撮ったり、待ち受けを変えたり、その程度のことであった。一応、自動販売機で飲み物を買うことはできた。相手が人間でないから成立しているのだろうか。


 しかし、お腹が空いて、商品を盗んででも食べようとしたが、商品を持ち上げることすら出来なかった。そりゃあ、商品が減るというのはこの世への干渉になるから、当たり前のことであった。


 見かけた友達はみんな何不自由なく過ごしている。文学に取り憑かれたやつも、小説に興味がないやつも、何となく生きてそうなやつも。不平等だ。同じ時間を生きているのに、どうして俺だけこんなに苦しまなければならないのか。右からも左からも幸せそうな笑い声が聞こえ、自分の不幸が際立つ。


 途方に暮れて帰ろうと自転車に乗った。自転車は普通に乗れるし、正常に動かせる。ただ、自転車に乗った場合、俺と自転車は一心同体になる。要するに、自転車がひとりでに動いているようには見えないのだ。その証拠に、何度か車に轢かれそうになった上に、ベルを鳴らしても通行人に反応されることはなかった。同じように、俺が持っているもので誰かを叩いても、その人への影響はなかった。


 ただ、俺が存在していたという事実は残ったままであった。家のポストに入っていた家賃の請求書がそれを証明していた。家にはいつも通り入れるようで、電気やテレビも付けることができた。


 結局、この世から消滅したところで生きる価値と意味を剥がされて、死ぬ理由ができただけであった。


 人生の意味を考え始めたらお腹が空く。この世から消滅した虚しさと食欲が満たされない空しさが俺を挟み込み、腹と背中がくっつきそうだ。


 空腹で苦しみながら死ぬなんて嫌だから、自殺の心構えをしなければなと薄ら覚悟した。


 カーテンを開けて外を眺める。夕日の赤が闇に呑まれていく。こういうのを心象風景と言うのだ。俺はこの世に呑み込まれ、死後の世界へと落ちる。怖いことは何もない。自分が望んでいたことではないか。


 そうだ、と思いついて家にあった食パンを手に取り、口に入れた。食べれる……。


 ちゃんと味もあるし、食感もお腹に入っていく感覚もあり、この世から消滅したとしても、まだ生きているのだと体で感じた。


 これで生きていける希望が見えたために絶望した。死ぬ覚悟も揺らぎ散った。


 ある程度腹を満たし、ベッドに横たわってみる。こんな非現実的な話、寝て起きれば夢だったというオチなのだろうかと考える。とりあえず寝てみようと目を閉じた。




 夜明けの薄い青色をまぶた越しに感じた。いつもに増して快適な睡眠であった。昨日の出来事が嘘かのように穏やかな朝だ。喉が乾いていたので、自身の存在確認ついでに近くのコンビニへ向かったが、そもそも自動ドアが俺に反応してくれなかった。


 複雑な気持ちで引き返し、自動販売機で飲み物を買って帰った。


「もう、諦めて死のう」


 言えば実行できるという甘い考えがあった。しかし、気がつけばベッドの上で横たわっているだけ。死の覚悟一つもできない。考察が正しければ、人が捨てた食べ物は食べることができるはずだ。だが、生きるためにプライドを捨てれるほど生への執着なんて持ち合わせていない。


 中学の頃、透明人間になったら全裸で学校を走り回ってみたい、なんて友達と話したこともあった。あの頃のように頭を空っぽにしていきたいものだ。


 ただひたすらこの部屋で腐っていくのだろうか。それはそれで嫌だ。俺にまだ筆を握る気力があったのなら、筆に対する執着があれば、それでも良かったと思えたかもしれないが。


 俺が今更何を書いたとしても、読むことができるか分からないし、できたとしても、遺影を前にテキトーな感想を言われるだけだ。それじゃあ意味がないのだ。


 スマホも使えないし、テレビを見る以外何もできなくて暇を持て余していた。なので、意味もなく外を歩き回った。


 試しにと思ってバスに無賃乗車してみた。特に面白みもない。何かを期待していたわけでもないが、ガッカリした。駅前まで来たはいいが、電車でどこかへ行く気力なんてない。また無賃乗車で帰り、バスから降りた直後。


「すみません、ちょっといいですか?」


 声をかけられた。まさか、と思いながらも振り返ると、さっきまで同じバスに乗っていた女性が真っ直ぐにこちらを見ていた。可愛らしいクリクリした目を尖らせている。


「えっと……俺のことですか?」


 恐る恐る聞いてみた。もちろん、聞こえてない方がいいことに越したことはない。もし、俺の姿が見えていたとしたら、無賃乗車を見られたのだから。


「そうです」


「どうしました?」


 どうして俺のことが見えているのか、疑問に思いながらも息を飲んだ。もしかしたら、彼女も俺と同じこの世から消滅した人なのかもしれない。他に同じ境遇の人がいるということを想定していなかった。


「あなた、堂々と無賃乗車しましたよね。こういうこと、辞めた方がいいですよ」


 この言い方だと、俺と同じ境遇ではないことは明白だ。だとしたら何故、彼女だけ俺を認識できるのか。


「えっと、変な質問しますけど、どうして俺のことが見えるんですか?」


 彼女は顔を歪める。


「何を言っているのか分からないです。逆に、私以外の人はあなたのことが見えないんですか?」


「そうです。見ておいてくださいね」


 俺の意味不明な発言を証明するために、そこを通りかかった男性の肩を叩いた。もちろん反応はなく、追加で軽くパンチした。


「ほら、分かりますか? どうしてか、俺は誰からも認識されないんです」


「えっ! すごい!」


 彼女は俺の体を舐め回すように見る。


「にわかには信じられないけど、これは本当に見えていない様子だね。それにしても、どうして私には見えてるのかな」


 彼女は人差し指を顎に当てて斜め上へ目を向けた。その仕草が可愛くて思わず目を逸らした。


「それは俺にも分かりませんが……」


「まぁいっか。詳細なことを聞きたいけど、今から授業あるし、十八時半にここで待ち合わせでいい?」


 彼女はどうして俺を認識できるのか、というのもそうだが、俺を認識できる人がいなければ、食事もまともにできないまま野垂れ死にすることになる。言わば、彼女は救済の女神。彼女のことを知れば、俺が消滅した理由も分かるかもしれない。


「ん? あ、そういえば名前聞いてなかったね。私は小春」


 彼女ら黙り込む俺を見て気を遣ったのか、優しく微笑む。


「俺は小森」


「分かった。じゃあまたね」


 そう言って彼女は足早に大学の校門へ向かおうとした。


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 彼女とここで別れるのが怖くなったのだ。彼女が待ち合わせを忘れたら、俺は今後どうなるのだろうか。考えたくもなかった。


「どうしたの?」


「着いて行ってもいいですか?」


 これではただのストーカーだ。自分でも必死すぎて、その本質を考えないまま言ってしまった。


「え、普通に無理」


 当たり前の返答だ。


「そ、そうですよね」


「大丈夫ですよ、ちゃんと約束は守るので」


 ふわふわした印象の彼女だが、その言葉は力強かった。


「……すみません」


 俺はこの会話の間、自殺のことを完全に忘れていた。


 一旦家へ帰り、小腹を満たそうと冷蔵庫を漁る。男子大学生の冷蔵庫事情なんてたかが知れたもので、半日もあれば中身は空っぽになる。強いて言うなら調味料は残っているが。


 カップ麺にお湯を入れ、小森のことを考えていた。俺のことを認識できる彼女がいれば、この世へ復帰できる方法が見つかるかもしれない。最悪、復帰できなくとも、理解者がいればやっていけるかもしれない……何を期待しているのだか。逆に、彼女がいないと生きていけないかもしれない。そんなことを考えると、幼馴染の亜紀子を思い出した。


 そもそも、俺がこの世から消滅したいなんて考えたのが原因で、むしろ消滅することは良いことではないのか。ただの願望も、叶ってしまえば悪夢に化けるのだ。

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