第32話


『手ぇ出してないやろな?』

「……いきなりそれかよ」

『当たり前じゃボケ。……でも、ななちゃん庇ってくれたことは礼言っといたるわ』

「……お前にお礼言われる筋合いないからいい」

『ホンマ可愛げのないやつやの』

「お前にだけは言われたくねぇよ!!」


 橘くんが突然大声をあげるから、またビクッと震えた。晴の声はかすかに聞こえるけど、その話の内容までは分からない。やめてよ、心臓に悪い!なんで喧嘩してんの!?


『オマエ、変なことすんなよ』

「……保証はできないな」

『あ”?なんやと?』

「……だってさぁ、アイツ。半泣きで縋るような目して見てくんだけど。……結構、キツいわ」


 え、なに?何の話?誰の話!?


『……マジで、手ぇ出したらコロスで』

「……ガキ」

『ガキで結構や。指一本、さわんな』


 隣で橘くんが大きくため息をついた。だから何の話をしたらそんなに呆れた顔になるの?


「どーせお前GPSとかつけてんだろ?心配してねえよ」


 GPS!?え、だから何の話!?物騒な話じゃないよね!?


『……すぐ助けたるわ』

「……冗談のつもりだったんだけど、マジかよ」

『……アホか。あんなフラフラした女、野放しにしとくほどマヌケやないで。絶対に触んなよ』

「相変わらず、上からだな」


 全く話の内容は掴めないまま、区切りがついたようでスマホを返される。

「……晴?」

『ん?』

 やっぱりさっきのは喧嘩じゃなかったのか、晴の声は優しかった。

「変なこと、言ってないよね?」

『……言うわけないやん?紳士な俺やで?』

 ちょっと間があったのは指摘しないことにして。

『すぐ助けたるからな?』

 引っ込んだはずの涙が再びこみあげてくる。晴の声って、涙を誘う何かを出してるのかな。


「帰れなかったら、どうしよ……」

 ポロッと弱音を吐けば、『あほ!そんな縁起でもないこと言うな』って怒られた。なんだか、少しだけ安心した。別にドМとかじゃないはずなんだけど。

『……大丈夫や。大丈夫やから……はやく帰ってきてや、ななちゃん……っ』

 いつの間にか、晴の声が震えているような──心なしか、ほんの少し、そう思った。

「……うん、まってて」


『万が一のことがあったらアカンから、スマホはなるべく使わんと充電置いときや。何かあったらすぐに俺に電話な?』

 冷静に話す晴は大人っぽくてしっかりしていて、感心してしまう。「わかった」と同意すれば、瞬間、声が低くなる。

『……橘に指一本でも触れられたらすぐに電話やで?』

 ……それを充電の無駄遣いだっていうんだよ。

 返事をしないまま、通話を切る。隣には信頼できる同僚がいるのに、晴の声が聞こえなくなっただけでどこか落ち着かなく、肌寒さを感じた。

「……よし」

 長く拘束されて頭をフル回転した研修に、この遭難状態。もう体力なんて残ってない。精神的にもキツい。それでも、私は顔を上げた。

 帰らなきゃ。晴が待ってる。その思いが諦めかけていた気持ちを動かした。

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