鎖のついた書見台

倉沢トモエ

第1話 貸本屋の馬車

 その馬車の箱の部分には作りつけの書架があり、本がぎっしりとつまっている。書斎か本屋が走っているようだった。雨風を避ける鎧戸もついていた。

 森を抜け、いつもの村が見えてきた。町はずれの泉をはさんで反対側の、さらに一里ほど離れた場所である。山が近い。

 馭者台には、ふたり並んで座っていた。厳しい顔つきの老人と、小僧だ。

「親方、親方」

 小僧は器用に手綱をさばいて、二頭の馬の足並みを揃えている。

 父親が郵便馬車の仕事をしていて、小さな頃から仕込まれたこともあるが、生来馬が好きだったので、馬のほうもこの小僧を好くことが多く、馬たちは小僧の言いつけをよく聞いた。

 そのため、馬車での移動はいつしか誰も、小僧を頼みとするようになったのである。


 この老人。人呼んで《活字拾いの親方》は、この紙づくりを生業とする町にて大きな作業場を構え、活字を用いての版作成と印刷、製本の仕事を受けていた。

 都に集う、掃除夫や料理人、洗濯屋、街灯点灯夫、海や山で働く漁師や農夫、木こりたちのあいだでも、仕事の合間の無聊のなぐさめに軽い読み物が喜ばれるようになった時流に乗って、小さいながらも財を成した。

 それを元手に、方々から評判の製本職人を呼び寄せたので、親方の作業場では、これまでの廉価な造本にとどまらず、紙屋や印刷工房の職人とやり取りをしながら、革や絹の豪奢な装丁を施して、金や銀の箔を押すこともできるようになった。

 筆耕の人数も増やしたので、活字を使わず、すべて美しい筆跡の写本を少部数で、との注文も受けることができるようになり、金に糸目をつけない好事家たちを引き寄せるようになった。

 やがてそれらの仕事が多くの者たちをうらやましがらせ、都からの発注もますます増えたのである。

 これは、町に住む人びとを喜ばせた。もともと質の高い紙を生かしてのここでの仕事である。いずれ目利きの多い都に出しても引けを取らぬようになろうと自負していたが、それが実際明らかになったのだ。

 そうして親方の財はさらに増え、若い職人も集まり、町はさらに活気づいた。


 増えた財をさらに元手として、親方はもうひとつ仕事をすることにした。

 本を売るには、文字を読み考える読み手が要る。幼きものから成人まで、皆が学べる小さな学舎を建てたのである。

 学舎に招かれて集い、居心地よくそのままこの町に住みついた博士、教授たちの書き物もまた、親方の作業所にて仕上げられて、都の書肆に馬車で何台分も納められた。

 こうして都の書肆や学者たちとの関わりをも増やし、親方は結果、町に多くをもたらしたと、こんにち名を残している。

 

 とはいえ、その《活字拾いの親方》、晩年のこの頃はまだ、そのような栄光を知らなかった。自らが建てた学舎にて学んだ者が町に残り、または村へ帰って教鞭をとり、やがて都へ出て身に着けた学問や知恵で仕事を磨いてゆく者も現れて。その実りを人びとが知るのは相当先のことであった。


「お前は馬はよく扱えるようになったが、それにしてもまず、うちで職人仕事を覚えたいなら、もっと文字を知らなければいけないね」

 さて、そう馭者台で小僧に説教する親方。近ごろは孫がかわいい。作業場の仕事も学舎のことも、人に任せた。

 作業場の仕事は盛んで心配はない。

 学舎は学びをはじめて十余年。人の取りまとめに長け、方々に勤め口のつてを持つ教会の助けを借りることもできて、ひとり、ふたりと巣立っていったばかりのところで、孫同様、先がたのしみなこの頃である。 

 しかし、それらを眺めて喜ぶばかりの隠居には早い、と、貯めた小遣いで馬車と馬を手に入れて、晴れた日に隣村に通う貸本屋をはじめたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る