よいこのよふかし

秋永真琴

夜の民

 すすきのの外れにある「アウル」は、午後十時から午前四時までやっている、札幌ではめずらしい深夜営業の喫茶店だった。薄暗い店内には、長いカウンターと、テーブルが四つある。いちばん奥のテーブルを俺は定席にしていた。

 五月最後の金曜日だった。

 客は俺しかいなかったが、日付が変わるころにふたり目が現れた。

 細身のスーツを着た二十代半ばの美しい男だった。髪がツーブロックでもないし、靴先が尖ってもいない、真面目で優秀な会社員という印象の男は、思い詰めた表情で店内を見回し、俺に目を留めた。

 俺はかけている黒縁眼鏡の位置を直した。

 不安そうに近づいてきた男は「タッキー、だよね」と訊いてきた。「わかる、俺のこと?」

「久しぶり」

 と俺は応えた。いちど知り合ってまきあきを忘れられる人間はこの世に存在しないだろう。

 千秋の顔がほころんだ。見た者をたちまち虜にする花のような表情だった。

 高校時代の友だちとの再会を、しかし、俺は手放しで喜べなかった。この再会が偶然ではないからだった。

 この喫茶店にいつもいて、困ったことがあれば相談に乗ってくれるたきぐちという男の噂をネットか何かで知った。あのタッキーだろうか。でも万が一、他人だったら。悩んだ末に、俺に前もってメールなどで確認を取らず、直接ここまで来た。そんなところだろう。

「本当に、タッキーが探偵を? すごいね」

「探偵じゃない。難しいことはできないよ。内容によっては、本物の探偵か、警察に行くのを薦めるほうが多い」

「タッキーに聞いてほしい。ちゃんと報酬は払う」

「金は要らない。仕事じゃないから」

 俺は向かい側の椅子を指し示した。

 席についた千秋は、メニュー表を少し眺めてしてから、カウンターの内側にいるマスターに「フレンチをください」と注文した。適当にコーヒーと言わないところが千秋らしい。

「ほとんど毎日ここにいるの?」

「飲み屋以外で夜中に長くいられるのがこんなところしかないから」

 コーヒーを淹れながら、マスターが苦笑交じりに「こんなところで悪かったね」と言ってきた。俺は「感謝してます。こんなところがあってくれて」と返した。

 どうして不眠症になったのか、理由は思い当たらなかった。数年前から、酒に酔っても眠れなくなり、カフェインを絶っても寝つけなくなった。身体が起きていたいというのなら、それに従おうと思い定めて、俺は夜の民になった。

 湯気の立つカップが運ばれてきた。千秋はひとくち飲んで「おいしいね」と言ってから、事情を語り始めた。

「脅迫されてるんだ。一夜を過ごした相手に」

 千秋の端整な顔には、怒りや焦りより、哀しみが濃いように俺には思えた。

「どうやって知り合ったんだ」

「そういうアプリで」

 ゆきずりワンナイトの相手を探す人たち専門のマッチングアプリということか。それ自体は珍しくない。しかし、千秋の場合は。

「脅迫ってのはつまり、千秋の、あれか」

「いいよ、ズバッと言って」

 千秋が言うのに甘えて、俺は続きを口にした。

「殴ることを、か」

 千秋はうなずいた。

 少女マンガに出てくるような、ちょっと口が悪くてわがままなだけの男を「ドS」などと称するのは大間違いなのだと、俺は千秋から教わった。

「もちろん合意の上だろうけど、相手の気が変わったのか」

「痛いのは嫌いなのに、無理をしてたんじゃないと思う。そういうのは、わかるから」

 千秋にはわかるのだろうと、俺は思った。そこは疑わなかった。だが、見るからに毛並みのいいこの男の、一般社会では受け容れられにくいを知ったとき、握った弱みを相手がどうするかは別の話だった。

 千秋と自分のできごとを盗撮し、その動画を千秋に送りつけて、これをネットに上げられたくなかったらコンビニでギフトカードを山ほど買ってきて番号を送れと脅迫する。相手がそういうやつかどうかは、別の話なのだ。

「ダメだな」

 あらかたの事情を聞いた俺は、そう言った。「俺の手には余る」

 千秋はぎゅっと唇を引き結んだ。

 俺は言葉を続けた。「やっぱり金が要る。たぶん、いま脅迫されている額より多い金が」

「どういうこと?」

「解決できる人に頼む。その依頼料がかかる」

 気は進まなかった。決められた報酬を払えば、後を引く相手アマチユアではないが、アンダーグラウンドの人間プロにものを頼んだという事実は残る。

 でも、千秋には応えてやりたかった。いいやつなのだ。みんな千秋が好きだった。誰もが友だちや恋人になりたがった。やさしくて頼もしいけど、他人に対してどこか一線を引いたようなところも、千秋の大人っぽい魅力を高めた。

 本当にいいやつが、そういうふうに生まれついてしまうから、苦しむのだ。

「そのアプリと相手を教えてくれ」

 俺はスマホを取り出した。

 千秋は泣きそうな顔になって、深々と頭を下げた。

 

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