愛しのアリス

丘月文

プロローグ


 現実は小説より奇なり、なんて信じてなかった。

 だって『現実』は平凡で、ドラマティックなことなんて起こりっこないって。ううん、違う。

 ドラマの主役はいつだって、自分じゃないんだって思ってた。よくて脇役止まり。エキストラぐらいの、そんな存在なんだって。

 それなのに―――――まさか、こんなことになるなんて。

 自分でも信じられない。この気持ちを、いったいどうしたらいいんだろ。

 逃げて、逃げて、追いかけて?

 はやる心はどこへ行く?

 手遅れなんだって、さすがにもう分かっているんだけど。―――落っこちちゃったから。

 落ちる、落ちる、落ちる、どこまでも。ねえ、早くしなくちゃ。

 どうにかしなくちゃ。

「やっぱりお前は馬鹿だね。追いかけては駄目さ」

 微笑んで差し伸べられたその手は。

 悪魔の誘惑か。天使の救いか。はたまた――――――道化の悪戯か。

「必要なのは行動力だよ。望みがあるならば、ね」

 何が間違っているとか。

 どうすれば一番良いだとか。

 考えるだけ考えて、いつだって踏み出せなかった、その一歩。

「選ぶんだ。自分の意思でね」

 どうしてその瞳はいつだってそんなに揺らがないんだろう。

 ずっと羨ましかった。その強さが。強さを手にできる、賢さと能力が。

 自分にはないものだと、ずっとずっと思っていたけれど。

 それは逃げている自分を、棚にあげていただけ。

 本当はどこかで分かってた。初めから強い人なんかいない。

 望みを叶えたいなら、自分で叶えるしかない。叶うだけの、行動と努力をもってして。

 この人は、そうやってずっと戦ってきたって。だからすごいんだって。もう知っている。

 その一歩を踏み出すのに必要なのは、勇気と覚悟。

 叶えたいものは何?


 ―――ありま山 いなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする


『この歌が好きなんだ』

 一瞬で引き込まれた、あの声。横顔ばかり見つめていた、四ヶ月。諦めきれない、この気持ち。

 ああ、そうなんだ。いなの笹原でも忘れないというのなら。それになってみたいんだ。

「さあ、決めた?」

 試すように小首を傾げるその人をじっと見つめて。ぎゅっと手を握る。

 強くあれるように。

 たとえ望みが叶わなかったとして、この一歩はけして無駄じゃない。

 勇気と覚悟をくれた君へのこの想いがあるのなら。けして無駄になんかならないはずだ。

 力強く頷いた、その返答に。

「分かった――――――協力するよ。それがお前の選んだことならね」

 彼は満足げに微笑んだ。












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