第10話⁂母のその後?⁂
北朝鮮の指導者の邸宅は、建築的な意味でも、10万人の兵士に守られているという意味でも、セキュリティは厳重だ。
広大な宮殿の一角には、独裁者がゴジラのようなお気に入りの名作を鑑賞するための座席1000席の映画館があるという。
貧困で苦しむ国民をよそに、贅沢な建物は頻繁に建て替えが行われているようだ。
1982年初夏の陽射しが眩しい6月初旬のある日、久美子は新潟新潟県柏崎市で拉致されて北朝鮮のある場所に拉致監禁されています。
それでもこの悲惨な現状化の北朝鮮の現状から、こんなハイセンスな佇まいの小じゃれた場所など早々見当たりません。
それこそ金一族と同等に近い久美子の為に建造された建物と言っても過言ではないのです。
又それだけ久美子に対しての思いの強さの表れでもあるのです。
それはそうです。
あの頃はGDP世界第二位の経済大国日本のそれはそれは美しいお嬢様にして朝鮮王朝の血を引くお家柄のお姫様!
勿体無いお話です。
そんなお嬢様を我が国の王子の側室に迎え入れる事が出来たのですから。
それはそれは天にも昇る思いです。
邸宅こそ小粒ですが、可愛いまるでヘンゼルとグレーテルに出て来るお菓子の家のような、何ともメルヘンチックな久美子一人が住むには十分すぎる邸宅です。
久美子に惚れ込んだ王子の星日は毎日時間を見付けては久美子に会いに来ます。
久美子も最初は毎日毎晩、故郷への思慕、更には愛する人と引き裂かれた辛さで今にも狂わんばかりでしたが、星日の余りの愛の深さに、少しづつ落ち着いてきています。
ですが、正妻のハユンは2人の関係に危機感を感じています。
{もし男の子でも出産されたらこっちは女腹で王女達しかしか居ない身。
何とかしなくては?}
そして久美子邸に顔を出しては阿鼻雑言を浴びせかけています。
「お前みたいな雑種のハ-フもどきが偉そうに~!気取ってるんじゃないよ!阿婆擦れ女が————!」
「あんまりです!シクシク(ノД`)・゜・。星日様に訴えます!」
「たかが側室のクセして生意気な————!その綺麗な顔を醜くしてくれるわ———!この刃物で顔に傷付けて皇太子が寄り付かないようにしてオヤリ!」
ハユンの御付きの者達が久美子を羽交い絞めにして顔にナイフを突きつけます。
「どうだ分かったか?もし皇太子に告げ口をしたら即刻その綺麗な顔を切り刻んでくれるワ!」
この様な虐めが、まことしやかに連日のように繰り返されます。
そしてある日等々毒を盛られて身重の身の久美子に命の危機が???
*****色んな歴史を辿った大韓民国南北統一時代の女性達*****
良かったら読んでみて下さい。
【韓国時代劇では、王妃、側室、宮女など数多くの女性が登場し、王の寵愛を受けるため愛憎劇に身を委ねるストーリーが展開される。
そして、激しい嫉妬やいやがらせを勝ち抜いたヒロインが王と結ばれるというのが王道ではないだろうか。
【王朝の真実】名君・世宗の妻はどんな地獄を味わったのか
当然、夜の営みも国のしきたりで厳重に管理されており、国家儀礼として位置づけられていたのだ。
国家の存亡を懸けた夜の営み
『朝鮮王朝実録』などには、王の夜の営みについて詳細に残された記録は見当たらない。ただ、朝鮮王朝末期に王宮で勤務していた宮女たちの証言が、わずかながら残っている。
彼女たちによると、王と女性たちの夜の営みは一定のプロセスを踏むことを義務づけられていたという。
まず、王は相手となる女性とともに寝る約束を果たし、その日時を決定するというのが決まりだったようだ。ただその場合も、王のタイプである女性を手当たり次第選ぶということはありえず、後継者の妊娠という観点から公平に選ばれなければならなかったとされる。
そこで登場するのが「大殿尚宮」という女官だった。大殿尚宮は王妃や側室のイルチン(運勢)を見て、妊娠しやすい周期にある女性を、王にアドバイスしていたとされる。
そうして夜を過ごす女性が決まった後は、寝室の用意が始まる。担当したのは、王宮で働く宮女たちだ。寝室には布団の他に、蚊帳、水にぬらしたタオル、人を呼ぶ鈴、尿瓶、針などが用意されたという。
王と女性が寝室に入ると、用意をしていた宮女たちは即座に撤収する。そして、「宿直尚宮」という役を仰せつかった60~70代の女性たちが寝室の用意を最終確認し、はれて夜の営みがはじまった。
ちなみに王と女性が寝床をともにする寝室の周りには、8部屋の待機室があり、そこには宿直尚宮たちが待機していたとされる。
宿直尚宮たちの役割は王と女性の愛のコーチ役
興奮を抑制するために、「オッチェル センガク ハシヨ クマンハシプシオ(お身体にさわりますので、もうおやめください)」など的確なアドバイスを送ったとされる。
王は行為に集中できたのかと考えることは無粋である。血脈が王位の証であった朝鮮王朝にとって、夜の営みは国家存亡をかけた真剣勝負だったに違いない。
一方、次世代の王候補を授かることは、女性たちにとって一生に関わる問題。一例では、王子を生めなかった側室は、王の死後に王宮を追いだされるというしきたりがあった。
何が何でもチャンスを逃すわけにはいかない“王の女たち”は、懐妊前、懐妊後問わず、子宝に恵まれるべく、精がつく料理を重宝していたという。胡桃、豆腐、筍、あわび、鰈、いわたけなどを使った胎教料理も開発されている。また、黒豆や黒ゴマを使ったスイーツも、女性たちは好んで口にしたとされている。
宮女たちの間で密かに蔓延した同性愛
王妃や側室以上に大変だったのが、王宮で働いていた宮女たちだ。
宮女たちは幼い頃に入宮するのが一般的。しかも、定義上は王の所有物となったため、恋愛などもってのほかで、生涯独身を貫かなければならなかった。
歴史上には、数人の宮女が側室にまで上り詰めた例があるが、それらは奇跡に近い確率だったといえよう。
そこで、宮女たちのあいだで蔓延したのが「対食(テシク)」だった。これは「対面して食事をする」という意味だが、同時に「同性愛」の隠語でもある。
【関連】生涯処女でレズビアンも多かった?「王の女」と見なされた宮女たち
朝鮮王朝後期の『英祖実録』や『燕山君日記』には、宮女たちが同性愛に走った様子が書きとめられている。それらによると、宮女たちの同性愛はお互いの体に入れ墨を入れ永遠の愛を誓うなど、一種の文化にまで発達していたようだ。また、恋愛関係のもつれから嫉妬が生まれ、宮女内の派閥争いに発展したという記録もある。
また、王妃候補だった女性と宮女の「対食」スキャンダルも記録として残っている。
第5代王・文宗が世子だった頃に妃になった世子嬪奉氏が、そのスキャンダルの主人公だ。名君であった父親・世宗の後を継ぐことになっていた文宗は、勉強に集中し過ぎるあまり世子嬪奉氏を顧みなかった。
すると、世子嬪奉氏は悲しみのあまり、召雙(ソサン)という宮女と「対食」してしまう。スキャンダル発覚後、2人は王宮を追放されてしまうのだった。
韓国時代劇では、おしとやかでひとりの男性を一途に想い続ける女性像がよく描かれるが、実際の王朝内の事情は、もう少し複雑だったようだ。】
【高麗・朝鮮王朝時代の「貢女」の実態とは
高麗時代から朝鮮王朝時代まで続いた「恥辱」
娘が候補になると、顔に薬を塗って傷を付けることも
「娘が生まれたら秘密にしたまま暮らす。
他人に知られるのが心配で、隣人にも
娘を見せられない。娘を隠していた事実が
発覚すれば、村全体が害を被ることになり、
親族を縛って取り調べ、屈辱を与える。
処女を選ぶ過程でわいろが取り交わされるが、
金がある者は切り抜け、金がない者は
連れて行かれる」
第24代高麗時代の王様・元宗15年(1274年)、
元が140人の婦女を連行したのを皮切りに、
第25代高麗王忠烈王・恭愍王代に元に対し献上した貢女は
170人以上、44回に上った。
朝鮮王朝時代にも、太宗から孝宗の時代にかけて、
明・清に対し9回にわたり146人が献上された。
学界では、中国の高官が私的に連れて行った
ケースを合わせると、数千人に上ると推定している。
中国から、貢女を選ぶ「採紅使」が訪れると、
朝廷では貢女選抜機関を臨時に設置し、
巡察使が各地を物色して回った。
だが、民衆の抵抗は激しかった。
孝宗の時代、慶尚道の鄭煌(チョン・ファン)
という人物は、娘が貢女候補になったことを
知るや、娘の顔に薬を塗って傷を付けた。
また、娘を出家させるケースもあった。
高麗時代には、乳飲み子を乳母が抱いて
嫁がせることまであった。
そのため朝鮮王朝時代には、世宗が
「12歳以下の女子については婚姻を禁ずる」
という法令を公布しなければならないほどだった。
朝鮮王朝時代の太宗8年4月、各地から
処女30人が選ばれ、ソウルに移送された。
父母を亡くして3年以内の女性や、
息子がいない家の一人娘を除いた7人が、
景福宮での最終審査に臨んだ。
しかし中国の使臣は「美しい女がいない」
として官吏を棒で打とうとした。
娘たちも指名を避けようと、体に障害が
あるかのように口をゆがめたり、
足を引きずったりした。
最終的に、娘たちの父親は全員罷免されたり、
流刑に処されたりした。
同年7月、再び選抜が始まった。
太宗は「処女を隠した者、針灸を施した者、
髪を切ったり薬を塗ったりした者など、
選抜から免れようとした者」について、
厳罰に処するという号令を下した。
中国は大陸に新たな権力が誕生したり、
国内の国家権力が不安定になるたびに
貢女を要求した。
高麗や朝鮮の新たな支配者にとって、
大国の承認を得ることは最大の急務だった。
世宗でさえ、貢女の献上は
「国内の利害のみならず、外国にも関係する
ことなので、ただ(中国皇帝の)令に従うのみ」
と語った。
「貢女は、中世国家の欲望と男性の欲望が
凝縮された国家間の力学関係から生じた副産物。
特定の時期に起こった事件というレベルを越えたものだったのです。
【16世紀末に豊臣秀吉が突然,朝鮮半島を侵略し(文禄の役1592〜1596年,慶長の役1597〜1598年),日本軍は一時朝鮮半島の大半を征服したが,明(中国の江南を根拠地として、全国を統一した漢人王朝1368―1644)の救援と秀吉の死去によって撤退した。1600年に明(中国漢人王朝)の軍隊は撤収したが,次の災いが迫っていた。1619年,後金(後の清)のヌルハチが率いる軍勢が明・李朝朝鮮の軍勢と衝突した(サルフの戦い)。朝鮮国王の光海君は出兵を渋ったが,先の文禄・慶長の役における救援の恩義もあり,1万の兵力を出した。明・朝鮮の連合軍は装備で圧倒的に優れていたが,連携を欠いたため各個撃破され,4万5千人の死傷者を出して敗北した。国力を増強した清のホンタイジは,1636年12月,朝鮮に10万の兵を出し,各地を征服した。1637年2月,敗北した朝鮮国王の仁祖は清軍陣営に粗衣で出頭し,最上壇に座るオンタイジに向かって最下壇から臣下の礼を採ったとされる(丙子の乱1636〜1637年)。このシーンは韓国映画(「神弓」2011年作,キム・ハンミン監督)でも描かれており,民族痛恨の悲しい場面である。
こうして朝鮮は清国(当時の中国)の冊封体制に組み入れられることになったが,その代償は大きかった。黄金100両,白銀1000両,20余りの品物を毎年献上する義務を負わされた。このときに拉致され国民が後の朝鮮族の一部となった。この体たらくを招いた原因は,1636年に清(当時の中国)の皇帝に即位したホンタイジが朝鮮に対して服従を求めたとき,朝鮮の朝廷内で服従派と主戦派が大激論となり,結局,大勢を占めた主戦派に押されて仁祖は清の要求を拒絶,対戦姿勢をとったことにある。これがホンタイジを激怒させ,朝鮮への侵攻を決意させた。仁祖は状況判断を誤ったのである。その後250年間,日本が日清戦争で清を打ち破るまで,朝鮮の隷属が続いた】
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