サイレント・ウィッチ 沈黙の魔女の隠しごと

依空まつり/カドカワBOOKS公式

プロローグ ウォーガンの黒竜 ①

 ──ケルベック伯爵領ウォーガン山脈に黒竜が現れた。


 その報告はケルベック伯爵領のみならず、リディル王国全土を揺るがし、人々を恐怖の渦に陥れた。

 竜は災害だ。家畜や人を襲い、時に街一つを壊滅させることすらある。中でも黒竜は、リディル王国史上でも二度しか登場していない伝説級の大災害であった。

 黒竜の炎は、地上のありとあらゆる物を焼き尽くすめいの炎。

 国の魔術師達が束になって防御結界を張っても、その炎は結界ごと魔術師を焼き尽くし、黒竜が現れた土地は焦土と化すという。

 黒竜が出没したという過去二回の記録では、街が複数消え、王国は半壊状態になったとされていた。

「イザベルお嬢様、もうこのお屋敷も危険です。奥様のご実家へ避難を」

 侍女のアガサの言葉に、ケルベック伯爵令嬢イザベル・ノートンは険しい顔で首を横に振った。

「いいえ、わたくしは最後までこの屋敷を離れません」

 イザベルはまだ一五歳になったばかりの娘だ。

 だがりんと前を見据えるその横顔には、代々この土地を竜から守ってきた伯爵家の人間としてのきようがあった。

 リディル王国で最も竜害が多い東部地方にて、長年、竜とたいし続ける一族。それがケルベック伯爵家だ。

 ケルベック伯爵家の歴史は、竜との戦いの歴史。

 イザベルはこの年までに、何度も竜害を目の当たりにし、その惨劇を身をもって味わっている。

 伯爵家を慕ってくれる領民達の育てた作物が食い荒らされ、建物が壊され、時に人や家畜が犠牲になるところを、何度も何度も何度も何度も、その目で見てきたのだ。

「騎士達が最前線で戦っているのです。それに、お父様も現場で指揮をとられている。娘のわたくしが民を見捨てて逃げるなど、あってはならないことですわ」

 イザベルはキッパリ言いきると、れんな顔に少しだけ悲しそうな笑みを浮かべ、侍女を見つめる。

「アガサ。長年、我が家に仕えてくれてありがとう。貴女あなたには、いとまを出します」

「いいえ、いいえ、お嬢様……このアガサも最後までお供します」

 竜害に耐え続けてきたのは、伯爵家の人間だけではない。この地に住むすべての民が、伯爵家と共に竜と戦い続けてきたのだ。

 イザベルに仕えるアガサもまた、若い娘ながらに肝が据わっていた。

 決意に満ちたアガサに、イザベルは泣きそうな顔で「ありがとう」と礼を告げる。

 いずれ黒竜が騎士団を突破したら、ケルベック伯爵領は焦土と化すだろう。それでもイザベルは、最後の最後までこの屋敷を守り続けるつもりだった。

 父が留守にしている今、この屋敷を守るのは自分の使命なのだ。

「イザベル様……っ! アガサ姉さんっ、大変だ……っ!」

 ノックも無しに扉を開けて室内に駆け込んできたのは、アガサの弟で馬丁のアランだった。

 最悪のしらせを覚悟するイザベルとアガサに、アランは頰を紅潮させて告げる。

「王都から来た魔術師が……黒竜を撃退した!」

 アランの言葉に、イザベルは我が耳を疑った。

 竜退治にけた竜騎士団が、王都から応援に来たことは知っている。それと、その竜騎士団に一人の魔術師が同行していることも。

 竜騎士団に同行しているのは、リディル王国の魔術師の頂点に立つ七賢人が一人。その名も……。

「〈沈黙の魔女〉だ! 〈沈黙の魔女〉が、たった一人で黒竜を撃退したらしい!」

 興奮を隠せない様子のアランを、姉のアガサがまゆをひそめてたしなめる。

「アラン、それはいささか誇張がすぎますよ。いくら優れた魔術師だからって、一人で黒竜を追い払うだなんて……」

「本当なんだって! 〈沈黙の魔女〉は竜騎士団も連れずに、たった一人でウォーガン山脈に入って、黒竜を撃退したんだ!」

 竜のうろこは非常に硬く、魔力耐性も高い。故に、並の魔術は簡単にはじいてしまうと言われている。

 竜を倒すなら鱗の薄いけんか、あるいは眼球をねらうしかない。

 だが、飛行する竜を相手にそれがいかに困難かは言うまでもなかった。

 実戦に長けた竜騎士団でも、竜退治には非常に苦戦すると聞く。

(それを……たった一人で?)

 にわかには信じ難いここで、イザベルはアランにたずねた。

「……被害は?」

「死傷者ゼロです!」

 イザベルの愛する領民が誰一人犠牲になることなく、歴史的な災害を回避することができたのだ。これを奇跡と言わずして、何と言おう。

 あぁ、とイザベルが感極まった声をあげたその時、アガサがハッと顔を上げて窓の外を凝視した。

「お待ちください、あれは……っ」

 アガサの視線の先を目で追えば、空に黒い何かが見えた。

 最初は鳥の群れかと思ったそれは、次第に大きくなっていく。

 その輪郭が鮮明になった時、イザベルは全身の血が音を立ててひいていくのを感じた。

 イザベルは窓を開けるとバルコニーに飛び出す。

 そしてアガサが止めるのも聞かず、手すりから身を乗り出して空を見上げた。

「あれは……っ、翼竜っ……」

 翼竜は竜の中でも下位種で、知性が低く、火を吐くこともない。だが、その機動力から繰り出される鋭い爪の一撃は人間にとって充分な脅威だ。

 ある程度大きく育った翼竜は基本的に群れたりはしないが、己よりも上位種である大型竜が近くにいる時、翼竜は大型竜をボスにして群れをなす傾向がある。

 おそらく空に見える翼竜の群れは、ウォーガン山脈の黒竜をボスにして集まったのだろう。

 そして黒竜がいなくなったことで統率が取れなくなった翼竜達は、黒竜を追い払った人間に怒り、きばこうとしている。

 イザベルは身を乗り出したまま翼竜の数を数える。その数が二〇を超えたところで、手すりから体を離し指を折るのをやめた。

 竜の弱点は眉間か目。ゆえに翼竜を駆逐する際は、地面に引きずり下ろさなくてはならない。

 縄付きの大型弓を撃って牛に縄を引かせ、地に引きずり下ろしたところでトドメを刺す。

 言葉にするのは簡単だが、一匹駆逐するだけで多大な労力が必要になるのだ。その過程で犠牲が出ることも少なくない。

 まして、竜と長年対峙してきたケルベック伯爵家でも二〇を超える翼竜だなんて前代未聞だ。

 ギャアギャアとつんざくような鳴き声が次第に大きくなり、灰色の空を翼竜の群れが覆っていく。

「お嬢様、中にお入りくださいっ!」

 アガサがイザベルの手を引いた瞬間、強い突風が二人の全身を襲った。屋敷に接近してきた翼竜が巻き起こした風だ。

 風に飛ばされぬよう、バルコニーの手すりを握りしめたイザベルは、確かに見た。翼竜のギョロリと大きな目が、己をとらえるのを。

 あぁ、とイザベルが絶望の吐息を漏らしたその時。


 空に、門が開いた。



 (イラスト:藤実なんな)

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