第30話

 校舎の正面玄関は、祭りの喧噪から切り離されたみたいに静かだった。人気のない校門にカラフルなアーチが寒々しい。空はすっかり漆黒に染まっていて、雲の切れ間から半分の月が見え隠れしていた。


 僕たちは並んで段差に座り込んだ。

 小峰こみねは「それで話って?」と急かしてきたが、いきなり本題に入るのはどうかと思い、僕はそれを流して雑談から入る。


「ついに男子とも話せるようになったんだな」

「うん。ここ最近片桐かたぎりくんと話すことが多かったから、苦手意識も消えたみたい。昔のトラウマとかどうでもよくなってきた」

「そっか。お役に立てたようでよかったよ」

「えへへ。演劇の時といい、片桐くんには助けられてばっかりだね」

「お互い様だろ」

「わたしが片桐くんのこと助けたことなんてあったっけ?」

「あるよ。ほら、僕が体育館で写真撮ってた時にさ、飛んできたボールをこう、バチッと」

「あ、そういえば。そんなこともあったねぇ」


 小峰は懐かしそうに目を細める。

 あの頃は小峰と話すことすらためらっていたのだ。

 その時に比べたら、僕たちの関係はかなり変化した。


 ――そして、僕たち個人も。


「……あー。その、あれだ」


 僕は照れくささに視線を泳がせながらも、


「そのメイク。似合ってるよ。すごく綺麗だと思う」

「~~っ!」


 小峰は顔を赤くして肩を震わせる。

 たぶん僕も同じような顔をしている。


「あ、ありがと。……実はね、これ、片桐くんに見てほしくて空木さんにお願いしたんだ」

「えっ……⁉」

「あの、なんて言うか……成長の証? みたいな」

「あ、ああ……そうだよな……そういうことだよな……」


 一瞬、小峰が僕のために――なんて自惚れた想像を巡らせてしまったことに身体を縮ませる。


「わたしね、片桐くんと話すようになってからかなり変わったと思うんだ」


 小峰は顔を上げて言った。


「今は、もっと学校生活を楽しもうって思えるようになったの。前まではひたすら自分を隠して『お勤め』って感じだったけど、最近は『わたし普通に学生してるー!』みたいな」


 最近もなにも前から普通に学生だろ、という突っ込みは飲み込んだ。

 彼女にとって、学校とはそういう場所だったのだ。

 王子様の勤め先。宮殿なんて立派なところじゃないが、それでも王子に求められる振る舞いというのはやはりある。

 そんな『仕事』から解放された小峰はえとした顔つきで、


「だから、片桐くんには本当に感謝してます」


 ペコリと頭を下げた。


「顔上げろって。僕はそんな感謝されるほど大したことしてない」

「それでもいーの。わたしが勝手に感謝してるんだから、適当に受け取っておいて」

「……そうか。小峰がそう言うならそうしておくよ」


 そこで一旦、会話が途切れた。

 お互い話すことなく雰囲気に身をゆだねる。

 気まずさはなかった。むしろこの沈黙が心地良かった。

 ふと、地面に落としていた視線を持ち上げる。小峰の横顔を覗くと、形の良い輪郭りんかくが月明かりに照らされているのが目に映った。

 綺麗だと思う。本当に。心の底から。


「僕も、小峰に伝えなきゃならないことがあるんだ」

「なに?」

「小峰はある程度知ってると思うけど、うちは……僕の家族は、いわゆる普通の家庭とはかけ離れてる」


 彼女は黙って、僕の言葉を待った。


「父親がいないとか、母さんが病気がちとか、そういうのは昔からだったから、まだ耐えられた。けど、二年前姉さんが精神を病んだ時はこっちまで気が滅入ったよ」

めぐみさんが……」


 小峰は少なからず衝撃を受けたようだ。言葉を失っていた。


「ああ。その時は本当に大変で、僕も高校辞めて働いた方がいいんじゃないかとか考えたりしたんだ。……まあ、さいわいそこまでの窮地きゅうちには至らなかったんだけど、それでも我が家が不安定なことは変わりないしな。余裕がないっていうか、青春を謳歌おうかしようみたいなのは、あまり考えてこなかったんだ」

「……」

「でも、最近はわりと気持ちが休まることが多かった。……たぶん、小峰のおかげだ」

「え、わたし?」


 小峰は目を見開いて自身を指さす。

 僕は頷いて、


「小峰といる時は、日常の苦労を忘れるくらい楽しかったんだ」


 真っ直ぐ目と目を合わせて言う。

 小峰の顔には動揺が浮かんでいる。

 きっとこの後に続く言葉を見通している。


「その……えっと……だから、さ」

「……うん」


 ――言え!


「僕は……小峰のことが……!」


 喉に絡むようにわだかまった言葉を吐き出そうとした、



 瞬間――



「あ、二人ともこんなところにいたんだー」



 いつの間にか、僕たちの正面にはクラスメイトの女子が立っていた。


「早くしないとフォークダンス始まっちゃうよ」


 あっけらかんと言うその小柄な女子の後ろから、これまたバタバタと数人のクラスメイトたちが駆け寄ってきて、


「ちょ、ちょっと乃子のこ!」

「空気読みなよめっちゃいい雰囲気だったのに!」

「え、でもフォークダンス始まっちゃうし」

「二人にはフォークダンスより大事なことがあんの!」

「ごめんね二人とも! この子にはしっかり言い聞かせておくから!」


 そう言って、彼女たちは「もう音楽が……フォークダンスが……」と呟く女子を強引に引きずって校舎の死角へとはけて行った。


「……」

「……」


 僕たちはお互いに顔を見合わせた。


「あはは……なんか変な感じになっちゃったね」

「……だな」

「そういえば片桐くん、話の続き、いいの?」

「あ……」


 覗き込むように問われ、僕は答えにきゅうする。

 やがてかすれた声で、


「いいんだ、大した用じゃなかったから」


 そう言うと、小峰は「ふーん。そっか」ともう一度夜空を見上げた。

 遠くからは『マイムマイム』の軽快なリズムが聞こえてくる。

 校舎の影から漏れる炎の明かり揺らめいている。

 ひゅう、と追い立てるような風が吹いた。秋の訪れを感じる冷たい風だった。

 小峰は二の腕をさすりながら立ち上がる。


「行こ、片桐くん。もうフォークダンス始まってるっぽいし」

「……おう」


 彼女に促されるまま、僕はグラウンドへと向かった。

 途中、嘲笑あざわらうように舞った砂埃すなぼこりが目に入って、僕は目をしばたたかせた。

 


     *



「このいくじなしがぁぁぁああああ……!」


 文化祭が終わり、その日の夜。

 僕は勉強机に突っ伏して頭を抱えていた。


「なにが男だ……大事なところで逃げやがって……」


 うめくように吐いた言葉は誰に聞かせるでもなく自分に返ってくる。

 どんな罵詈雑言ばりぞうごんすら生ぬるい。

 壁に貼られた「ちから」の一文字が、今は直視できない。

 あの時。


『僕は……小峰のことが……!』


 告白しようとして、空気の読めないクラスメイトに邪魔された時。


 ――安心したんだ。僕は。思いを告げる絶好の機会を失ったことに。


 それがなおのこと自責の念を加速させた。

 やろうと思えば、あの時先を行く小峰の手を掴めたはずだ。

 なのに、それをしなかった。

『大した用じゃない』? そんなわけない。人生初の大勝負だった。

 だが、僕は嘘をついてまであの場を流してしまった。


 小峰と手をつないでフォークダンスを踊った。

 隙を見て彼女をもう一度呼び出して思いを伝えることだってできたはずだ。

 だけど、僕は言えなかった。

 せっかく心を決めたのに。ここで終わらせると誓ったのに。

 ビビって逃げ出してしまった。


 狂騒きょうそうの非日常が終わり、家に帰ってから後悔が雪崩なだれのように押し寄せて来た。

 自罰じばつ的な気持ちもあって普段の二倍筋トレをしても、それは収まらない。

 乳酸のたまり切った身体がゴムみたいに重い。

 時計を見れば、すでに午前0時を回っていた。

 このまま床に伏していたらカーペットと同化しないだろうかと考えたが、そんなわけないし、明日も学校はある。


「寝なきゃ……」


 半ば強迫的な観念に急き立てられ、僕は布団に潜り込んだ。


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