第3話

 僕は体育館での撮影を終えて、更衣室がある区画のトイレで用を足していた。

 ジャバジャバと手を洗いながらさっきのことを思い返す。


 ――お礼、言いそびれたな。


 助けてもらったのに、僕は小峰こみねに話しかけられた衝撃で「ありがとう」の一言も言えなかったのだ。

 そのことがしこりになって、未だにモヤモヤしていた。

 ぶっちゃけ僕から彼女に声をかけるのは非常にハードルが高い。

 さっきも表情筋とかまったく動いてなかったから、内心ではなにを思っていたのかわからなかった。

 でも、こんな気持ちを引きずったままだと据わりが悪いだろう。


 ――おし、今度会ったらさっきの礼言うか。


 そう心に決めてトイレを後にする。

 通路に出て、残していたテニスコートの撮影に行こうと歩き出そうとした時。

 ちょうど、小峰が向こうの方から歩いてきた。

 予想外に再会が早くて若干尻込みするも僕は勇気を出して、


「小峰!」

 名前を呼び駆け寄る。


「え?」

 振り返った彼女は、驚いたように目を丸くして僕を見た。


「えっと……なに?」

「あの、さっきはありがとう。助けてくれて」

「……? あー、あの時の。うん、どういたしまして」

「それと……とっさにお礼言えなくてごめん」

「いいよ。別に気にしてない」


 そこで伝えるべきことは伝え終えたのだが、僕はあえて会話を続けた。せっかく彼女と話せた機会を無駄にしたくなかった。


「小峰は今部活中?」

「うん。ちょっと怪我しちゃって、保健室行ってたんだ」


 見ると、彼女の足首にはテーピングがほどこされていた。

 運動部ともなればこんなのは日常茶飯事さはんじなのだろうが、僕は一応「お大事に」と声をかけておく。


「ありがと。片桐かたぎりくんは? 生徒会だっけ?」


 ……おお。

 僕は、小峰の口から自分の名前が出てきたことに感動を覚えながら、


「ああ。学校のホームページが新しくなるんだ。それで、そこに掲載する写真撮ってた」

「へえ、生徒会ってそんなこともやってるんだ」

「まあね。うちの顧問超テキトーだから、いろんな仕事押しつけられるんだよ」

「顧問?」

「生徒会にもそういうのあるんだよ。山岡やまおか先生が顧問なんだ」

「ああ、あのモジャモジャの……」

「そ、普段の授業もテキトーでしょ、あの人」

「たしかに」


 小峰は納得したように頷く。

 その表情には相変わらず微細な動きしか見られない。まるで硬質な仮面が貼りついているみたいだ。

 だが、初めて彼女と会話らしい会話が成立したことに、僕はそこはかとない充足感を感じていた。

 やはり小峰が男嫌いというのは単なる噂だったのだろう。



 そうしてしばらく二人で話していると、向こうの方から紺色ジャージの集団が歩いてくるのが見えた。

 さっきテニスコートにいた他校の男子生徒たちだ。

 ラケットを入れたバッグを肩にかけ、談笑しながらこちらに向かって歩いてくる。

 練習試合はもう終わったらしい。

 そんな彼らに気を取られていたら――


 ふと、隣にいた小峰の様子がおかしいことに気がついた。

 顔を伏せて口元をわななかせている。


「小峰? どうかした?」


 呼びかけても、反応がなかった。

 その顔は「王子様」には似つかわしくないほど青白い。


「おい小峰、本当に大丈夫か? 具合でも悪いのか?」


 心配になって彼女の顔を覗き込んだ――瞬間。

 目と目が合い、グイ、と腕を掴まれた。


「おわっ!」


 ものすごい力で身体を振られる。

 小峰は僕を掴んだまま一足飛いっそくとびに通路の端に行き、壁の陰にお互いの身を隠した。

 わけがわからない。

 僕はされるがままだ。


「ちょ、ちょっと小峰⁉ 一体これはむぐっ――」


 どういうことなんだ⁉

 そう訊こうとしたが、後半はまともな言葉にならなかった。

 ぼふんっ! と顔にクッションのようなものを押しつけられる。

 ふわふわとマシュマロのような二つの膨らみが僕の視界をさえぎった。

 自分の顔が埋もれているのはなにか、健全な男児である僕には容易に想像がつく。


 それは小峰のおっぱいだった。


 身長差の都合、僕と小峰が正対すると、ちょうど僕の顔が小峰の胸の位置にくるのだ。

 小峰の圧倒的な体格を前に、僕は為すすべもなく身動きを封じられる。

 必死にその拘束から逃れようと身をよじるが、


「大人しくしてて」


 頭上から小峰のドスの利いた声が降る。

 ギュッ、と身体を密着させるあつも強くなり、より一層脱出が困難となった。


「ぐもも……」


 天国のような、地獄のシチュエーションだ。

 女子特有の甘い匂いと、それに混じったほのかな汗の香りに脳がしびれる。

 彼女の着ているバレーのユニフォームは生地が薄く、むにゅむにゅと柔らかい感触が直に伝わってくる。

 加えて、僕のまたぐらには小峰のみっちりとした右太もも(しかも素肌!)が収まっていた。

 全身を包む柔らかな身体。彼女の体温に、僕の頭は沸騰しそうだった。

 ムクムクと情動が湧き上がる。

 気持ちがたかぶると同時に危機感がつのる。


 ――ちょ……これはマズい……シャレになんない……。


 僕は壁に接した背中を蠕動ぜんどうさせ、ずりずりとってなんとか小峰の胸から顔を出した。


「ご……小峰……くる……苦しいから……マジ、ヤバい……早くどいて……」


 僕が死にかけのセミみたいな声を出すと、小峰はハッとした表情で恐る恐るこちらを見降ろし、


「うわ⁉ ごめん片桐くん!」


 ようやく気づいたようだ。

 だが一歩遅かった。

 彼女は、自分の太ももに当たる感触に違和感を覚えたらしい。

 密着していた身体を引きがし、徐々に視線を下げていく。

 その先にあるのは、僕のズボンの、不自然なふくらみだ。


「……ウソ……なに、これ……」


 小峰は信じられないものを見たという顔をしている。

 僕は必死に弁解しようとするが、彼女の耳には届いていない様子だ。


 もうこうなれば――隠しようがない。


「……ああそうだよ! そういうことだよ!」

 僕はえた。


「小峰が急にそのデカいちち押しつけてくるからっちまったんだよ! 悪いか⁉ ああ⁉」

「え……? え……?」


 小峰は混乱していた。金魚のように口をぱくぱくさせ、目はぐるぐると落ち着きがない。だけどその視線だけはきっちりと僕の股間に向かっていた。

 僕は慌てて患部を抑えながら、


「一体なんなんだよ! なんか様子がおかしいと思ったら急に腕引っ張られるし、壁にぶつけられたと思ったら身体押しつけられるし、意味わかんないんだよ! ちょっと説明してみろコラァ!」


 盛大にキレ散らかす。

 喋っているうちにどんどん頭はヒートアップしていって、止まることはなかった。ついでに股間のふくらみも一向に収まらなかった。

 困惑した様子の小峰は「えっと……その……」と口ごもっていて、なかなか先ほどの行動の真意を喋ってはくれない。

 そんな彼女の態度にますます身体が熱くなる。


「大体なぁ! お前女子にモテすぎて自覚ないだろうけどかなり凶悪な身体つきしてんだよ! こちとら彼女いない歴イコール年齢の童貞なんだよ! そんなやつが女子の身体押しつけられたらなぁ! 興奮してっちまうに決まってるだろーがあああああああぁぁぁぁぁぁっっっ‼‼‼」


 言い終え、僕は「はぁ……はぁ……!」と肩で息をする。

 貯蔵されていたエネルギーを全て出し切った全力の咆哮ほうこうだ。

 だがやりきったという爽やかな達成感は数秒しか持たなかった。

 まず初めに、感情を爆発させたことによる疲労感がやってくる。

 喉は渇き、頬は引きったような痛みを発し、視界がぼんやりとかすむ。

 それから。


 ――あれ、僕、今なにを言ったんだ?


 テープを逆再生するみたいに自分の言動を振り返る。

 だらだらと嫌な汗が背中を伝った。

 頭が冷静になると同時に、霧が晴れたみたいに視界が明瞭めいりょうになる。

 眼前で仁王立におうだちしている小峰が、感情の読めない無機質な表情でこちらを見降ろしていた。


「あ……あの……小峰? これは……えっと……」


 今度は僕があわあわと慌てる番だった。

 なにか言わなきゃと思うのだが、「やっちまった感」で思考が混濁してなにも浮かんでこない。

 小峰は両手で自分の顔をおおいい、それからゆっくりとその手を下ろしていく。まるでなにかをぬぐい取るみたいに。

 そして。


「本当にごめん」


 そう言い残して走り去っていった。

 大きな背中がみるみるうちに小さくなっていく。

 僕は後ろ姿を追いかけることもできず、虚空に手を伸ばすことしかできなかった。


「お」


 ――終わったぁぁぁーーーーーーーー!


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