第1話

 珠香しゅかは大学からの帰路、とは言うもののその時はもう自宅アパートを目前にしていた。


 夕方の始まりの空。影は濃く路地に落ちているがまだ明るい光が目を刺す。


 家の鍵を取り出そうと右肩から下げたバックに左手を伸ばした時。


 珠香の左脇に手が差し込まれ、左胸を鷲掴みにされた。


 困惑。


 痛い、と思うことで精一杯で不快感や恐怖は浮かべる余裕がなかった。


 振り払うために勢いをつけて振り返った。

 左腕は空気を薙いだだけ。


 黒いシャツの男が走り去っていく。

 知らない男の後ろ姿が細い路地の影の中を遠ざかる一瞬が写真のように目の裏に焼きついた。


 自分の吐く息が浅い。

 喉はひゅっと呼吸を飲み込むだけで、悲鳴を上げて助けを呼んではくれなかった。


 混乱、混乱、混乱、混乱、そして。


 左胸の不快な痛みが漸く、自分が痴漢に遭ったのだという事実を浸透させる。


 爪と同じサイズの電動のこぎりで血管を押し広げながらズタズタにされていくような。

 それが脳みそに到達して眼球の裏を斬りつけて舌下に降りてきて全身を巡る。


 屈辱か怒りか恐怖か判別がつかない。


 ふっとその場にしゃがみ込んでしまいたいほどの疲労感が襲う。

 エスカレーターの止まる瞬間の浮遊感に似ている。

 ただそれに息苦しさというには足らない痛みが追加されている。


 珠香が止まったのは数瞬。


 男の背を確認してから、駆け足でアパートの扉を開け、身を投げるように飛び込んで閉めた。

 すぐさま鍵と玄関のU字ロックを掛ける。


 さっきの男が戻ってくるかもしれないという思考が真っ先に浮かびつつ、その可能性はかなり低いと分析してもいた。


 冷静にならなければと何処かが告げていたのかわざと緩慢に靴下を履き替えた。


 今更になって置時計に目をやり、まだ真っ白の印刷用紙に時刻を書き留めた。

 被害に遭った時間を正確に覚えている必要性を思いついたからだ。


 指先ががくがく震えていてそれを律儀に写し取った文字になった。


 警察を呼ぶべき?

 当然呼ぶべきだと思う、けど……。


 結局、警察に通報する前に聖良せいらに連絡を取った。


 自分の状況を説明しようと、出来得る限り淡白に事実を告げようと、努力したはずの珠香の声は上擦っていた。


 聖良も自分も狼狽していたが、彼女との通話の後に警察に通報した。


 近くの交番に赴くことになったらしい。

 らしい、というのは手元のメモ用紙代わりの印刷用紙にがくがくの文字で書かれていたからでそれを書いた記憶は混乱のため靄が掛かってしまっていた。




 聖良と合流して、彼女の車で交番に向かう。

 その中での何処かのタイミングだったと思う。


「でも、大したことなかったんでしょ?」


 大した被害には遭わなかったんでしょう? という意味だ。


 聖良のその台詞がどのような響きを持って発せられたかすら定かじゃない。表情すらも覚えてない。

 それを記憶することを自分の意識の外で拒絶しているような。


 そう尋ねた彼女の前髪が不安げに揺らいだことくらいしか分からない。


 珠香が口にした以上に酷い目に遭っていやしないかと心配だったのか、それ以上のことはないと悟って安堵したのか。


 分からない。彼女の言葉の真意を分かろうとすることも出来ない。


 その時の何もかもが色を失っているから。

 自分がどう答えたのかも覚えていない。呆然とし過ぎて。


 曖昧に流したのだとは思う。激怒していたりしたら喧嘩になった記憶が多少は残るはずだから。





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