21.王の物語

⑴井の中の蛙

 

 砂漠のように乾き切った声で父が言った。レグルスの記憶にある父親は、枯れ木のように痩せ、憔悴しょうすいした顔付きをしていた。


 正統なる後継者でありながら、レグルスは犠牲の魔法を継承しなかった。優秀なだけの魔法使いならば掃いて捨てる程いる。魔法界に必要なのは犠牲の魔法と呼ばれる唯一無二の魔法使いであった。


 

 その言葉を繰り返し、母は顔を覆ってさめざめと泣いた。女中が労わるようにして連れ出し、家臣が白い目を向ける。犠牲の魔法を継承しなかったと分かった時から、世界は氷のように冷たくなった。


 味方はいなかった。

 悲しかったのかも知れないし、悔しかったのかも知れない。その頃のことはもう覚えていない。


 レグルスは魔法の修練を重ねていた。血の滲むような日々だった。早朝に起き出しては裏庭で魔法陣を描き、帝王学を含む座学に打ち込み、王宮の書庫を読み漁った。


 脳裏に過ぎるのは、父と母の冷たい眼差しだった。


 彼等は口を揃えて言った。

 お前は選ばれなかったのだ、と。


 母は見放されぬようにと擦り寄り、父はまるで羽虫でも払うかのように退けた。その度にレグルスは母に責め立てられ、王宮は牢獄と化していた。


 。ーー自分は、期待に応えられなかったのだと理解した。


 或る日、妾の子である昴が王宮へやって来た。

 母はうやうやしく昴を迎え入れ、レグルスを見なくなった。


 昴は、犠牲の魔法を継承した唯一無二の魔法使いだった。だが、レグルスから見れば、彼は勉強も出来ず、戦うことも出来ず、強い信念も無い劣等種だった。そんな昴が犠牲の魔法を継承したというだけで母に迎え入れられ、その存在を認められている。それはレグルスにとっては堪え難い程の屈辱であった。


 昴を見る度に臓腑ぞうふを焼かれるような激しい怒りが込み上げた。それでも、レグルスには怒りをぶつける先が無かった。


 昴が王宮にやって来てから、レグルスの存在意義は失われつつあった。誰もレグルスを見ないし、認めない。いつも溺れているかのように息が苦しかった。


 何かに急き立てられるかのように魔法陣を描き、胸の中に湧き出す虚しさから目を背けた。誰かに助けて欲しくて、認めて欲しくて、受け入れて欲しくてーー、誰かに必要とされたかった。


 レグルスが風のエレメント、シルフを召喚したのは十歳の春だった。四大精霊の一つを呼び出し、その加護を得ることが出来るのはどの時代にも一人だけだ。

 レグルスに犠牲の魔法は無かった。けれど、シルフの加護を得た。家臣が掌を返して褒めそやす中、レグルスは母の元へ向かった。


 お母さん、聞いて。

 僕、シルフを召喚したんだ。

 犠牲の魔法は使えないけど、お母さんの力になれるよ。だから、だからーー……。


 その頃、母は流行病の為に病床に伏していた。

 病に侵された母は痩せ細り、骨と皮だけになっていた。それでも母に聞いて欲しくて、笑って欲しくて、褒めて欲しくて、抱き締めて欲しくて、レグルスは必死だった。


 今際の際、母が呼んだのは手を握るレグルスでもなければ、父である王でもなかった。

 母が求めたのは、犠牲の魔法使いーー昴だった。


 事切れた母の亡骸を前に、レグルスは果ての無い絶望と虚無感に支配されていた。泣くことすら出来なかった。


 母は自分を愛してはいなかった。その目に自分は映っていなかった。レグルスは、王に取り入る為の道具でしかなかったのだ。


 母の葬儀の後、レグルスは独りきりで自室に篭っていた。心に塞ぐことの出来ない大きな穴が空き、冷たい風が吹き抜けているようだった。食事は砂を食べているようで、いつになっても眠れない。


 自分を奮い立たせる唯一の柱は根元からぽっきりと折れてしまった。存在意義、自己肯定、全ては泡のように消えて行く。


 涙が一粒だけ溢れた。手癖で描いたエレメント召喚の魔法陣が滲み、淡く光った。

 虹色の羽を持つ可憐な妖精は、レグルスを背中から抱き締めた。


 大丈夫だよ、レグルス。

 シルフが言った。




「辛いことはもう、起こらないからね」




 レグルスは笑った。

 確かにそうだ。これ以上の辛いことなんて、起こりようも無かった。









 21.王の物語

 ⑴井の中のかわず









 父が死んだのは、レグルスが十五歳の頃だった。

 革命軍が台頭したことで視肉の確保に滞り、王家の威厳は灯火のようだった。


 王になったレグルスが最初に行ったのは、犠牲の魔法使いの軟禁であった。昴は無知で無欲だった。それが美点になることもあるだろうが、群雄割拠の戦国時代において昴の存在は余りに大きく、悪用しようとすればそれは赤子の手をひねるより容易い。


 犠牲の魔法使いである昴が兵器として軟禁されたことで、レグルスは形だけの後継者となった。出世欲は無かった。レグルスはただ、誰かに必要とされたかった。


 常に大局を見据える。

 目の前の犠牲に囚われて守るべき民の生活を脅かしてはならない。国とは人である。全てはシルフの教えだった。


 レグルスが即位して次に取り掛かったのは、視肉の廃止であった。犠牲の魔法に頼るつもりは無い。レグルスにとっては、正しく無駄な犠牲だったのだ。


 陰謀のひしめく王宮の中、レグルスの声は何処にも届かなかった。犠牲の魔法使いである昴を手中に収めていた王家が、受け入れるはずも無かった。逆にそれは形だけの王という存在を浮き彫りにし、レグルスへの不信感に直結した。


 それでも、レグルスは立ち止まらなかった。

 街を襲う魔獣の討伐では、レグルスは王の軍勢を率いて前線に立ち続けた。玉座では人の心は見えない。情勢は玉座で聞くよりも前線で見た方が正確に把握出来るし、信頼出来る指揮官もいなかった。

 前線に出る王など異例である。家臣の忠告を無視したレグルスの行為は更なる軋轢あつれきを生み、また人が離れて行く。


 人々は未熟な王を見縊みくびり、奔走する様を嘲笑った。

 伝令一つまともに通らない孤軍奮闘と息も凍るような四面楚歌。

 幾らシルフの加護を受けていたとしても、レグルスだけでは守り切れないものも多かった。多くの犠牲者を出しながら命辛々帰還したレグルスに掛けられるのは労りではなく冷たい視線だった。


 結果が得られず、苦汁を啜り、罪悪感と後悔で死にたくなる。戦死者の顔が網膜に焼き付き、遺族の慟哭が胸に突き刺さる。立ち止まることは許されない。


 ひゅうひゅうと、風の音が聞こえた。

 金糸の髪を風に踊らせながら、シルフは凛として諭した。




「例え汚泥に塗れても、その品位は失ってはならないわ。貴方は、王だから」




 シルフは他のエレメントに比べて比較的友好的な性格をしていた。レグルスが潰れそうになる度に背を押し、支えてくれた。


 王家への叱責は、王である自分が受ける。全ては自分の未熟さ故だ。

 古い体制を守ろうとする鳩派に対し、新しいものを取り入れようとする革新派であるレグルスへの不信感は日に日に募る。子供ですら躊躇ためらうような陰湿な嫌がらせに、心が粉々に砕けて行く。

 人々は、レグルスが何かを失敗れば嬉々として糾弾した。現状を最善と思い込み、保身の為に可能性から目を背ける。


 王宮の赤絨毯を歩くレグルスには、常に下世話な噂が付いて回る。

 空気の淀む吹き溜まりの王宮で、シルフだけが明るく見えた。




「彼等は心が貧しいのね」




 シルフは囁いた。




「失敗は恥じるべきことではないわ」




 シルフの本心が何処にあったのかは分からないが、レグルスはその教えを胸に刻み、抗い続けた。

 唯一無二の魔法が無いのなら、技を磨こう。人々に認められるくらい誠実に堂々と生きて行こう。畏怖ではなく尊敬されるような見事な王になろう。


 肩で風を切るには、向かい風の中でなければならない。


 だが、レグルスはいつも何かが足りないと枯渇していた。血湧き肉踊るような死闘も、薄氷を裸足で歩くような緊迫した駆け引きも、人々が敬い頭を垂れる統率も、何もかもが虚しく思えた。


 その後、軟禁していた昴が何者かの手を借りて脱走したと聞いた。警備体制の甘さを指摘し、怯えもなく王の指導力の無さだと叫ぶ家臣を、レグルスはやけに凪いだ気持ちで見ていた。


 脱走に手を貸したのは、エレメントだ。

 シルフが苦い表情で言った。成る程、エレメントも一枚岩ではないらしい。

 犠牲の魔法が奪われたのなら緊急事態だが、エレメントの力を借りた自主的な脱走ならば、まだマシだ。問題なのは、それが悪意のある第三者に奪われることだ。


 革命軍が台頭し、魔法界は混沌とした戦乱に陥った。レグルスは人々を守る為に魔獣を討伐しながらも、革命軍の動向を把握しなければならなかった。


 暁の蝙蝠と呼ばれる王直属の諜報部隊を頼ったこともあったが、レグルスは彼等を信用出来なかった。


 泥濘ぬかるみに嵌まり込んでしまったかのように、身動きが取れない。気持ちばかりが焦る。目の前の問題を一つ一つ乗り越えて行くしかないと分かっているのに、何処かで助けを求める声がすれば駆け出したくなる。


 昴の動向も気に掛かる。焦燥感に苛まれていたレグルスだったが、その再会は思うよりも早かった。


 昴は、サラマンダーと小汚いコソ泥を味方に付けてレグルスを糾弾した。



 ーーこんなものは、平和じゃない。助けを求めて伸ばされた手を踏み躙るような王家ならば、滅んでしまえばいい!



 体中の血液が沸騰するような凄まじい怒りが駆け巡った。己の意思とは離れ、唇がぶるぶると震え、歯の根ががちがちと鳴った。

 必死に憤怒を抑え込み、レグルスはサラマンダーを迎撃した。転移魔法によって消えて行く背中を忌々しく睨み付けることしか出来なかった。


 鬱屈とした日々を送っていた或る日、何の因果なのか特異点の片割れである航と出会った。戦闘時は鬼神の如く苛烈であるが、それ以外の時は驚く程に静かだった。


 寒村の寂れた酒場で普段は飲まない酒を飲み、酔い潰れるという醜態を晒した。お蔭で話すつもりも無い弱音と愚痴が零れた。航は呆れたように眉を下げながらも、辛抱強く耳を傾けてくれた。



 ーー他人から理解されたいなら、アンタも理解しようとしろよ。上に立つ人間なら、周りに支えられていることを知れよ。



 恵まれた子供の綺麗な正論とは、思わなかった。

 航の言葉は真っ直ぐにレグルスへ届いた。


 支えてくれる人なんて、いたのだろうか?

 自分が見てないだけで、本当はーー。


 王の軍勢の指揮官の一人、水属性の魔法を使うベガという女性がいた。或る時、彼女が卑しい家臣の陰口からレグルスを庇うのを聞いた。

 その時になって初めて気付いた。自分は一人ではなかった。支えられて来た。見ようとして来なかった。

 人がいないのではなく、自分に見る目が無かったのだ。


 レグルスの胸中に変化があったのはこの頃だった。

 特異点である航は双子の弟らしい。ならば、その兄にも会ってみたい。ーーそして、昴とも話してみたいと思った。

 身分や実力は別にして、同じ人間として話し合おうと思った。


 レオの村の酒場で再会した昴は言った。



 ーー支配が必要な時代もあっただろう。争いが認められる歴史もあっただろう。だけど、変革の波は目の前に来ている。革命軍の台頭や、自治権を求める人々、新しい思想。それが、その証明だ。



 あの頃の独善的で世間知らずだった昴とは違う。では、何が昴を変えたのか。



 ーーどんな世界で、どんな時代で、どんな状況であっても。自分の命も他人の命も、同じように大切だって言って欲しい。



 駄目かな、なんて弱り切った声で少年が言った。

 航の双子の兄、湊だった。

 こんな子供の綺麗事が、こんなにも胸を打つとは思わなかった。自分は井の中の蛙だったのだと思い知った。



 ーー全部を一人でやろうとすんなよ。仲間や部下を信じてみろ。それが最善なのか独善なのか、よく考えろ。



 地下牢に閉じ篭もったレグルスを、航が叱咤した。

 それが励ましの言葉だと気付き、レグルスは自然と笑っていた。灯火のような光が胸の中に広がって、視界が明瞭になる。ーー本当に、自分は何を見ていたのだろう。

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