20.ジャイアントキリング

⑴希望の使者

 抱き上げた身体は、小さかった。


 薄い酸素の中を黒焦げになった四肢が藻掻き、糸が切れるように音も無く停止した。地表を舐める炎の津波は今も轟き、空を鉛色に染めている。


 家も家族も何もかも失くし、静かに事切れたその子供は、もしかしたら少女だったのかも知れない。

 頭部の花飾りは魔法効果の為か、傷一つ付かずに焼け残っていた。


 白い花弁は珠のように折り重なり、ヒーローの母国では仏花とされた菊の花に似ている。


 歳も顔も性別すらも分からない黒焦げの遺体は、魔法の影響を受けて熱を帯びていた。堪らなくなって抱き上げると、炭化した腕は音を立てて折れてしまった。


 いつの時代も犠牲になるのは、力の無い人々だ。

 その場から動けなくなった昴の前に、ウルが立っていた。

 ウルは煤に汚れ、やつれた顔をしていた。

 昴の腕の中にある遺体に気付くと、ウルは膝を着いて焼け焦げた頭部を撫でた。


 もう動かない。

 死んだ人間は二度と生き返りはしない。

 そんな当たり前のことを突き付けられて、昴は何も出来ない愚かな両手が恨めしく、このまま切り落としてしまいたいとさえ思った。




「生きていたんだよ……!」




 質量を大きく削り取られた身体が、さらさらと崩れ落ちる。昴は奥歯を噛み締めた。


 タウラスの街での王家と革命軍の衝突は、魔法界全土に戦火を齎した。強者が弱者を虐殺する戦乱は、昴の最も恐れていたことだった。

 その中心地にいながら、昴は何も出来なかった。

 航に助けられ、湊に庇われ、ウルに守られ、誰一人救うことも出来ずに此処にいる。悲鳴が上がれば駆け付け、建物が崩壊すれば飛び出し、その度にウルに引き戻された。


 日を追うごとに争いは激化し、市街地は最早見る影も無い。昴の願った平等な世界も、救済を必要としない社会も、此処には無い。己の身を守ることに精一杯で、その為には戦わなければならない。


 夜の雨のような冷たい声が降って来た。




「アレが、来るぞ」




 ウルの赤い瞳は、地平線の向こうをじっと睨んでいた。火の海から粉塵を巻き起こし、何かがやって来る。岩雪崩のような地響きと共に現れたのは、夥しい数の化物だった。


 スピカ。

 昴は絞り出すような声でその名を呼んだ。

 しかし、それはスピカの顔面から蜘蛛の手足の生えた異形の化物である。王家が創った視肉の失敗作は、見る者に等しく恐怖を与えた。


 逃げ惑う革命軍に向かって牙を剥き、耳元まで裂けた口は渾身の力を込めて肉を噛み千切る。スピカの顔をしていても、これは別の化物だ。

 革命軍を殲滅する為に放たれた視肉は、今では新鮮な血肉を求めて手当たり次第に襲い掛かっている。


 弱者が強者を蹂躙する。

 因果の深さに昴は愕然としていた。


 その時、頭上がぴかっと光った。

 王家か、革命軍か。

 身構える昴とウルの前に、金色に輝く柔らかな雲が舞い降りた。中から現れたのは白銀の甲冑に身を包んだ王の軍勢であった。


 王の軍勢は視肉の援護をするかのように、人々諸共革命軍を押して行く。薙ぎ倒される住居が悲鳴を上げ、辺りは阿鼻叫喚の地獄絵図となった。


 ウルが魔法陣を広げ、二人の身体は空に浮かんだ。地上戦は苛烈を極めている。しかし、空中は高度な魔法による激しい攻防が繰り広げられていた。

 凄まじい強風と雷轟が世界を支配し、まるで積乱雲の中を彷徨っているかのようだった。


 ウルが逃げ場を求めて駆け巡る。悲鳴と怒号が響き渡り、天地も解らない。胃の中が引っ繰り返りそうな浮遊感に襲われ、昴はただ堪えることしか出来なかった。


 背後から放たれた攻撃によって、辺りが昼間のように明るくなる。雷鳴が数瞬遅れて轟いて、革命軍の前線を一掃した。雷の槍は首を擡げ、第二波を放とうとしている。

 絞り出すような声で、ウルが言った。




「レグルスだ」




 魔法界の支配者、王の中の王。

 昴にとっては因縁の相手である。レグルスは巨大な魔法陣を展開し、神の鉄槌にも似た強力な攻撃を放った。

 血液が沸騰する程の熱波だった。前線を崩された革命軍は立て直す間も無く、魔法界最強の攻撃を受けなければならない。象と蟻の戦いだ。レグルスの魔法は他と一線を画す強烈な攻撃だった。


 ウルは魔法陣を操作し、戦闘から離脱しようと空中を駆け巡る。身体がバラバラに砕かれてしまいそうな激しい重力を受けながら、昴はレグルスを睨んだ。


 王が自ら出陣するということは、追い込まれている証拠だ。視肉まで持ち出して、人民を巻き込んでしまっている。


 レグルスは荒い呼吸をしていた。肩は大きく上下し、疲弊していることは明白だ。

 背後に現れたベガが諌めるように声を上げる。しかし、レグルスは下がらなかった。




「部下が命を散らさなければならないような局面で、安全な場所から眺めているような者は王ではない!」




 顔を上げたレグルスが、振り絞るようにして吠える。




「俺は、担がれるだけの王ではないぞ!」




 悔しそうなレグルスの表情は、昴の記憶の中にある冷酷無比な支配者とは異なっていた。


 あの頃のレグルスとは違う。

 何故だ。何がレグルスを変えた?


 レグルスもシリウスも、戦局が見えているのだろうか。目の前の勝利に拘って、本質を見失っている。此処には人の狂気が溢れている。


 どっちが正義か分かるか? 俺には分かんねぇ。

 航の声が蘇り、昴は泣きたいような、叫びたいような衝動に駆られた。


 なあ、ヒーロー。

 此処にいるよと、声を上げてくれよ。


 絶望に視界が暗くなる。

 誰も間違っていない。けれど、誰も正しくない。

 こんな醜く憐れで、残酷で酷い争いが他にあるだろうか。




「……どうして」




 ぽつりと、昴は零していた。




「どうして、分かり合えないんだ……」




 見える世界も、目指す社会も同じはずだ。それでも、勝敗が決まるまで争いは止まらないのか。

 その時、昴の薄闇に包まれた視界は、突如として赤く染まった。地上から噴き出した火柱が、嵐のような粉塵を吹き飛ばして行く。


 新手か。

 レグルスが警戒し身構えるのが見えた。轟々と唸りを上げる炎は、まるで茹だった頭に冷水を浴びせるかのように戦場を横断した。混乱に包まれる両軍の間で、昴だけがその魔法を知っていた。


 重く垂れ込めた雲間から、一筋の光が差し込む。

 七色に輝く光の中に、紅蓮の炎が見えた。それが誰なのか、昴は知っていた。









 20.ジャイアントキリング

 ⑴希望の使者









「ロキ」




 火のエレメント、サラマンダー。

 気紛れなエレメントはやけに真面目な顔付きで戦場をぐるりと見渡した。そして、その後ろに陽炎が浮かび上がる。


 昴は彼等を見た時、まるでヒーローがこの混沌を鎮める為に現れたのではないかと錯覚した。しかし、其処にいたのは二人の少年だった。

 次元の壁を越えた二人は、嵐の中を難破する船が舵を取り戻したかのように、理性の光を瞳に宿していた。


 湊は目が冴えるような鮮やかな青色のシャツを纏っていた。背後に迸る火柱との対比が酷いコントラストを強調し、彼の姿だけが異質に浮かび上がって見える。


 航は黒いクルーネックのシャツと迷彩柄のワークパンツを纏っていた。眉間に寄せられた皺が、苛烈な衝動を押さえ込んでいるのだと分かる。手に握られたパルチザンからは真っ赤な房飾りが風鈴のように揺れていた。


 湊はロキと同じように辺りを見渡して、ロキに耳打ちした。動作だけを見ると幼く可愛らしいのだが、前科があるだけに胡散臭い。

 昴がその名を呼ぼうとした瞬間、ロキが掌を払った。

 途端、周囲は灼熱の炎に包まれた。


 昼間のような明るさの中、彼等は凛然と其処に立っていた。眼窩がぐっと熱くなり、肌一面に鳥肌が立つ。

 物々しい喧騒に包まれていた戦場は、水を打ったように静まり返っていた。


 子犬のように円らな瞳に透明な光を宿し、湊は前へと進み出た。ぴかぴかに磨かれた飴色のローファーが瓦礫の山を踏み抜く度に、天上から福音が聞こえるような気がした。




「ーー俺は、死んでも良いと思ってたんだ」




 仮面のような完璧な笑顔を浮かべ、湊はそっと零した。航の眉がぎゅっと釣り上がる。




「命の大切さなんて知ってるよ。でもね、自分の命よりも大切なものがあることも知ってる」




 初めて逢った時、彼等はまだ十歳だった。

 敬愛する父を喪い、茫然自失のまま、不条理な現実に抗い続けていた。


 彼等は十五歳になった。

 理不尽に堪え、不平不満を呑み込み、信念を貫けず、それでも、歩みを止めなかった。


 そして、今。

 湊の目には何が見えるのだろう。

 航の心には何が映るのだろう。


 昴は黙って、彼等の言葉に耳を傾けていた。




「信念とか主義主張とか、何が大切かは人による。生まれ持った価値観は変えられない。人は分かり合えない」




 航は拳を握り締めていた。

 苛烈な気性を押し殺した彼等の姿は、この場所にいるどんな魔法使いよりも、ずっと理性的に見えた。


 絞り出すような声で、湊が言った。




「それでも、命が大切だって、言って欲しい」




 心地良い静寂だった。まるで、春の微風に吹かれているかのようだ。

 湊は顔を上げ、戦場に身を置く全ての人に訴え掛けていた。




「どんな世界で、どんな時代で、どんな状況であっても。自分の命も他人の命も、同じように大切だって言って欲しい」




 駄目かな。

 独り言のように、湊が零した。


 綺麗事も理想論も、弱音も泣き言も全部呑み込んで受け入れて来た湊の祈りが、昴には確かに聞こえた。


 それは、ただの言葉だった。

 理路整然とした演説でもない、ただの祈りだ。だが、一人一人と真摯に向き合う彼等の言葉を蔑ろにすることは誰にも出来なかった。


 航は堪えるように目を伏せていた。降り注ぐ煤が雪のように見える。誰も動けなかった。彼等の話を聞く以外の選択肢を見付けられず、ただただ口を噤んでいた。彼等の周囲に清浄な結界が張り巡らせられているようだ。


 ウルが茫然と言った。




「俺たちがあんなに必死になって止めようとして、それでも止められなかった争いが、魔法も武力も無く、止んだ。ーー言葉だけで」




 昴は頷いた。

 言葉には力がある。

 上辺ではない本当の、魂の言葉には。


 特異点と呼ばれた二人の瞳に自分が映っていた。澄んだ水面を覗き込んでいるかのような不思議な感覚だった。




「俺は、熱血は嫌いなんだよ。力で何でも解決って、むかつくんだよ」




 目尻を釣り上げて、航が吐き捨てる。

 湊は苦笑した。




「でも、航は正論も嫌いだろ」

「まあな」

「我儘だなあ。航は結局、負けるのが嫌なんだろ」




 憮然と口を尖らせて、航が言った。




「戦いに勝っても、死んだ人間は生き返らねえ。……あんな虚しい勝利は、二度と御免だ」




 それが何を指しているのか、昴には分かるような気がした。

 昴はレグルスへ目を向けた。虚脱に染まった藍色の瞳には、二人の小さなヒーローが映っていた。


 昴は少女の遺体を横たえ、レグルスに向かって歩み寄った。レグルスは暫し呆然としていたが、昴の存在を認めると、無表情に問い掛けた。




「これが、お前の言う希望か」




 昴はしかと頷いた。

 そうだと胸を張って、世界中に教えてやりたかった。

 こんな世界でも命が大切だと訴える彼等の背中を押すのは、きっと、名付けるとするなら愛とか勇気なのだろう。


 目に見えないものはないがしろにされ易い。けれど、確かに其処にはある。


 レグルスは溜息を吐いた。それは、魂まで抜けてしまいそうな深い溜息であった。




「時代は巡り、歴史は繰り返す。栄枯盛衰がこの世の摂理であるように、形あるものはいつか壊れる」

「ああ……」

「だからこそ、こんな時代があっても良いと思う」




 憑き物が落ちたかのように、レグルスは晴れ晴れと笑っていた。


 今なら、レグルスの気持ちが分かる。

 彼は立派な王だった。弱者に歩み寄り、民を大切にし、骨を砕き政治を行って来た。肩書きだけの王ではない。




「魔法界の王、レグルスの名に於いて、政権を民衆へ返還する」




 その時、雲間から光が差し込んだ。夜明けだ。

 体中に活力が漲り、今なら空だって飛べるんじゃないかと思う程の万能感に酔い痴れる。


 レグルスの声には熱がある。

 体の芯をびりびりと震わせるような凄まじい空気感だった。


 やはり、彼は王なのだ。

 ロキは、彼は王の器ではないと言った。けれど、彼は何の見返りも無く人々の為に富も名誉も捨てることが出来る。

 覚悟の無い人間には、何も成し遂げることは出来ない。


 何処からか拍手が起こった。それは水面に立つ波のように戦場へ広がって行く。茫然と立ち尽くす王の軍勢と、涙を流す革命軍。




「王の軍勢は忠義の元に、人々の生命と矜持を守ることを此処に誓え」




 威圧的なレグルスの声は、カリスマ性と呼ぶに相応しかった。王の軍勢は手にしていた武器を下ろし、膝を着いた。


 革命軍の勝利なのか。

 昴の懸念はレグルスに伝ったらしい。




「これ以上の争いは無用だ。国とは人である。謝罪を求めるのならば幾らでも頭を下げるし、首が欲しければ喜んで差し出そう」

「それはなりません!」

「永きに渡る戦乱の責任は誰かが取らねばならない。王家の独裁に苦しんで来た民に出来る唯一の償いが死ならば、甘んじて受けよう。ーーだが!」




 レグルスは両手を下げた。

 熾烈を極める戦場で、矛も盾も投げ捨てた彼の姿は、裸の王である。その身を守るものは何も無い。




「この子供の魂の訴えを、忘れてはならない!」




 金色の髪が風に揺れ、まるで豊かな麦畑を眺めているかのように見えた。昴は其処に確かな希望を抱き、平和を想起させた。




「己の命よりも大切なものは誰にでもあるだろう。その子供にも。だが、命を懸けるということは、死んでも良いということではないぞ!」




 昴は足を踏み出した。

 此処で黙っている訳にはいかなかった。




「王家だけの責任じゃない。ーー否、罪と呼ぶなら、それは魔法界に生きる全ての人の罪だ」




 それは当然、昴も。

 誰が悪い。誰を責める。誰のせいにすれば救われる。恐らく、答えは無い。


 犠牲の魔法使い、魔法界の王、特異点と呼ばれた二人の子供、エレメント。時代を変えるピースは揃っている。


 なあ、ヒーロー。

 力を貸してくれよ。


 昴は胸を張った。




「新しい時代が来る。誰も殺されない世界だ。それを紡いで行くのは王家でも革命軍でもない、一人一人の人間なんだよ」




 祈るように、昴は拳を握っていた。

 誰もが両手を下げている。其処此処で武器の落ちる音が聞こえ、狂気に染まった戦場に理性が戻って行く。

 長い夜が明けたかのようだ。




「終わったのか……」




 革命が成し遂げられた以上、革命軍には侵攻する理由が無い。王自らが政権を明け渡すと宣言した以上、王の軍勢にも戦う理由が無かった。


 昴は、特異点と呼ばれた二人の少年を見た。

 湊と航は張り詰めたかのような緊張感を滲ませていた。




「まだ終わってない。やっと始まったんだ」




 湊と航はロキへ目を遣った。




「やらなきゃいけないことがある」




 彼等の声は見事に重なり合っていた。

 ロキは転移魔法陣を広げた。淡い光の中で航が振り返る。




「俺たちはやるべきことをやる。昴は、昴のやるべきことをやれ」

「何なんだよ、それ」

「シリウスがいない」




 昴は、はっとした。

 確かに、シリウスがいない。王の軍勢と革命軍の全面戦争で、王であるレグルスさえも前線で戦っていた。その中でシリウスだけが影も形も無い。




「シリウスの狙いは革命じゃない……?」




 嫌な予感がした。手足から急速に熱が奪われていくような気味の悪い感覚だ。


 湊が鋭く言った。




「シリウスは必ず昴の前に現れる。だから、その時の為に準備をしないといけない」




 彼等には、何が見えているーー?


 昴は泡のように湧き上がる疑念を問い詰めようとした。けれど、辞めた。彼等には彼等の考えがある。味方ではないかも知れないが、敵ではない。

 代わりに、昴は一つだけ問い掛けた。




「ヒーローには会えたかい?」




 湊と航は目を真ん丸にした。

 どちらとも無く、声を殺して悪戯っぽく笑った。その姿は年相応に幼く見える。きっと、それが彼等の本来の姿なのだろう。




「分かってるくせに」




 湊は白い歯を見せて笑った。

 心の奥にぽっと火が灯り、体中が安堵に包まれる。


 良かったな。

 昴はその言葉を口にする間も無く、その場に座り込んでしまった。これまでの出来事が走馬灯のように思い出されて、今更になって酷く疲れを感じた。


 けれど、気力は漲っている。

 昴は拳を向けた。湊は表情をぱっと明るくし、航は苦々しく顔を歪めた。それでも向けられる拳の意味は変わらない。




「行ってらっしゃい」




 転移魔法陣の向こうに消える二人の姿を、昴はずっと見詰めていた。

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