⑹地獄の中で
下衆な男たちのカウントダウンが聞こえる。
子供を甚振ることに愉悦を感じるような変態だ。
非道な
湊は地面に耳を付け、追い掛けて来る浄化部隊の動きを把握しようとした。魔法使いから見れば意味の分からない行為だろうが、説明する暇も無かった。
いや、彼等はこれをゲームと呼んでいた。自分たちは狩られるばかりの草食動物。誰がどれだけ狩りをこなすのか競っている。
つくづく、悪趣味で非道なクズ共だ。
必死の形相で逃げ惑う子供の足には、不釣り合いな程の大きな
安全な場所があれば、夜明けまで隠れていたい。
湊が周囲を見回して状況を把握しようとした時、天空から風を切り裂くような奇妙な音が聞こえた。
それが何か目視するよりも早く、湊は声を上げていた。
「伏せろ!!」
次の瞬間、拳大の
直撃したら無事では済まないだろう。咄嗟に木陰へ隠れると、次は炎の
炎は草木を焼き、逃げ場を失わせて行く。この状態では、夜明けまで待つ間も無く狩られる一方だ。
雹と炎から身を隠しながら、湊は森の向こうへ意識を向けた。
この場所は把握されていない。だから、広範囲攻撃で
だが、その時、悍ましい悲鳴が轟いた。
鬱蒼とした森の闇に、誰かが立っている。
その体は真っ赤に燃え上がり、覚束無い足取りで助けを求めて当て所無く彷徨っていた。
被弾したのだ。
自分の状況を忘れ、湊は駆け寄ろうとした。けれど、それより早く、あの少年が駆け寄っていた。
「おい、しっかりしろ!」
火達磨になった子供へ、自身が焼けることも構わずに手を伸ばす。肉の焼ける嫌な臭いがした。
炎に包まれた子供は呪いの言葉と助けを求める声を交互に叫び、やがては糸が切れてしまったかのようにぱたりと倒れ込んだ。
炎は轟々と燃え盛っている。
あの少年は呆然とそれを見詰めていた。
湊は背後から聞こえる
「逃げるぞ。このままじゃ、的になる」
「置いて行けるかよ!」
「置いて行かなきゃ、お前が死ぬぞ!」
少年は苦々しく眉を寄せ、湊の手を払った。
後悔と憤怒を堪えているかのような、哀しい横顔だった。
知り合いだったのかも知れない。
湊は胸の中で祈り、走り出した。
どのくらい走ったのか分からない。
足元は不安定で、視界は不明瞭。敵が何処から攻めて来るのかも分からない。狩りというのなら、敵も姿を現すと思っていた。けれど、彼等がしたいのは狩りではなく、虐殺なのだ。出来る限りの惨たらしい死を望んでいる。
虫唾が走る。
命を軽んじる人は嫌いだ。そして、それを止めることも出来ない自分が一番嫌いだ。
肌を撫でるような霧雨の中、湊は少年と一緒に木陰へ逃げ込んだ。スタート地点からは随分と離れたはずだが、油断は出来ない。
木陰から周囲の気配を探り、湊は冷静さを保つ為に溜息を一つ零した。
「君の名前を訊いていなかった。俺は湊。君は?」
少年は訝しむように目を細めたが、そっぽを向いて言った。
「プロプス」
ああ、星の名前だ。
プロプスの名を聞いてから、何と無く、彼は悪い人間ではないような気がした。
意思の強そうなきりっとした眉と、黒目がちな円らな瞳。幼さの抜け切らない顔立ちは、まるで野生の鹿に似ている。
湊は腹に力を込めた。
「俺は君の敵じゃない」
他の何を疑われても、これだけは表明しておかなければならない。
プロプスは顔面に苦渋を浮かべていた。
「浄化部隊の回し者じゃないって、証明出来るのかよ」
「信じるかどうかは、プロプスに任せる。でも、俺はこのゲームをぶっ壊すつもりだ」
「どうやって」
「考え中」
湊は空を見上げた。鉛色の重い雲が立ち込めて、月も星も見えない。辺りは闇に包まれ、現在地も分からない。霧雨は音も無く降り注ぎ、足元に染み込んで追い詰める。
兎に角、情報が欲しい。
浄化部隊は、自分たちが
「俺は魔法が使えない。だから、プロプスの力を貸して欲しい」
「使えないって、どういうことだよ」
「そのままだよ。俺は魔法使いじゃないんだ」
プロプスが妙な顔をした。それが同情であると気付いた時、湊は怒りでも嘆きでもない不思議な感覚を抱いた。自己憐憫なんて、湊にとっては最も理解し難い感情だ。
憐憫は、利用され易い感情だ。
打算的な考えが浮かんだが、放逐した。
信じて欲しいと思うのなら、まずは自分が信じなければならない。それは湊が魔法界で学んだ数少ない教訓だった。
「別に魔法が使えなくてもーー」
湊が言い掛けたその時、周囲で聞こえていた雨音が変わった。ぽたりぽたりと粘性を伴って零れ落ち、気化する音がした。
鼻腔を突くような異臭だ。湊は咄嗟に口元を覆い隠した。プロプスの目が真ん丸に見開かれる。
「毒だ!」
途端、天の底が抜けたように大粒の液体が降り注いだ。湊は木の根元に穴が空いていることに気付き、プロプスの手を引いて転がり込んだ。
激しい雨音の中、子供の悲鳴が響いた。
誰かが、この毒の雨に打たれている。今なら間に合うかも知れない。助けに行けるかも知れない。
湊が身を乗り出した時、遠くから蹄の音がした。
それは獲物を追い詰めるかのようにゆっくりと、そして取り囲むように四方から迫って来る。
夜目は利く方だ。
しかし、其処に見えたのは、未知の生物であった。
真っ白な体毛は足元まで伸び、露出した足は人間と同じ形をしている。一見すると毛足の長い牛である。
額には黒々とした角が生え、毒の雨の中で不気味に光っている。
背中は歪に隆起していた。その中に、魔法陣の光が見えた。飛び出そうとするプロプスを羽交い締めにして、湊は懸命に押さえ込んだ。
振り返ったプロプスが怒声を上げると同時、幼い子供の悲鳴が響き渡った。何かを打ち付ける鈍い音、風属性の魔法陣。あの奇妙な生き物は魔獣だ。その背中には浄化部隊の誰かが乗っている。
毒の雨で弱り切った子供を甚振るように、遠くから狙撃して愉悦を感じているのだ。
怒りも嘆きも通り過ぎて、湊は呆然と立ち尽くしていた。
獲物を狩った男が、勝利に酔っている。
その仲間たちが悔しそうに捨て台詞を残して闇の中へ散って行く。プロプスは岩のように固まっていた。
獣の前足が、死んだ子供をぐちゃぐちゃと踏み潰して行く。ぐちゃぐちゃと、ぐちゃぐちゃと。
頭の中が怒りで真っ赤に染まっていた。
人間とは、もっとまともな生き物だったはずだ。
こんなゴミみたいな人間がいるはずが無い。
そう、信じたかった。
頭痛と目眩が押し寄せて、湊は後退った。枯葉の中に微かな違和感を覚えて視線を落とすと、地面に魔法陣が埋め込まれていることに気付いた。
子供たちを追い詰める為の罠だ。
腹が立つ。こいつ等、本当に、自分たちを殺すつもりでーー。
ぐるりと周囲を見回す。
視界がやけに鮮明で、耳鳴りがする。足元には魔法陣、頭の上には蜘蛛の巣状に走る木の枝。ぶら下がっている太い
湊は、プロプスを思い切り突き飛ばした。
目を丸めるプロプスはそのままに、湊は怪物に向けて怒鳴った。
「お前の獲物はこっちだ!!」
湊は怪物の前に躍り出た。
長い毛足に隠れた男が、次の獲物を見付けて嬉しそうに笑う。
プロプスの声は無視した。
「俺たちを殺したいんだろ」
蹄の音が響き渡る。
湊が踵を返して駆け出すと、怪物は速度を上げて追い掛ける。ぎりぎりまで引き付け、湊は頭上から垂れ下がる蔓に飛び付いた。
予期せぬ動きに男が制止を叫ぶ。しかし、怪物は躊躇いも無く飛び掛かった。
「ーーだったら、同じことをされても、文句を言うな!」
魔法陣が光った。次の瞬間、地面は忽然と消え失せた。其処に現れたのは、地獄の底まで続きそうな大穴だった。怪物が雄叫びを上げ、男の悲鳴が響き渡る。湊は息を弾ませていた。
男は怪物諸共、大穴の中へ吸い込まれてしまった。そうっと覗き込むと、大穴の底には無数の
俺が殺した。
湊は頭を殴られたような衝撃に蹲った。
自分は浄化部隊の素性も知らない。彼等にもきっと家族がいて、事情があった。自分は相手の話すら聞かず、身を守る為に殺したのだ。
プロプスが言った。
「逃げるぞ」
湊は頷いて、立ち上がった。
足枷が、重い。命の重みだ。
17.青い炎
⑹地獄の中で
泥を蹴り上げ、踏み躙る蹄の音が聞こえる。
夜の森には、青臭い湿気と血と、悲鳴と罵声が混ざり合っていた。
足枷を引き摺りながら、湊は走っていた。自分の現在地も、何処を目指しているのかも分からない。ただ、逃げなければならなかった。
時折、子供の断末魔の叫びが聞こえた。
また助けられなかった。自分はあと何回、助けを求める声を通り過ぎなければならないのだろう?
額から汗が噴き出して、頬を伝って落下する。
湊は袖口で汗を拭い取り、奥歯を噛み締めた。
「おい、彼処に隠れるぞ」
プロプスが言った。
闇に慣れたのか、プロプスは少し落ち着いたようだった。促されるまま茂みの中に身を潜め、湊は大きく息を吐き出した。大した距離を走った訳でも無いはずなのに、体が鉛のように重かった。
膝が震えている。
「お前、すごいな」
プロプスの言葉に嘘は無かった。
湊は答えなかった。
「俺の魔法は風属性だ。探索魔法には自信がある」
プロプスが掌を翳すと、淡い金色の光が魔法陣となって浮かび上がった。辺りに耳鳴りのような高音が静かに響き渡る。音波による探索魔法だ。
探索や偵察は、ウルの得意分野だった。その下位互換と思えばいいのだろうか。
プロプスは兎のように耳を
「この辺りに浄化部隊はいないな」
「ーーということは、他の誰かが追われてる」
行かなきゃ。
湊は立ち上がった。プロプスはやけに慣れた動作で手を引くと、湊を隣に座らせた。
「落ち着けよ。お前が行ったって、意味無いだろ」
「意味が無くたって、このまま黙っていられない」
「何に焦ってんの、お前」
問われて、湊は漸く自分が冷静ではないことに気付いた。
湊の緊張や焦燥は風船のように見る見る内に萎んでしまった。
「お前、何なの。ストリートチルドレンでもなければ、この街の人間でもない。それなのに、どうして助けようとするの」
プロプスの目が覗き込んで来る。
酷く焦った自分の顔が鏡のように映っていた。
どうして、だなんて。
理由がそんなに大事なのか。
「俺は、困っている人がいれば、助ける。其処に理由が必要なら、必要な人が必要なように考えたら良いじゃないか」
自分の思うように生きて来たし、これからもそうするだろう。それが偽善で不毛だと言うのなら、そんな奴は膝を抱えて暗い部屋に閉じ籠ってろ。
湊が言うと、プロプスは吹き出すようにして笑った。
ふと見ると、プロプスの腕に傷があった。枝か何かで切ったのだろう。湊はポケットに入れていた救急キットで消毒して、絆創膏を貼ってやった。浄化部隊が毒を扱う以上、傷口を晒して歩くのは危険だ。
プロプスは、短く感謝の言葉を告げた。
湊はにこりと笑った。
ポケットに手を入れた時、湊は或ることを思い出した。其処に入っていたのは金色の
キャンサーの街で使った通信用の魔法具だった。ウルと別行動になるにあたり、用意していたのだ。
傍受の可能性を考えて、通信は多表式の換字式暗号で遣り取りしている。暗号そのものが複雑で解読が困難なので、湊とウルの間でしか使えない。
ジェミニの街に来てからも、ウルとは情報を共有している。ワサトの情報も伝えてある。自分に何かあれば、ウルが気付く。
しかし、転移魔法には正確な座標が必要なので、助けに来てくれるかは分からない。正直、望みは薄い。
何か、何か無いのか。
現在地不明の自分の居場所を伝える方法は、無いのか。
湊が考え込んでいると、プロプスが嬉しそうな声を出した。
「川があるぜ」
言われて目を向けると、闇の中で微かな流水音が聞こえた。川と呼ぶには貧相な水の流れだ。
一応、毒が無いか確認し、プロプスは喉を鳴らして飲み始めた。まるで水浴びを喜ぶ子犬だ。
物々しい緊急事態の中にありながら、プロプスがいると肩の力が抜ける。
その時、湊は一つの可能性を閃いた。
ポケットには、羽根ペンと無限の紙。
湊には魔法が使えないけれど、魔法陣を描くことは出来る。エレメントを召喚出来るかも知れない。
闇の中で魔法陣を描き始めた湊に、プロプスが不思議そうに覗き込む。
「それ、何の魔法陣?」
「エレメント召喚の魔法陣だよ」
「エレメント? そんなの、
魔法界におけるエレメントの立ち位置については、よく分からない。プロプスは神を信じていないのだろう。湊にも神はいないから、気持ちはよく分かる。
信じるかどうかは人の自由だ。他人の信仰に口を出すつもりも無い。問題なのは、魔法陣が描けても、魔力を持たない湊には発動出来ないということだ。
水があれば、ウンディーネを呼べる。
エレメント召喚の条件を満たしている。ーー魔力さえ、あれば。
「プロプスの魔力を貸して欲しい」
あの海蝕洞の苦い記憶が蘇る。
あの時、誰か一人でも力を貸してくれたなら、助けられた。
湊が祈るように拳を握ると、プロプスは何でもないことみたいに答えた。
「いいよ」
プロプスは、魔法陣に掌を向けた。
湊は肩透かしを食らったような心地だった。
「いいの?」
思わず問い掛けると、プロプスは首を捻った。
「いいよ、そのくらい。お前が悪い奴じゃないってことは分かったし」
「どうして、そう思うの」
何も知らない自分のことを、人殺しの自分のことを、どうしてそんなに簡単に信じてくれるのだろう。
「それ、お前が言うのかよ」
プロプスが笑った。
「困っている人がいれば、助けるんだろ。其処に理由がいるなら、お前が勝手に考えたら良いだろ」
血が通うように、幾何学模様が仄かに光る。
自分の言葉を返されて、湊は胸が熱くなった。
ーー仲間っていうのは、そんな風にして作るもんじゃない。
弟の声が聞こえた気がして、泣きたくなる。
湊は他人の嘘が分かる。信じるには、裏切られる覚悟をしなければならない。けれど、プロプスは裏切られる覚悟も無く、ただ信じてくれる。それがどんなに難しいことなのか、悲しい程に知っている。
嘘が分かっても、その人の心が分かる訳じゃない。
父の教えを思い出す。それを善悪の基準にしてはならない。
水色の光を浴びながら、湊は目を伏せた。自分は、如何に多くのものを見落として来たのだろう。自分の世界は狭い。
エレメント召喚の魔法陣は、発動しなかった。
条件は満たしているし、魔法陣に間違いは無い。後は使い手、或いは魔力の性質の問題だ。
プロプスは風魔法を使うと言っていたから、水属性のウンディーネは呼べないのだろう。
風属性のシルフなら呼べるのかも知れないが、魔法陣が描けても、条件が分からない。
プロプスは希望が絶たれたかのような顔をしていたが、湊は絶望しなかった。
川がある。この世は因果律に支配され、エネルギーは循環する。此処があの世なら兎も角、そうではないのなら、希望はある。
こんなところで死ぬ気は無い。
こんなクソゲー、航や昴の手を
「希望がある。希望がある。希望がある」
無限の紙に羽根ペンを走らせながら、湊は呟いていた。隣でプロプスが目を丸めた。
「それ、聞いたことある」
湊にとっては父の教えだが、魔法界では自由民権思想のスローガンだ。
ストリートチルドレンのプロプスだって、耳にしたことくらいはあるだろう。
「どんなに深い絶望の中でも、必ず希望が残されている。可能性がゼロになるのは、諦めたその時だよ」
「ーーそれも、聞いたことある」
何処で聞いたんだっけな。
プロプスの独り言を横に、湊は羽根ペンを走らせ続けた。
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