⑷安全装置

 何が起こったのか、分からない。

 説明は出来ても、理解出来ない。


 空間に亀裂きれつが入った。本能的な恐怖から、湊は危機に晒された弟へ手を伸ばした。そして、次の瞬間、巨大な硝子が割れるように、刃となって頭の上から降り注いだ。

 突き飛ばされた少女を咄嗟に抱き止め、湊は身を守った。甲高い悲鳴が轟いて、目を開けると辺り一面が血に染まっていた。


 大勢の人間が、身体中を切り刻まれていた。

 血液中の鉄分が空気に溶け出して、鼻を突くような異臭が漂う。湊は、泣き叫ぶ少女を抱きながら、弟の姿を探した。


 航がいない。

 血の池に投げ出されたパルチザンとポーチ。其処にいたはずの姿は無くなっている。




「航……?」




 頭から冷水を浴びせられたような恐怖だった。

 視界が急速に狭くなって状況が理解出来ない。心臓の音ばかりが耳元で騒ぎ、湊はその場で立ち尽くしていた。

 腕の中から抜け出した少女が両親に駆け寄る。湊はその時になって漸く動き出し、持ち主を失ったパルチザンを拾い上げた。


 指先が冷たい。息が出来ない。

 何だ。何が起きた。何が。




「ーー湊!」




 遠くで声がした。

 湊は油の切れた機械のように、関節をきしませながら振り向いた。

 色褪せた視界に、血相を変えた昴とウルが映った。




「何があった?!」




 湊は上手く説明する自信が無かった。昴が両肩を掴んで揺する。ウルは実況見分するかのように血溜まりに膝を突いていた。




「空が割れて、降って来た……。航が女の子を庇って、いなくなった……」




 航は、何処だ。

 昴が焦ったように悪態吐く。ウルは掌から魔法陣を広げ、状況を把握しようとしているようだった。


 頭が痛い。割れそうだ。

 冷静でいなければ、より最悪の事態が起こる。航はきっと無事だ。こんなところで死ぬような奴じゃない。

 思考を止めてはいけない。考えろ。今の自分がやらなきゃいけないことは何だ。理不尽に憤ることも、不条理に嘆くことも後で良い。今、やるべきことは。




「湊、僕を見ろ!」




 昴が叫んだ。

 湊は昴の藍色の瞳を見た。




「見えてる。落ち着いてる」




 湊が答えると、昴は苦い顔をして抱き締めた。

 何が起きているのか分からない。意識は身体から離れ、地獄絵図となった街路を俯瞰している。

 昴の腕の中で、湊の目は一つでも多くの情報を探していた。









 15.捻くれ者の美学

 ⑷安全装置









 昴はそれを見た時、悲鳴を上げそうになった。


 血塗れの湊が人形のように立ち尽くしていた。辺りは真っ赤に染まり、人々は恐慌状態に陥っている。彼方此方で悲鳴と啜り泣きが聞こえ、この世の悲劇を掻き集めたかのような凄惨な状況に目眩めまいがした。


 風魔法の一種だと、ウルが言った。

 風魔法は空間に影響を与える。ウルがもっぱら探索に利用していたので安楽に捉えていたが、魔法とは本来、恐ろしいものなのだ。


 湊の話では、空が割れて降って来たのだと言う。そんなもの、防ぎようが無い。況してや、彼等は魔法使いでもない、十四歳の子供だ。


 知恵や工夫では太刀打ち出来ない。彼等が対抗手段を講じる度に、魔法は力で抑え付けようとする。抗う彼等を嘲笑うように理不尽と不条理が降り注ぐ。


 死人のような顔色で、湊が言った。




「俺が間違えた」

「何?」




 湊は答えなかった。

 よく見れば、湊の腕には大きな硝子片のようなものが刺さっていた。黒い服を着ているので分からなかったが、出血が酷い。湊は痛覚が麻痺してしまっているのか、ウルの横に立って観察を始めた。




「お前は休んでろ」

「俺が一番状況を把握してる」




 制止を訴えるウルを遮って、湊はその場にしゃがみ込んだ。何かをぶつぶつと言っているが、聞き取れない。

 吸い込まれそうな集中状態だった。張り詰めた緊張は、小さなきっかけで崩壊してしまいそうだ。

 昴の声もウルの制止も届かない。航が言っていたことを思い出す。自分がいなくても、絶対に手綱を離すな。


 昴がその肩を掴もうとした瞬間、湊は弾かれたように立ち上がった。担いでいた青い洋弓を構えると、水色の魔法陣が広がった。

 その照準はカジノの屋上を捉えている。矢を番えた湊に何が見えているのか分からない。昴の手が届く前に、湊は矢を放った。

 淡い光が尾を引いて、矢はまるで彗星のように見えた。矢を放った湊の腕が仄かに光る。酷い出血はビデオの逆再生のように消えてしまった。




「ウル、俺を彼処に転移させて」




 屋上を指差して、湊が言った。

 全く状況が分からない。湊も説明する気は無いらしい。

 ウルは剣呑な顔で頷いて、魔法陣を広げた。


 昴が屋上へ転移した時、湊は目にも止まらぬ速さで駆け出した。

 屋上の隅に何かがうずくまっている。湊は腰からナイフを引き抜いて、冷たい声で言った。




「航は何処だ」




 其処にいたのは、貧相な身形みなりをした瘦せぎすの男だった。先程の湊と同じ位置に怪我を負い、真っ青になって怯えている。

 湊の洋弓は、自身が受けた魔法効果を相手に付与する。魔法によって受けた怪我もその範疇はんちゅうにあるらしい。彼の性格を考えると、闇深い武器だ。


 男は明らかに挙動不審だった。湊でなくとも、彼が何かを知っていることは分かる。




「狙いは何だ。なんで航を狙った」

「し、知らない! 俺は何も!」

「俺はお前の嘘が分かる」




 死刑宣告する裁判官のような、容赦の無い声だった。

 同情の余地も無い。湊はナイフで男の首筋の薄皮を削いだ。それだけで男は、この世の終わりみたいな悲鳴を上げる。小悪党過ぎて話にならない。




「狙いは昴か?」

「知らない!」

「ああ、金か」




 最早、会話になっていない。

 湊は必要な情報を手に入れたらしく、ナイフを振り上げた。ウルがそれを止めたのは間一髪だった。




「止めろ!」

「だって、この男にもう用は無い」




 倫理観の欠如が酷過ぎる。湊は自分は落ち着いていると言っていたが、明らかに暴走している。




「航は誘拐されたんだ。目的はこれだ」




 湊は掌を見せた。

 カジノで手に入れた大金だ。




「なんで俺を狙わなかったんだろう。ーーああ、人質か。じゃあ、カジノもグルだな」




 一人で結論を出して、湊は男を投げ捨てた。

 ミサイルみたいにぐいぐいと進むので、昴は必死に追い縋った。航程の怪力ではないが、理性のたがが外れた湊は止められない。

 ウルと二人掛かりで羽交い締めにして、漸く湊は動きを止めた。




「お前、何をする気だ」

「敵の本陣に乗り込む」

「何処が本陣か分かってるのか」

「カジノはグルだ。トップを押さえて脅す」

「航が何処にいるか分からないのに、安易に動くな!」

「拉致誘拐事件は時間勝負だ。被害者の生存率は当日中で70%、二日で50%、三日で30%と下がって行く」




 何処から引用したデータなのか分からないが、湊は淀みなく言った。




「犯人からの連絡を待っていたら、思う壺だ。わざわざ、相手の土俵に立つ必要は無い。迅速果断。後手に回りたくない」

「落ち着けよ!」

「落ち着いてる」

「落ち着いてるなら、まずナイフをしまえ!」




 ウルが嘆くように叫ぶ。

 あの湊が、こんな風に取り乱すとは思わなかった。一見すると落ち着いているが、目が据わっている。自分より混乱している者がいると、不思議に冷静になる。昴は回り込むように湊の前へ立ち塞がった。




「湊。それが最善か? リスクは無いか?」

「総合的に考えると、待機するよりは行動した方が良い」

「それが湊の判断なら、俺も従う。でも、少しでも不安があるなら、止めろ」

「……」




 湊は立ち止まった。

 昴は決死の覚悟で訴えた。




「誰がリスクを負うんだ? 湊なら兎も角、航は大怪我をして動けない可能性が高い。お前が安易に乗り込んだら、危険に晒されるのは航だ」

「航には利用価値がある。殺される可能性は低い」

「お前が乗り込んだ時と、監禁されている今では、どちらが生存確率が高いと思う?」

「……」

「お前、冷静じゃないよ。航が心配なのは僕等も同じだ」




 普段の湊は知識も豊富で機転も利くが、今の湊はぽんこつだ。

 ぽんこつ湊を羽交い締めにしながら、ウルが言う。




「湊は動かない方が良い。お前は目立つ」

「……」

「状況を探るなら、俺がやる。これでも、元諜報員だぞ」

「自分と航のどちらかしか助からない時に、航を選べる?」

「どういう最悪の状況だよ。お前はそれを回避する為に頭を回せ」




 確かに。

 こんなに取り乱して心配するくらいなら、普段からもっと用心しろよ。

 昴は嘆いた。


 結局、昴はぽんこつ湊を連れて宿へ戻った。

 街中が残酷な事件に浮き足立ち、物々しい緊迫感に包まれている。人で溢れ返っていた街路も無人になり、街は水を打ったような静寂に包まれていた。


 ウルは敵情視察と言って出掛けてしまい、部屋の中には昴と湊だけが残された。魔法界に電話なんてものは無いので、犯人からの要求を聞く手段も無い。時間だけが過ぎて行く。

 胸を掻き毟りたい程の焦燥に、昴は立ったり座ったりを繰り返した。湊は何も無い壁をじっと見詰めて動かない。何を考えているのかは分からないが、彼が何を提案しても即刻却下するつもりだった。

 ぽんこつ湊は過激派だ。航は本当にストッパーとかブレーキとか、安全装置の役割を果たしていたのだと思う。湊も人の子だったらしい。


 暫くすると、ウルが帰って来た。

 一縷の望みを託して問い掛けると、ウルは絶望的な顔で言った。




「湊が言ってた通り、カジノはグルだよ」

「要求は?」

「分からない。でも、身代金では無さそうだ」




 ウルは掌を翳した。

 魔法陣の中に金色の手紙が浮かび上がる。昴は文字が読めなかったので、助けを求めてウルを見た。




「人身売買オークションだよ」

「何それ」

「競売だよ。人身売買ってことは、航は商品になるの?」




 憔悴し切った声で湊が問い掛ける。

 ウルは苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。




「目玉商品だよ。身代金を要求するよりも確実で、利益が大きいからな」

「オークション会場をぶっ潰せば良いの?」

「なんでそう過激なんだよ」




 ウルは溜息を吐いた。

 湊の衝動的な行動が裏目に出たのだ。


 航のスコーピオでの戦闘や、カプリコーンでの大立ち回りは、自分たちが思うよりも知れ渡っていたらしい。

 航は性格こそ苛烈だが、賢く冷静で、黙っていればエレメントにも負けないくらい端正な顔立ちをしている。心を許した相手には意外な程に素直だし、目玉商品として売り出されるのも分かる。


 そんな航が何処の誰とも知れない金持ちに入札され、良いように使われる姿を想像すると、居ても立っても居られない。


 昴の焦りを見透かすかのように、ウルは湊に向かって冷静に言った。




「カジノの警備を見ただろ。武力制圧は現実的じゃない」

「俺も今、悪い夢を見てる気分」

「俺もだよ。兎に角、安直な行動は出来ない。カジノはこの街そのものだから、此処は敵地の真っ只中だ。航が何処にいるのか分からない以上、今の俺たちには手出し出来ねぇ」

「戦う覚悟なら出来てる」

「お前、ぽんこつ過ぎるな……」




 ウルは頭を抱えた。

 攫われたのが湊だったなら、これ程に最悪な状況にはなっていなかっただろう。航も多少は取り乱しただろうが、湊なら一人でどうにかすると思う。それは信頼というか、日頃の行いだ。




「俺はもう少し探ってみる」

「分かった。僕は湊を見張って置く」

「頼んだ。本当に頼んだ」




 縛り付けても良いから。

 そう言い残して、ウルは転移魔法陣の中へ消えた。

 再び二人きりになり、昴は重石を背負ったような疲労感に襲われた。


 俯いて考え込んでいた湊は、閃いたように顔を上げた。




「買い戻すしかないね」




 昴は、却下する姿勢を取っていたので、湊の提案を理解するのに時間が掛かった。

 買い戻す? 何を? ーー航を?




「武力制圧がルール違反なら、正攻法で取り返す」

「お前、本気?」

「他に方法が無い」




 湊は掌を見詰めていた。




「相場が知りたい。オークションは情報と駆け引き。得意分野だ。ーー俺の土俵に上がったことを、後悔させてやる」




 恐ろしい程の怒気が漏れ出して、辺りが陽炎のように歪む。顔立ちが整っているだけに、怖い。


 湊だけは敵に回してはいけない。

 人知れず、昴は肝に銘じた。

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