⑷理不尽

「血で成された革命に意味は無い。無血革命こそが人類の希望だ」




 独裁と貧困に喘ぐ中東の革命家が、うたっていた。

 父が死んだ国だった。

 MSFの被曝を受けて紛争は終結した。その背景では人種差別と独裁政権への革命が起きていた。父は人種に囚われず、手当たり次第に怪我人の治療を行い、結果として政府軍に空爆されたのだ。


 航は革命家の謳い文句を聞いて、残酷な気持ちになった。

 無血革命なんて嘘っぱちだ。既に血は流れているし、大勢が死んでいる。父が死ななければ革命は成功しなかったし、彼等は負け犬として粛正されたのだ。


 命の価値を均等にする。

 それが親父の理想だったらしい。けれど、命なんてものは代替される。机上の空論でしかなかった。親父の死は薄汚い社会に利用されたのだ。航はそう思った。


 十四歳の航は、進学に向けて勉強に励んでいた。

 単純にやることが無く、バスケットボールと勉強ばかりしていたら飛び級が打診された。二年連続で同じ担任となった男は、航を見るといつもさげすむような目を向けて来た。


 素行が悪い。態度が悪い。協調性が足りない。

 教師は航にそう言った。馬鹿馬鹿しい。世の中は結果が全てだ。素行や態度の悪さなんてどうでも良い。出席日数と成績さえ十分であれば、表立って文句を言われることも無い。彼等の言う協調性とは均一性のことで、出る杭を打ち込もうとする劣等種のやっかみなのだ。


 退屈なホームルームの時間、航は行儀悪く机に足を乗せて、外を眺めていた。薄水色の空を鳥が横切って行く。鳥は自由で良いなと思う。


 教壇へ目を向けると、クソ真面目な学級委員が抑揚の無い声で何かを話していた。馬鹿は要約出来ないから話が無駄に長い。つまんねぇな、と胸の内に吐き捨てた。




「足を下ろせ」




 芯のある声が、真っ直ぐに突き刺さった。

 航を注意するようなクラスメイトはいない。声の方向には眉を釣り上げた湊がいた。


 周囲では顔を青くしたクラスメイトが様子を伺っている。航が暴れ出すのではないかと怖いのだ。暴力沙汰なんて起こしたことは無いが、均一性の矯正を受けている彼等は、普通と違う航を理解出来ないものと恐れているらしかった。


 航は、自分よりも余程、湊の方が怖いと思う。

 物理的な怖さではない。幽霊を相手にするような得体の知れない不気味さがある。航は舌打ちをして、渋々足を下げた。


 魔法界から帰って来てから、湊の様子がおかしい。張り合いが無い。共感能力の欠如した精神破綻者の癖に、一般人ぶって、しおらしい。どうせ他人の心なんて分からないのだから、其処に費やす時間そのものが無駄だ。


 何でこんなに馬鹿なんだろう。

 航は憚らず大欠伸おおあくびをした。


 ずば抜けた成績を収めた結果、飛び級を勧められた。航としてはどちらでも良かったのだが、母が難色を示していたので、断るつもりだった。生き急ぐ必要も無い。湊がうじうじ悩んでいるので、航は苛々していた。


 いつものようにストリートバスケを楽しんでいると、下世話な友人が下らない噂を口にした。

 自分達の担任は淫行教師で、少女を餌にするクズである。口笛でも吹きそうな上機嫌で言う友人に、航はうんざりした。

 噂なんて心底どうでも良い。担任が淫行教師であろうが、独裁者であろうが、事実に基づいた成績をくれるのならば、何でも良かった。


 気持ち悪ぃ。

 航はそんなことを吐き捨てた。ーーまさか、双子の兄がその被害者になり掛けていただなんて、夢にも思わなかったのだ。


 学校というものから殆ど離れていた航は、其処で何が起きていたのか知らなかった。

 初秋の夕暮れに双子の兄が頬を腫らし、乱れた服装でやって来た時も、こいつも他人と喧嘩するんだな、なんて呑気なことを考えていた。


 その翌日に、母が学校から呼び出されたことも知らなかった。

 学校では、湊の裁判が行われていた。罪状は、担任教諭に対する暴力行為だ。側から聞くと阿呆らしいが、その頃は遅い反抗期を迎えた湊が母と進路のことで度々衝突し、家庭内不和が懸念されていたらしい。加えて、航の普段の素行が問題視され、模範生である湊の信頼は失墜していた。


 湊の暴力行為についての噂はあっという間に広がった。ストリートバスケコートでも、噂好きな友人が話していた。


 教師に歯向かうなんて、中々骨があるじゃねぇか。

 航の周囲では好意的な評価をされていたので、深刻には受け止めていなかった。


 暫くすると、噂に情報が追加された。

 湊は、暴力行為を認めた上で、正当防衛を主張した。それは教師の淫行を訴えるものだった。


 初めて聞いた時は耳を疑ったが、湊は自分をおとしめるような嘘を吐くタイプではない。初秋の夕暮れのことを思い出し、それが真実であると確信した。


 湊は、被害者は自分だけではないと言ったらしい。しかし、被害届は出ていない。当然だ。性犯罪の被害者になるには、リスクに対してメリットが余りに少ない。泣き寝入りするしか無いのだ。

 湊もそれを理解していた。被害者がいることを訴えても、証拠を挙げられない。学校では教師は権力者だ。逆らう者はいない。湊は嘘吐きのレッテルを貼られ、腫れ物扱いだった。


 母は、湊の言葉を全面的に信頼した。

 湊が望むなら本物の裁判になっても構わないと大見得を切った。航は、自分の知らないところで繰り広げられた滑稽な喜劇に目眩がした。


 湊は、結論を出せないままでいた。その横顔は冷たく近寄り難い。研ぎ澄まされた抜き身の刃みたいだ。


 そういうの、向いてないだろ。

 航は胸の内で言った。


 何故、二の足を踏んでいるのか全く分からない。どうして我慢しているのかも謎だ。頭の出来は悪くない癖に、意味の分からないところでつまずいて、結論がズレてしまう。


 とは言え、これは湊の問題だ。

 逆の立場なら、横槍を入れられたら血管が切れるかも知れない。そう思って目をつぶっていた。


 ホームルームが終わった後、航はさっさと教室を出て行こうとした。湊がグズグズと支度をしているのが見えた。

 離れたところで囁き合うクラスメイトと、独りぼっちの湊が、昔の自分に重なって見えた。バスケットボールのチームメイトから弾かれた航は、いつも独りだった。何を言っても暴れても徹底的に無視され、自分が透明人間になってしまったのではないかと思った。


 そんな時、隣にいたのは湊だけだった。航は他人の評価なんて気にしていなかったが、下らない嫉妬で足を引っ張られるのは堪えられなかった。

 航は只管ひたすら不貞腐れていたが、湊は情報に左右されず、自分の正義を貫く。そういうところが格好良かった。


 そんな湊の正義が、ゴミみたいな教師に汚されようとしている。それは何だか、酷く勿体無い。

 航は教室の外で、湊を待つことにした。


 一人二人とクラスメイトが出て行く。馬鹿騒ぎするお調子者の男子生徒が、待ち伏せする航を見てぎょっとして、振り返る。航が睨むと、肩を竦めて早足に立ち去って行った。

 湊は中々出て来ない。勝手に待っていたのだが、待たされたことに腹が立って、航は教室に乗り込んだ。


 教室は、湊と担任の二人きりだった。

 担任は鼻がくっ付きそうな程に距離を詰めて、何かを囁いている。獲物を前にした爬虫類に似ていた。

 獲物と成り下がった湊は人形みたいな無表情だった。しかし、担任が一言二言告げると真っ青になって、項垂れた。


 担任が舌舐めずりする。欲に染まった目で、汚れた手を伸ばす。それが湊へ届く刹那、航の身体は宙に浮かんでいた。


 肉を打つ乾いた音が響き渡った。

 担任は辺りの机を巻き込んで、スーパーボールみたいに弾け飛んだ。

 物凄い音だった。騒ぎを聞き付けた生徒や教師がやって来て、吹っ飛ばされた担任に駆け寄った。航は振り切った拳と、倒れ込む担任を交互に見た。


 拳には血が滲んでいた。

 これが殺人事件なら、状況証拠だけで逮捕だ。言い逃れの出来ない状態だったが、後悔は無かった。やってやったぜ、くらいの達成感があった。


 湊は子犬みたいな目を真ん丸にしていた。何が起きたのか理解出来ていないのだろう。




「なんてことをするんだ!」




 何も知らない教師が叫んだ。

 被害者ぶった担任が、腫れた頬を抑えて無実を主張する。慌てて湊が弁解しようと割って入る。




「教師を殴るなんて、頭がおかしいんじゃないか!」

「退学させろ!」




 罵声が飛び交って、野次馬の生徒が叱責する。湊が庇う。


 何だ、こいつ等。

 航は無性に腹が立った。




「うるせぇ!!」




 航が怒鳴ると、教室は耳が痛くなるような沈黙に包まれた。

 苛々する。彼等が何を喚いて憤っているのか、一つも理解出来ない。全部、どうでも良い。




「俺がムカついたから殴ったんだ! 他に理由なんて無ぇ!」




 流石の湊も言葉を失くしていた。

 これで退学になるのなら、その程度の学校だったというだけだ。航にとってはそんなもの損失ですら無い。それよりも、湊が信念を貫けずに悪に屈する方が堪えられない。


 帰るぞ。

 立ち尽くす湊の手を引っ張って、航は足を踏み鳴らして教室を出て行った。雁首揃えて見送る野次馬が避けて行く様は、モーセの海割りみたいで気持ち良かった。









 13.人間

 ⑷理不尽








「なんで、航が殴るんだよ……」




 帰路を辿る最中、湊が呆れたように言った。

 航は鼻を鳴らした。




「だから、俺がムカついたから殴ったんだよ。社会的地位とか、被害者がどうとか、知らねぇ」




 航が言うと、湊が腹を抱えて笑った。久々に見る双子の兄は笑顔は、何となくむず痒かった。

 寄り道もせずに帰宅すると、玄関で母が仁王立ちしていた。ばつが悪くなって二人で目を背けたが、結局、二人揃って叱られた。何が悪かったのかよく分からないが、母に心配を掛けたという点では、確かに反省しなければならなかった。


 リビングから誰かがやって来た。

 陽炎のように空気が歪む。透明人間ーー葵くんが立っていた。FBIに所属する彼は多忙で、いつも血色が悪く、幽霊みたいな顔付きをしている。


 葵くんは、一連の流れを聞くと声を上げて笑った。よくやったとさえ言った。別に認めて欲しかった訳では無かったが、褒められると悪い気はしない。


 母はうんざりした顔で、大人の世界で何が起きていたのか教えてくれた。

 湊が事件に巻き込まれていることを知った母は、早い段階で葵くんに連絡を入れて、件の教師の過去を探った。FBIのデータベースと照合すると、明るみに出ない性犯罪の前科が無数に出て来たという。誰か一人でも被害者が名乗り出れば、法的措置が可能だった。有能な捜査官だった葵くんは、早急に必要な情報を集め、法的な手続きを終えていた。航が殴らなくても教師は学校から立ち去り、刑務所に入れられていたのだ。


 けれど、航は自分が無駄なことをしたとは思わなかった。徹底抗戦が自分達のモットーで、誰かに助けてもらうなんて虫唾むしずが走る。


 航がそう言うと、葵くんは手を打ち鳴らして笑った。




「これは、お前等の勇気が成し遂げた偉業だよ」




 被害者は泣き寝入りするしかない。

 航と湊は、学校に漂う諦めの空気と常識を引っくり返したのだ。死んではいないけど、被害者も浮かばれるだろう。




「お前等って、似なくて良いところまで、和輝に似てるな」




 褒めているんだかけなしているんだか分からないことを言って、葵くんが嘆息を漏らす。

 湊が父にそっくりなことは知っているが、自分も似ているというのは純粋に嬉しかった。


 父は若い頃、就活鬱で投身自殺を図った女をその場で殴って説教したらしい。意味の分からない正義感だ。俺はそんなに情緒不安定じゃない。


 四人でリビングのテーブルを囲み、父の話をした。

 母は父の幼馴染なのだと言った。幼少期の父は今の湊にそっくりだった。自己犠牲的で、独善的。けれど、其処に悪意なんてものは微塵も無い。研ぎ澄まされたような完璧主義で、容赦無くストイック。

 そして、航と湊が覚えていないような小さな頃のことも教えてくれた。

 父は病名のある精神状態なのではないかと思うくらい、馬鹿なことをしていた。




「あんた達のお父さんも、よく家出してたよ。流石に空港までは行かなかったけど」




 航と湊は目を逸らした。

 どうしようもない。けれど、それが自分達の原点だった。




「救命救急医の癖に、患者さんの怪我を悪化させたこともあったよ。土手っ腹に風穴開けた薬中の売人と怒鳴り合ったり、不良少年殴ったり」




 それは駄目だろう。

 航が閉口すると、母は笑った。




「文章力も無かった。お風呂場で変な替え歌を歌って、近所から苦情が来て、お巡りさんにパンツ一枚で叱られたことあるもん」




 その光景が浮かんで、航は肩を落とした。

 思い描いていた父の姿は完璧な人間だったが、現実なんてこんなものなのだろう。

 湊は呆れて言った。




「親父って、駄目な人だったんだね」

「駄目な人だったよ。いつまでも子供で計画性が無くて。――でもね、家族を愛してたよ。命よりも。きっと、最後に残るのは、愛なんだよ。愛だけが勝つ」




 愛。

 目に見えないそれだけが、揺るぎない真実だった。

 きっと、この世に完璧なものなんて一つも無かった。破壊と再生が表裏一体であるように、完全と不完全も同じものなのだろう。


 葵くんの口から出て来るのは、嘘みたいな話ばかりだった。座学が壊滅的でいつも赤点だったとか、ハリウッド女優を助けたとか、国際犯罪組織と遣り合ったとか、生涯植物状態かも知れないと言われながら何事も無かったかのように生還したとか、子供でも信じないような荒唐無稽な話だ。葵くんがそういう冗談を言う人間ではないと知っていたので、航は笑ったり、驚いたり、呆れたりした。


 取り分け興味を惹かれたのは、自分達が産まれた日の話だった。




「俺はお前等が産まれた日のことをよく覚えているよ。お前等の産声が、天使のラッパみたいに聞こえたんだ。人の死は幾度と無く見て来たが、出産に立ち会ったのは初めてだった。土砂降りの朝だった。陣痛が始まったのは予定日よりも一週間以上早くて和輝はエジプトのカイロで人道支援に当たっていた」




 葵くんの声は静かだった。水面を揺蕩たゆたうような心地良さに身を預け、航は黙って聞いていた。




「和輝は間に合わないとされて、何の因果なのか、代わりに俺が立ち会った。二日間にも及ぶ難産だったのに、和輝が到着したら十五分で産まれたんだ。……自分でも信じられないが、和輝はそういう星の下に生まれたんだろう。命が大切とか、生命の尊厳とか、小難しいことは何も考えなかった。その時になって初めて、和輝の言っていたことの意味が分かった」




 其処で葵くんは目を伏せて、そっと言った。




「それは駄目なんだよ。いけないことなんだ。――お前が、大切だから」




 葵くんの声は、まるで父の声みたいに聞こえた。

 勝手にこの世からいなくなった父が、目の前で言っているみたいだった。




「お前等が大切だと思ったし、進む道にある石ころ一つでも取り除いてやりたいと思った。……自分の子でもないのにな」




 肩を竦めて、葵くんが皮肉っぽく笑った。

 葵くんに家族はいない。天涯孤独の身で、家族を作ろうとすらしなかった。人との交流を嫌がりながら、それでも、父とは深いところで信頼し合っていた。

 葵くんは厳しいけれど、優しい。当たり前に与えられる温もりが当たり前じゃなかっただなんて、航は考えたことも無かった。




「人をさげすんだり、見限ったり、突き放したりするのは容易い。大切にして、守ろうとするのは難しいことだ。自分を犠牲にしてでも他人を守ろうと出来る人間は、極僅かだ。だが、そういう人間は強く、尊いと思う」




 それが誰のことを指しているのか、分かる。

 葵くんは言った。




「追い詰められた時にこそ、人の真価が問われる」




 航は目を伏せた。

 葵くんの言葉は嘘偽りの無い本音だった。父の死を利用する社会とは違う。




「俺は弱い人間だった。井の中のかわずだった。世界は思うより広く、美しい。それを知る覚悟と、見るべき目を持っていれば」




 葵くんは、後悔しているようだった。

 伏せられた睫毛が、痩せた頬に影を落とす。湊が一度鼻を啜ったが、泣いてはいなかった。


 葵くんは何かを思い立ったみたいに顔を上げた。




「お前等に渡すものがある」




 何だろう。そういえば、もうすぐ十五歳の誕生日だ。毎年欠かさずプレゼントを贈ってくれる葵くんは、何か用意してくれたのかも知れない。


 だが、航の予想は、裏切られた。

 テーブルに乗せられたのは、上質な羊皮紙で作られた一通の封筒だった。




「和輝の遺書」




 航と湊は顔を見合わせた。

 父の死は予期せぬ事故みたいなものだった。遺書なんてものがある筈が無い。だが、表に記された筆跡は父のものに違いなかった。


 葵へ。

 透明人間に宛てられた手紙は、痛い程の静寂の中、不自然に存在を主張していた。

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