⑺芽吹き
暗い回廊は、出口の無い迷路を彷彿とさせた。
圧倒的な実力差に敗れた双子の兄が担ぎ出される様を、航は遠い世界から見ていた。
五歳の頃、航と湊は父の緊急搬送を知って、二人だけで病院まで駆け付けた。目の前の湊の姿は、嘗て、硝子越しに見た父の姿に重なって見えた。
親父が死ぬはず無い。
祈るように駆け込んだ病院の集中治療室で、父は二人の前で屈託無く笑って手を振った。だが、湊は意識を失くし、目を開けない。
怖かった。
奈落の底へ背中から突き落とされるような抗い難い恐怖だ。産まれる前から一緒にいた己の半身を失うかも知れない。このまま湊は死ぬかも知れない。
死んだら、もう会えない。――父と同じように。
「やあ、航」
視線は湊へ向けたまま、航は声の主へ意識を奪われた。忘れる筈の無い声は、戦闘後とは思えぬ程穏やかだった。
やっとのことで目を向けると、薄闇の中で金色の目が光っていた。湊を瀕死へ追い遣った張本人、シリウスが此方を見て微笑んでいる。
航はパルチザンを握った。
場外乱闘は流儀に反する。正義無き力は暴力で、ルールを破れば、それは悪だ。それでも、衝動を抑えられない。激しい怒りが身体を支配して、唇が震える。そのまま襲い掛かることが出来なかったのは、冷静な判断では無く、シリウスという得体の知れない男の力を本能が恐れたからだった。
シリウスは、身動き出来ない航を満足そうに見遣り、愉悦に口角を釣り上げた。
「ヒーローを生き返らせる方法が分かっただろう?」
魔法――。
航は、自分たちの認識の甘さを痛感した。その力の差は、知恵と工夫で覆せるかも知れない。自分たちなら出来る。そんな希望を打ち砕く圧倒的な実力差。象を前にした蟻のように、航は攻撃の術を失っていた。
「犠牲の魔法を使えば、お前の父も兄も復活する。何を躊躇する必要がある?」
「うるせぇ……」
絞り出すように、航は言った。
犠牲の魔法を使えば良い。そんなことは、初めから解っている。昴の意思なんてものは瑣末な問題だ。人の意思は変わる。湊が言ったように、洗脳は容易い。
それでも、航は強行突破しなかった。
湊は全ての選択肢を試すと言った。決断はそれからでも遅くない。航は、それは甘いと思った。凡ゆる希望が絶たれた時、引き金を引けるか。
航には、それが出来る。しかし、それをしなかったのは、――父が望まなかったからだ。引き金を引かせない社会。それが父の最低限の理想だった。
誰も殺されない世界。
理想に殉じた父を蘇らせる為に誰かを死なせたのでは、本末転倒だ。
「親父は、それを望まない」
解っている。そんなこと、誰かに諭されなくたって初めから分かっている!
それでも納得出来ないから、身動き一つ取れない泥濘の中で足掻き続けているのだ!
他人の答えに意味は無い。どうして、分かっていることを得意げに諭されなければならないのだろう。全部分かった上で、責任を負う覚悟で、決断を下しているのだ。
シリウスは、歌うように言った。
「お前等の親父はクズだった。家族すら他人だと思っていた。だから、お前等を置いて、他人の為に死んだ」
心の柔らかいところを、刃物で刺されたようだった。
航は余りの怒りに呼吸すら失っていた。
「あいつが何をした? 何を成し遂げた? 他人の為に命を懸けて、何が残った?」
無駄死にだったんだよ。
シリウスは軽やかに言った。それは航が目を背けて来た現実だった。世間が幾ら美談と語っても、航にとっては、無意味な言葉の羅列に等しかった。それでも、認めたくなかった。父が無駄死にだったなんて、どうして認められるだろう。
「親父はヒーローだった!」
「――だから、死んだ」
何も言い返せない。それが歯痒く、虚しい。
シリウスの心無い言葉は、ただの批評だ。相手にする必要も無いのに、反証の根拠が何も無い。
「ヒーローは死んだ。それが、全ての答えだよ。あいつは間違っていたんだ。それでもお前が現実を覆したいと思うのなら、選択肢は一つしかない」
航は、目を閉じた。
頭が痛い。割れそうだ。シリウスの言葉は一陣の風となって、航の心を波立たせる。聞き流して来た他人の罵詈雑言が津波のように押し寄せ、航の意思を呑み込んで行く。
「お前は、ヒーローが選べなかった答えを知ってる。お前には、それが出来る」
航は、父を超えたかった。
父を超える為に、出来ること。航はそれを知っている。――けれど、それを選ぶことが出来ない自分の弱さも熟知していた。
死ぬことに意味があるのではなく、死んだからこそ意味がある。此処で航がシリウスの手を掴めば、父の死は無意味になる。
「お前の評価なんて価値も無ぇ。他人が何と言おうと、俺が出した答えでなきゃ意味が無ぇんだよ」
他人の敷いたレールの上では、走れない。
航はパルチザンを下げた。シリウスが何を言おうとも、納得出来ない。土台が違う。価値観が違う。親父はヒーローだった。それだけが、航の中にある揺るぎない真実だった。
それを否定するシリウスの手を掴めるはずが無い。
航は背中を向けた。
話し合いに意味は無い。湊なら相談と多数決を重んじるのだろう。けれど、航は湊では無い。
「お前にもいつか分かるよ」
背中で、シリウスが言った。
それは予言だったのかも知れないし、警告だったのかも知れない。航は何も答えず、湊の元へ駆けて行った。
12.かたちなき正義
⑺芽吹き
闘技場は、肉の焼ける嫌な臭いに包まれていた。
勝敗を告げる放送の後、担ぎ出された小さな少年は目を背けたくなるような無残な有様だった。皮膚は灼け爛れ、四肢は陸に出た魚のように痙攣する。
昴は、こんな状況でも生きていられる人間の身体の強さに泣きたくなる。
焼夷弾のことを思い出す。ヒーローを死なせた非人道兵器。被爆したヒーローは左手首から先を残して消し炭になったと言う。
駆け付けたベガが懸命に治癒魔法を施す。その横で、航が今にも倒れそうな真っ青な顔で立っていた。
準決勝を比較的楽に勝ち進んだにも関わらず、顔色が悪かった。意識の無い兄を前にして、手を伸ばすことも出来ず、立ち竦むばかりだ。航も昴も、出来ることは何も無かった。
水色の魔法陣の中、湊は蛹が羽化するようにして顔を見せた。相変わらず意識は戻らず、衣服は焼け焦げ目も当てられない。小さな身体に不釣り合いな大怪我だ。体力勝負だとベガが言った。
「湊は、こんなところでくたばるような奴じゃない」
航が言った。
それは自分に言い聞かせるような響きを帯びていた。
湊の回復を待たずして、航が試合に呼び出される。自分の片割れとも等しい兄弟の窮地であっても、彼等は戦わなくてはならない。
航はパルチザンを片手に闘技場へ目を向けた。決勝戦。相手は湊を瀕死の重傷へ追い遣ったシリウスだ。恨みもあるだろう。怒りもあるだろう。その全てを押し殺し、航は戦場へ向かおうとする。
「湊を頼む」
航はそう言って、歩き出した。
迷いの無い一歩は、闘技場へ続く回廊を目指している。しかし、それは足枷でも嵌められているかのような牛歩だった。航には撤退という手段が無い。昴はそれが歯痒く、遣る瀬無い。
堪らず腕を取る。航は怪訝そうに眉を寄せた。
「――何だよ」
「行くな」
「邪魔すんじゃねぇ!」
航は怒鳴りながら、昴の手を払った。
だが、その足は再び阻まれた。進路を立ち塞ぐウルは、感情を削ぎ落としたかのような無表情だった。
「行かせねぇ。さっきの試合を見ただろ。実力差は歴然だ。その上で、わざわざ湊を甚振って、死ぬより苦しい思いをさせた」
「俺は湊じゃねぇ」
「相手が誰でも同じだ。それが俺でも昴でも、同じように嬲られるだけだ」
「だから逃げろって言うのか?」
航はぎゅっと両手を握り締めていた。
怖いだろう。悲しいだろう。腹も立つだろう。でも、此処は意地を張るところでは無い。
昴は震える小さな拳を見詰めていた。どうして、其処まで拘る。譲れないものもあるだろう。けれど、勝機は一つも無い。
「一度でも逃げたら、それは習慣になる。俺は逃げない!」
航が叫んだ瞬間、足元に魔法陣が光った。
話し合いの無意味さを悟ったウルは、強硬手段に出た。転移魔法だ。強引に航をこの場から退場させようとしていた。
当然、黙って従う航ではない。電光石火の如く魔法陣から抜け出すと、パルチザンを構えて臨戦態勢を取った。
目に映る全てを敵と看做し、航は嫌悪と警戒を込めて辺りを睨み付ける。
一触即発の緊張感が漂い、航もウルも剣呑な目をしていた。その時、小さな声が聞こえた。
「航、止めろ」
治癒魔法の光の中、湊が薄っすらと目を開けていた。透明感を持った濃褐色の瞳が天井を見上げ、彷徨うようにして航を捉える。
「其処に意味は無い」
痛みに喘ぎながら、湊はゆっくりと身体を起こした。瀕死とは思えない程に真剣な目付きだった。シリウスと直接戦闘した湊には、それが分かるのだ。その瞬間、航が叫んだ。
「――うるせぇ!!」
それはまるで、沈黙を守って来た火山が噴火するような苛烈な感情の爆発だった。
肩を怒らせた航は、床を踏み鳴らして湊の元へ詰め寄った。治癒魔法の中にいる湊の胸倉を乱暴に掴み掛かり、我を失って声を上げる。
「意味があるとか無いとか、出来るとか出来ないとか、何でお前なんかに決められなきゃならねぇんだよ!」
「分かるんだよ!」
魔法の効果で回復しつつあるが、湊は未だに重傷だ。それでも、焼け爛れた腕を引き上げて航の胸倉を掴み返す。
「同じ苦しみを味わわせたくないんだよ! 分かれよ、そのくらい!」
「分かるかよ! お前が俺の何を知ってんだよ! お前は俺の何なんだよ!」
「兄貴だよ!」
「お前なんて兄じゃねぇ! この臆病者の偽善者!」
治癒魔法陣の中で取っ組み合いを始めた二人に、昴とウルは慌てて飛び掛かった。航は兎も角、湊は重傷だ。このまま殴り合いになったら、怪我が悪化してしまう。
昴は湊を、ウルは航を羽交い締めにした。
体力の余っている航は、肩で息をしながら鬼の形相で湊を睨んでいた。
「俺のこと、見下してんじゃねぇよ!」
「見下してなんてない!」
湊も冷静ではない。
怪我の為か怒りの為か、息を荒くして航を睨み返している。けれど、一瞬の間に、湊はそれを呑み込んで見せた。
冷静さを取り戻した湊が諭すように訴える。
「航はすごい。たった一人でも大勢に立ち向かう。俺にはお前が、――ヒーローに見えた」
闇の中を手探りで歩くように、湊は言葉を探っている。しかし、湊の冷静な言葉は航へは届かず、返って怒りを煽っていた。
「俺はもう二度と、ヒーローを失いたくない。だから、」
湊が言葉を続けようとした時、航が遮って叫んだ。
「だから、お前の理屈を!! 俺に押し付けんな!!」
そうだ。湊は航を諌める為に、血の通わない理屈を並べている。それが航には堪えられない。
昴は、どちらの味方をしたら良いのか分からなかった。湊の言葉は正しい。だが、航が間違っている訳でも無い。此処で湊の味方をすれば、彼等がこれ以上傷付くことは無い。けれど、そうすれば、航の心の行き場が無くなってしまう。
遣り切れない思いで、昴は激昂する航を見ていた。
その時、足元で魔法陣が光った。
今度は逃がさないと言うように、ウルは航を羽交い締めにしている。航の抵抗も虚しく、転移魔法は発動していた。
黄金色の光が、蛍のように足元から立ち昇る。
航は聞いたことの無い言語で何かを叫んでいた。もしかすると、それは彼等の母国のスラングだったのかも知れない。
転移魔法を施された航の姿が、光の中へ消えて行く。
同行せざるを得ないウルは、苦渋に満ちた声で言った。
「航は別の場所へ連れて行く。昴。とりあえず、湊のことは頼んだぞ」
昴は頷いた。
二人の姿は光の中へ消えて行った。残された昴は、魔法による治療を受ける湊へ向き直った。
萎れた花みたいに項垂れる湊は、精根尽き果てたように頭を抱えていた。
「俺、航のこと、見下していたのかな」
縋るように湊が問い掛ける。
焼け爛れた頬は少しずつ、治癒していた。前の試合で受けた傷も魔法陣の効果か更に薄れている。この調子ならば、湊は傷跡も残らず完治するかも知れない。
昴は湊の目の前に膝を着いた。
湊は顔を上げなかった。
「俺たち、産まれる前からずっと一緒にいたんだ。お互いのことなんて分かり切ってると思ってた。でも、目に見えない心の中なんて、知りようもなかった。――俺は、本当はずっと、航を傷付けていたのかな」
聞いたこともないくらい弱った声で、湊が尋ねる。
昴には答えられない。昴の出す答えに意味は無い。航が何を抱えているのかなんて分からないし、湊の気持ちなんて知りようもない。それは昴が導き出すべき答えでは無いのだ。そのくらいは、分かる。他人行儀な同情が、彼等を一番傷付ける。
父を亡くした直後にありながら、命を懸けて死地へ臨んだ二人。彼等は涙一つ見せない。けれど、もしかすると、彼等は泣く代わりに怒っていたのかも知れない。
泣くという行為を、兄弟喧嘩に昇華させて、堪えて来たのかも知れない。
「俺は、間違っていたのかな……」
湊の中に真っ直ぐ突き刺さっていた芯が、足場を失くして不安定に揺らぐ。彼の気持ちが、痛い程に分かる。
何が正しくて間違っているのかなんて、昴には分からない。けれど、此処で立ち止まっていることは無意味だ。
昴は立ち上がった。
俺は逃げない。航の残した言葉が、胸の中に響き渡っていた。
「いいか、よく聞けよ。――和輝はヒーローだった。世界中の誰が否定しても、僕にとっては間違いなくヒーローだったんだ」
誰が否定し、後ろ指差して笑っても、それは変わらない。彼等の父はヒーローだった。
それを証明するには、昴が立ち向かわなければならなかった。これは二人の戦争ではない。魔法界の戦争なのだ。此処で立ち向かわなければ、もう何処にも行けない。
「お前等は、そのヒーローの息子だ。誇りに思って良い」
ふと目を向けた先で、湊が弱り切った顔をしていた。憔悴し、今にも消えてしまいそうな儚い眼差しだった。
昴は、争いが嫌いだ。誰にも血を流して欲しくない。
戦いを失くす為の戦いなんて虚しいとも思う。それでも、立ち向かわなければならない時がある。昴は理解した。
「お前等のことは、お前等でしっかり話し合え。喧嘩になっても良いから、ちゃんと本音で」
「うん……」
俯いた湊が一度鼻を啜った。
此処で涙の一つでも零すのなら可愛げもあるが、彼等はそういう子供ではない。それでこそ、ヒーローの息子だ。
「魔法界のことまで、お前等が背負う必要は無いんだ。僕等の問題は僕等で解決する」
闘技場から歓声が聞こえる。
航が不在の為に、シリウスの不戦勝だ。此処に航がいたら声を上げて怒鳴り散らしていただろうが、生憎、此処には可愛げの無い湊しかいない。
当初の目的は果たせなかった。だが、それよりも大切なことがある。ヒーローの為に出来ること。それは、湊と航にしてやるしかない。
昴は顔を上げた。
歓声の止まない闘技場で、シリウスは肩透かしだったと嘲笑うのだろう。昴は俯く湊の横に落ちていた洋弓を手に取った。
子供の湊が扱えるように軽量化してある。青く発光する弦は、主人から離れて何処か寂しげに震えていた。
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