⑸特異点

 


 それは光と呼ぶには余りに物々しく、自然現象と称するには悍ましい瞬きであった。

 突然の出来事に、昴の頭の中は真っ白になった。思考は愚か、自衛の為の脊髄反射さえも無力にさせる凄まじい雷光だ。


 追い掛けるように、天の底が抜け落ちたかのような雷鳴が轟き、空気そのものを震わせた。弾かれるように空を見上げた昴は、蒼穹を包み込む巨大な渦に言葉を失くした。


 雲が生き物のように集結しては渦を巻き、空を埋め尽くして行く。しなむちのように雷鳴が打ち付け、辺りを夜のような闇に変える。

 鈍色の雲は雷光によって七色に照らされ、昴は身体ごと空へ吸い込まれてしまいそうだった。




「――な、何だ?!」




 隣を歩いていたウルが、言葉を思い出したように叫んだ。

 本能的な恐怖を呼び覚ます苛烈な大気の奔流は、狙い定めたかのように昴の頭上で規模を拡大して行く。


 何が起きている?

 エレメントか? 王の軍勢か?

 ――否、もっと違う、何か。何かが、来た。


 嵐のような下降噴流は、鬱蒼とした森の木々を吹き飛ばす。名も知らぬ弱い魔獣が恐怖におののき、逃げ惑う。

 空から地表を穿つような大きなひょうが降って来る。木々を砕く氷の塊から、二人は頭を守るように身を屈めた。直撃すれば無事では済まない。


 やがて、糸を引くようにして、耳鳴りがする程の静寂が訪れた。全ての生命が、これから現れる強大な力を持った何かを恐れて、息を殺して身構えている。


 昴は、息を吐くようにして零した。




「――来た」




 一際大きな稲光が網膜を焼いた。

 視界も聴覚も全てが無になっていた。そして、次の瞬間、それはやって来た。




「昴!」




 ウルの悲鳴のような叫びと共に、光の中で影が跳ねた。備えるどころか、目で追うことも出来なかった。


 影は、瞬時に昴を地面に叩き付け、炎のように侵略した。握り潰さんとばかりに、掌が昴の首を引っ掴む。眩む視界の中で、昴は侵略者の姿を捉えた。


 総毛立つ凄まじい引力に、視線が奪われた。


 木々の焼ける焦げ臭さと、雨の匂い。立ち込める粉塵と、喉の軋む音。何もかもを霞ませる冷淡な双眸が、昴を見下ろしている。




「何だ?!」




 切羽詰まったウルの声が、遠い世界に聞こえた。


 魔獣ではない。それは、一見すると小さな少年だった。栗色の短髪が雷光の中で眩く輝き、血の気の無い白い肌は能面のように動かない。

 少年は小振りなナイフを握り、昴に抵抗する間も与えずに刃を突き付けた。




「お前が、昴?」




 変声期を終えていないボーイソプラノが、恫喝するように低く問い掛ける。

 その細い腕は薄っすらと筋肉に覆われ、射抜くような鋭い眼光はただの子供とは呼べない程に殺気に満ちていた。


 オーバーサイズの黒いパーカー、擦り切れたような細身のジーンズ、目の覚めるように鮮やかな赤いスニーカー。魔法界には無いその服装に、昴は覚えがあった。


 ウルが魔法陣を展開する寸前、少年のナイフは昴の首元にナイフを突き付けた。




「答えなければ、殺す。抵抗すれば、殺す。不審な行動を取れば、殺す」




 首の薄皮が削がれ、血液が溢れた。油断も躊躇も無く、それは警告ですらない。小さな掌が、気道を潰すように力を込める。


 子供だ。だが、昴には跳ね除けることが出来なかった。気圧されているだけではない。彼の細腕には抵抗の気力を消し去る程の怪力が宿っていた。


 ウルは身を低くしながら、無抵抗を示して両手を上げた。少年の口元が、愉悦に微かな弧を描いた。まるで、無抵抗の弱者を甚振ることが、可笑しくて堪らないかのように。


 昴は、薄い酸素を掻き集めながら、絞り出すようにして問い掛けた。




「君は、誰だ」




 少年は答えなかった。

 掌に力が込められ、喉の奥で空気の抜ける音がする。頭の中で、生命の危機を訴えて警鐘が鳴り響く。


 少年は猫のような瞳を眇めた。長い睫毛が滑らかな頬に影を落とす。相貌の美しさに見合わぬ威圧感のある声が、不機嫌そうに告げた。




「俺の質問に答えろ。お前が、昴か?」

「そうだ」




 少年は満足そうに頷いた。釣り上った口角に嗜虐的な笑みが浮かぶ。

 嫌な汗が背中を伝った。少年が、急き立てるような早口で言った。




「死んだ人間を生き返らせることが出来るか」




 昴は、答えられなかった。

 分からない。出来るのかも知れない。どちらにしても、昴には頷けない。


 昴の逡巡をどのように捉えたのか、少年は眉根を寄せた。




「何か制限があるのか? それとも、条件が?」




 其処で、昴は気付く。

 この少年は、知らないのだ。昴の魔法の構造が犠牲を必要とするものである、と。


 何か、何か無いか。

 この少年の殺意を踏み止まらせる起死回生の一手は無いのか。


 その時だった。




「航、止めろ」




 凛、と。

 鐘の音にも似た清涼な声が、鼓膜を震わせた。

 昴は吸い寄せられるようにして目を向け、そして、息を呑んだ。


 磨き込まれた鏡みたいな濃褐色の瞳、通った鼻梁、意志の強そうな形の良い眉。其処にいるだけで、全てを有象無象へと変えてしまう存在感の塊。


 昴は、それを知っている。




「和輝」




 喘ぐように昴がその名を呼んだ時、二人の少年は揃って目を丸めた。その美しい少年は、他人とは思えない程にヒーローにそっくりだった。


 刃を握った少年が、訝しむように問い掛ける。




「親父を、知っているのか?」




 親父?

 昴は、耳を疑った。和輝を親父と呼ぶということは、彼は、彼等は。


 ヒーローの生き写しの少年が、無味乾燥の声で答えた。




「蜂谷和輝は、俺達のだ」




 余りの衝撃に、昴は恐怖も猜疑も忘れていた。

 二人の少年は、疑う余地も無いまでにヒーローの面影を深く残していた。


 何故、和輝の息子が此処にいる。

 最後に別れた時、彼に息子はいなかった。あの後に産まれたとしても、年月の経過が狂っている。彼等はまるで、遠い未来からやって来たかのようだ。




「航、手を離せ。その人は、嘘を吐いてない」

「だからって、こっちの要求を呑むとは限らない」

は、ルール違反だ」




 航と呼ばれた少年は、小さく舌打ちを零した。

 彼が渋々と手を離すと、昴は吸い込んだ酸素の濃さに激しく咽せ返った。少年が転がるように距離を取ると、ウルが庇うようにして立ち塞がった。


 今度はヒーローそっくりの少年が、無抵抗を示して手を上げる。




「俺の名前は蜂谷湊。こっちは、航」

「蜂谷……」

「昴さん、話があるんだ」

「そんな筋合いは無ぇ」




 ウルが言った。

 航と呼ばれた少年が、野生動物のように身構える。全身から殺気が迸る。剣呑な空気の中で、湊がそれを片手で制した。







 柔和な外見とは真逆の、有無を言わさぬ強圧的な声だった。昴もウルも、聞く以外の選択肢を失ってしまった。

 湊は冷やかに目を細め、何かを打ち消すように首を振った。




「こんなつもりじゃなかったのに」




 コミカルに肩を竦めて、湊が笑った。

 だが、昴もウルも、欠片も笑えなかった。




「さっきの質問の答えが訊きたい。あなたの力には何らかの制限があるんだろう。それは、何?」




 和輝だ。間違いなく、和輝の息子だ。

 容姿、眼光、言葉遣い。全ての根拠が一つの結論に帰結する。


 話の通じない相手じゃない。ましてや、和輝の息子ならば尚更だ。


 昴は生唾を飲み下し、意を決して答えた。




「僕の魔法には、犠牲が必要だ」

「そんなの、知ってる」




 航がぴしゃりと言った。昴が返答を失うと、弁護するように湊が説明する。




「この世は等価交換。魔法が奇跡の業ではないことは、分かってる」




 氷のように冷たい声だった。其処には、凡そ年齢に見合わない悲壮なまでの覚悟が滲んでいる。


 昴の胸は、嫌な予感に締め付けられていた。具体的な答えを聞いた訳じゃないし、この仮説に根拠は無い。けれど、こんな小さな少年が、どんな犠牲もいとわずに誰かを蘇らせたいと願う訳を、昴は分かっていた。


 彼等は親しい誰かを失ったのだ。

 ――その相手が誰なのか、昴は知っていた。それでも、認めたくなかった。否定して欲しかった。答えを聞くことが怖かった。




「親父以上に価値のある人間なんて、いない」




 全ての希望が潰えたかのように淡々とした声だった。二人の少年は人形のような無表情で、双眸に冷たい炎を灯していた。


 掌に汗が滲んだ。早鐘のように心臓が脈を打ち、視界が激しく点滅する。

 答えを聞きたくないと願いながら、昴は確かめなければならなかった。




「和輝、死んだの?」




 その瞬間、二人の瞳の炎が音を立てて燃え上がった。

 真ん丸に見開かれた瞳に映るのは、深い悲しみと怒りだ。この世の何もかもを恨み、絶望している。


 和輝は、こんな顔をしなかった。どんな時も絶望せず、希望を信じて抗い続ける。その瞳は満天の星のように煌めき、誰も否定しない。記憶の中にいるヒーローは、完成され過ぎて、最早人格と呼ぶよりも現象に等しかった。


 けれど、彼等は違う。こんな小さな体躯に不釣り合いな感情を持て余しながら、何も感じていないみたいな冷たい瞳をしている。


 湊が、答えた。

 それは痩せた大地に吹き荒ぶ、寒風のようだった。







 がつん、と。

 鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。頭がくらくらして、何も考えられない。




「なんで」

「俺の質問に答えろ。死者蘇生の代償は何だ」




 昴は動転しながら、やっとのことで答えた。




「命だよ」

「構わない」




 間髪入れずに答えた航に、昴は堪らず問い掛けた。




「それが、君の家族の命でも?」

「は?」




 ぽかんと口を開けて、航が眉を顰めた。その答えを予期していなかったのだろう。

 昴は言った。




「僕の魔法は、犠牲の対象を選べない。誰かを生き返らせるには、それ以上の犠牲が必要だ」




 乾いた音がした。航の手から、ナイフが落ちた音だった。呆然と立ち竦む二人は答えを失っていた。

 ウルが苦い顔で言った。




「訳ありみたいだな。話を聞こうぜ」




 いずれにせよ、納得出来るものではないのだろうけど。

 昴は持ち主を失った刃を、虚しく見詰めていた。







 10.メーデー

 ⑸特異点








 鬱蒼とした森の中は、水を打ったように静まり返っていた。それまで荒れ果てていた空は元の美しさを取り戻し、まるで何事も無かったかのように澄み渡っている。


 昴は、二人の少年を連れて歩いた。

 沈黙を守る二人は糸が張り詰めたような悲壮な顔付きをしていた。昴もウルも掛ける言葉が見付からず、葬列のように静々と歩くしかなかった。


 彼等の齎した悲報は、昴の胸の中に重く響いた。

 和輝が死んだらしい。きっと、経緯を知ったって、事実を目の当たりにしたって、昴には納得出来ないし、理解も出来ない。

 殺したって、死なない人間だと思っていた。だが、二人が嘘を吐いているようにも見えない。


 何が起きているのかも分からないまま、昴は只管ひたすらに目的地を目指した。


 昴とウルは、ウンディーネの泉を目指していた。

 魔法界を牛耳ぎゅうじる王族の支配を覆す為、エレメントの協力を仰ぐつもりだった。彼等がどんな結論を出すにしろ、エレメントの存在は看過出来ない。王族や革命軍の動向も気に掛かるが、兎に角、冷静になりたかった。


 沈黙に堪え切れず、昴は口を開いた。




「和輝は」




 その名を出した瞬間、二人は猫みたいに警戒を強くした。どんな切り出し方をしても、この問題からは逃れられない。

 昴は崖から飛び降りる覚悟で訊いた。




「なんで死んだの」




 願わくば、その瞬間が安らかなものでありますように。

 昴の問いに答えたのは、湊だった。




「親父は国外の紛争地で、医療活動と人道援助をしてた。その拠点が空爆されて、親父は左の手首から先しか見付からなかった」




 昴は口をつぐんだ。

 想像していた以上に、凄惨な事実だった。遣り場の無い虚しさが込み上げて、今にも叫び出したかった。


 嘘だ。

 両目を固く閉じて、その言葉を必死で呑み込んだ。自分よりも小さなこの二人の少年が、そんな残酷な嘘を口にするはずが無い。今もどんな思いで此処にいるのか想像すると、昴の言葉は余りにも無意味で無力だった。


 ただただ、遣り切れない。

 きっと、彼等は碌に別れも言えなかったのだろう。信じたくない事実だけを突き付けられて、恨む相手も、憎む手段も無く、衝動的に此処に来たのだ。


 家族を残して死ななければならなかった和輝の胸中を思うと、堪えられない。彼等の話を聞く限り、左の手首以外は爆散したのだろう。肉片を突き付けられ、死んだと言い聞かされて、彼等は信じられなかっただろう。


 心に穴が空いたような虚しさに、昴は俯いた。

 目頭に熱が集まって、零れ落ちてしまいそうだった。


 だが、航が叱り付けるような厳しさで言った。




「泣くな」




 昴は振り返った。

 ヒーローの面影を残した少年は、澄んだ水面のような静かな目をしていた。




「泣いたら思考が停止する」




 昴は、声も無く頷いた。


 和輝に似ている。優しさと甘さを履き違えない厳しさや、妥協を許さない心の強さ、相手の言葉に耳を傾けられる誠実さが、そっくりだ。きっと、ヒーローは息子にそうして接して来たのだろう。


 森の中は濃い酸素と湿気に包まれ、歩いているだけで汗ばみ、息苦しさすら感じる。何処かで鳥の羽搏きのような音が聞こえたが、その姿はついに見えなかった。


 黙って聞いていたウルが、尋ねた。




「お前等は、どうやって此処まで来たんだ?」




 二人が現れた時、辺りはまるで天変地異のような異変に見舞われていた。昴も大きな力の到来を予期していた。それがまさか、和輝の息子だとは思わなかったけれど。


 答えたのは、湊だった。




「或る魔法使いが、親父を生き返らせる方法があるって言ったんだ」

「……それを信じたのか? 騙されているとは、思わなかったのか?」

「嘘は吐いていなかった」




 迷い無く答えた湊に、ウルは驚いたようだった。

 根拠の無い自信だと思ったのだろう。昴も、和輝という人間を知らなければ、そう思った。




「俺には、他人の嘘が分かる」




 傲慢ごうまんだな。

 ウルが吐き捨てる。だが、湊には研ぎ澄まされたような自信があった。


 和輝は、他人の嘘を見抜ける人間だった。かつて透明人間は、その能力はずば抜けた洞察力や観察力、野生的な勘の賜物たまものだと言っていた。湊は、それを受け継いだのだろう。


 便利な能力だとは、思わなかった。

 人は見たいように見て、聞きたいように聞く。だが、湊の目には希望的観測を打ち砕く事実だけが見えるのだ。期待の数だけ裏切られる。残酷な能力だ。


 湊は続けた。取り敢えず、昴を信用したような淀みない口調だった。




「シリウスと名乗っていた」

「シリウス?」




 昴は耳を疑った。

 シリウス――金色の瞳と藍色の髪をした、正体不明の魔法使い。彼は人間界を襲撃し、多数の犠牲者を出した。巻き込まれた和輝が死に掛けたこともある。

 彼が何者なのか、昴には未だに分からない。


 ウルが顔を上げた。




「シリウスは、革命軍のリーダーだ」




 革命軍――。

 王族支配を覆そうとする武装勢力。昴は、点と点が繋がるようにシリウスという魔法使いの正体を理解した。


 因果の深さに、愕然とする。

 手品のネタバラシをされているみたいだ。その見事な手際は魔法のようなのに、答えを聞くと呆気無い。


 シリウスは、何の為にこの二人を魔法界へ呼び出したのだろう。その狙いは何だ。

 昴が考えていると、ウルが前方を指差した。




「目的地だ」




 水の気配があった。

 森を抜けた先にあったのは、美しい泉だった。一点の曇りも無い硝子のような水面は、何処までも透き通っているのに、底が見えない。

 覗き込もうとした時、凪いでいた水面が音も無く波紋を打った。思わず身を引いた昴の前に、突き上げるように水流が起き上がった。


 濡れたように艶やかな黒髪と、ラピスラズリのような青い瞳。ウンディーネは、昴の姿を認めるとうっとりと微笑んだ。




「待っていたわ」




 その言葉が何を意味しているのかは、分からない。

 初めて彼女と出会った日が遠い昔のことのように感じられた。


 ウンディーネは、昴とウルを見てから、二人の少年をじっと見詰めた。二人は何も言わないし、表情も変えなかった。喜怒哀楽の感情を消失してしまっているみたいだった。


 暫しの沈黙の後、ウンディーネは言った。




「案内するわ。付いて来て」




 彼女が何を思ったのかは、解らない。

 水面は何も言わず、白いうずを作った。空間転移の魔法だ。昴が足を踏み入れようとした時、航が呟いた。




「洗濯機みたいだな」




 何処か間の抜けた感想は、いつかの和輝と同じだった。


 その感性を受け継いだ少年に、この世にはいないヒーローを想起する。けれど、彼はもう、この世の何処にもいないのだ。会うことも、話すことも出来ない。

 昴は前を向いたまま、一度だけ、鼻を啜った。

 涙が零れ落ちそうだった。

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