10.メーデー

⑴神様の夢

 みなとは時々、神様の夢を見た。


 雲の中みたいな真っ白な空間に、人が一列に並んでいる。誰もが前だけを見詰め、一言も話さない。湊はいつもその最後尾で、これから始まることにどきどきして、怖くて何かに縋りたいような心地でいた。


 そんな中、空がぴかっと光って、神様が降りて来る。

 神様は、みんなの視線を集めながら腕を広げて告げる。




「この中の一人が死ぬのなら、他の人は助けてやろう」




 神様は列の先頭から順に「お前は死ぬか?」と訊く。皆は嫌だと首を振る。すると、神様は「宜しい。ならば、次の者」と慈悲深く微笑んだ。

 湊はいつも背中を丸めて、怯えていた。みんなが首を振ると分かっていたからだ。


 そして、全員が死にたくないと答えると、とうとう湊の順番が来る。




「お前は死ぬか?」




 神様は同じ質問をした。みんなの視線が針のように突き刺さる。湊は顔を上げられず、自分の爪先つまさきをじっと見詰めて堪えていた。首を振ったみんなは、湊が頷くのを待っているのだ。


 湊は意を決して顔を上げた。答えようとすると、突然、足元が抜けた。いつも其処で、目が覚める。


 夜中に飛び起きた湊は、服のまま水浴びしたみたいに汗びっしょりになっていた。心臓が握られているみたいに息苦しくて、指先がじんじんと痺れていた。


 湊はそれを、 と呼んでいた。

 無宗教の家庭で育った湊は、神様がどういうものなのか知らなかった。ただ、絶対的なその言葉は人知を超越し、抗う余地も無いのだと信じていた。


 そんな湊が四歳の時、たまたまワイドショーを見ていた。

 オレゴン州で起きた殺人事件の目撃者が、情報を垂れ流していた。湊はその目撃者の表情や仕草の機微きびに違和感を覚えた。


 その違和感の正体に気付かぬまま数日が過ぎた頃、殺人事件の犯人を逮捕したと報道されていた。


 犯人は、あの目撃者だった。


 湊は違和感の正体を探った。

 導き出された結論は、自分には他人の嘘が分かるという事実だった。


 日常生活の中には嘘が溢れていた。微笑ましい小さな見栄みえもあれば、事件になるような重大な偽証もあった。湊は、その全ての嘘を違和感として知ることが出来た。


 嘘を指摘すると、誰もが嫌な顔をした。だから、湊は口をつぐむことが多かった。自分がを通すよりも、みんなが笑っていられる方が良いと思っていた。例え、それが不正解だと分かっていても。


 そして、言いたいことを呑み込む自分自身は、悪い人間だと思っていた。


 六歳のあの日、湊はその能力を父に知られた。そして、それがみんなとは違うことを知った。


 父も、湊と同じように他人の嘘が分かる人間だった。その為に苦労したこともあったらしい。

 父は、闇の中を独りで、ゴールの見えないマラソンをしている心地だったと言った。

 自分は恵まれたのだと、その時に思った。


 自分には父という理解者がいる。けれど、父はそうではなかった。


 その日、湊は父と二人だけで海へ行った。

 青い波の中を滑る父の姿は輝いて見えた。こんな風になりたいと、湊は強く思った。サーフィンを本格的に始めたのは、この頃だった。


 二人だけで出掛けた日、湊は父と色々な話をした。

 サーフィンのこと、学校のこと、友達のこと、家族のこと。そして、湊は父の仕事について訊いた。その頃の湊には、父が何の仕事をしているのか分からなかったのだ。


 父は、珍しく困ったように眉を寄せて、秘密を打ち明けるみたいに教えてくれた。




「命の価値を揃える仕事だよ」




 よく分からない。

 湊が追及すると、父は答えた。




「世界で戦争が起きるのはね、命の価値が違うからなんだよ」




 父はMSFの活動を通して、命の価値を揃えようとしているらしい。少なくとも、湊の周りには命を大切にしない人はいなかった。だから、父の言っていることが余計に分からなかったのだ。

 それでも、父のしていることは誰にも真似出来ないすごいことなのだと思った。




「俺も親父みたいになる」




 そう言うと、父は照れ臭そうに頬を掻いた。




「もっと沢山のことを見て聞いて、世界の広さを知って、その時に、決めるといい。お前の未来はお前が選んでいいんだよ。俺はその為に、頑張るから」




 自分の未来は、自分で決めていいのだ。

 その時、湊は度々見る悪夢を思い出した。そして、思い切って内容を打ち明けた。父は黙って相槌を打っていた。




「みんな、俺が頷くのを待ってるんだ」

「違うよ。お前がたまたま一番最後にいただけなんだ。お前が嫌なら、頷かなくてもいいんだよ」

「そうしたら、みんな死んじゃうんだ」

「死なないかも知れないだろ。みんなで協力して、その神様をやっつけることだって出来るかも知れない」




 神様をやっつけるだなんて、同級生に言ったら馬鹿にされそうだ。父は悪戯っ子みたいに笑っていた。




「お前は頷いたの?」




 湊は首を振った。




「いつも困っていると目が覚めるんだ。でも、もしも後ろにわたるがいたら、俺は頷いていたかも知れない」




 俺はお兄ちゃんだからね。

 湊が言うと、父は首を傾げた。




「航なら、絶対嫌だって言ったと思うよ」

「うん」

「お前が頷こうとしたら、きっと怒るよ」

「でも、仕方無いよ」

「嫌なら、そう言っていいんだよ。一人では出来なくても、二人なら出来る」




 そうか。

 どちらか一つを選ばなくてもいいのか。


 両方を選ぶことも出来るんだ。

 その為に努力することは、悪いことではないんだ。


 目の前にあった壁が突然取り払われたみたいに、辺りが明るくなるのを感じた。


 父は不思議だった。その大きな濃褐色の瞳を見ていると、自分の心の中まで覗かれているような気になるのに、安心する。良いところも悪いところも、父は受け入れてくれる。正解や不正解を教えてくれる。湊は、そんな風に思っていた。









 10.メーデー

 ⑴神様の夢









 十歳の秋だった。

 中東に旅立っていた父が、珍しく土産みやげを買って来た。


 同世代の友達が自慢するようなゲーム機や漫画ではなかった。父がくれたのは、小指の爪程の小さな天然石だった。


 艶々つやつやと光沢を放つ空色の石は、虎の毛皮に似たしま模様が僅かに入っている。


 ターコイズだ。

 一見すると何処にでも転がっていそうな不透明の小石は、何故だか湊の心を惹き付けて止まなかった。


 航はラピスラズリと言う夜空に似た深紫色の石を貰った。それは光に翳すときらきらと輝いて、綺麗だった。けれど、湊は羨ましいとは思わなかった。


 父は現地で知り合った友人と発掘したらしい。

 双子として生まれた湊と航がそれぞれ異なるものを貰うことは、とても珍しいことだった。アクセサリーや宝石を喜ぶような女児でもないけれど、航と違うものを父から貰ったということが湊にはこの上無く嬉しかった。


 その頃、湊と航は酷い喧嘩を繰り返していた。

 きっかけは何時も些細ささいなことなのに、どうしてか我慢出来なくて、最後には手が出てしまう。それが悪いことだと知っているのに、抑えられない。


 勝敗は付かなかった。駆け付けた母が止めると、どっちも悪くて、負けたことになる。


 あんまり酷い喧嘩になると葵くんが来て、湊と航は無理矢理引き剥がされた。喧嘩の理由を話すと、いつも苦い顔をされる。そして、結局、どちらが正しくて勝ったのか分からない。


 葵くんは、先に手を上げた方が悪いと言った。それは湊の時もあったし、航の時もあった。だから、引き分けになる。


 自分の方がお兄ちゃんなのに、航は全然言うことを聞かない。でも、お兄ちゃんだから我慢しなさいとも言われないから、お互い様なんだろう。


 そんな喧嘩を、父の前でもした。

 その日、初めて二人は揃ってしかられた。


 父は、母や葵くんみたいな怒り方はしなかった。濃褐色の目に青白い炎が見えて、湊と航は雷に打たれたみたいに固まってしまった。


 穏やかに話す父の言葉に嘘は一欠片ひとかけらも無いのに、瞳の奥には氷よりも冷たい何かがあって、胸がぎゅっと痛くなる。湊と航は揃って叱られて、互いの手当てをするように言われた。


 喧嘩をしたら、その日の内に仲直りをするのが約束だった。けれど、湊と航はお互いに黙って手当てをして、布団に入った。手足が凍り付いたように冷たくて、いつまで経っても温かくならない。


 気付くと、湊はあの夢の中にいた。

 神様が「お前は死ぬか?」と尋ねる。湊は答えられなかった。けれど、その日は、後ろに航がいた。


 此処で湊が首を振れば、次は航の番だ。どんなに仲が悪くて酷い喧嘩をしても、航は湊の弟だ。あの突き放されるような恐ろしさを航に味わわせることは、どうしても出来なかった。


 いつものように目が覚めて、身体中が鉛にでもなったように重かった。一階から聞こえる生活音に、父と母がまだ起きていることを悟る。


 もう一度眠ろうとは思えず、湊はターコイズの原石を握り締めていた。その時、二段ベッドの上から声がした。




「湊?」




 航だった。

 微睡まどろんだ猫みたいに目を擦りながらも、航は湊の起き出した気配を察したらしかった。

 何も答えずにいると、航は梯子はしごを降りて来て、湊のベッドに入った。


 湊は、航と顔を合わせるのが嫌だった。自分のしたことの結果を見るのは怖い。頬に貼ったガーゼに染み出した血が、自分を責めているみたいで、悲しかった。


 航は不貞腐れたような顔で「どうした」とだけ言った。湊はターコイズを握り締めて、絞り出すように「何でもない」と答えた。

 けれど、航は納得するまでは梃子てこでも動かないと言うように其処に胡座あぐらを掻いた。湊は観念して、神様の夢の話をした。


 航は黙って聞いていた。けれど、湊が航を庇って頷こうとしたことを話すと、目尻を釣り上げて怒った。




「お前のそういうところ、本当に嫌い」

「でも」

「俺は、嫌なら嫌だって言う。俺を庇って湊が死ぬなんてむかつく。――でも、一番むかつくのは、その神様」




 むかつく。

 航は吐き捨てるようにして言った。




「神様なら、みんなを救えなきゃおかしいじゃないか」

「神様にだって、出来ないことがあるんだろ」

「じゃあ、そいつは神様なんかじゃない。そんな奴の言うことなんて聞かなくていい」




 湊は、いつか父と話したことを思い出した。


 航なら、絶対嫌だって言ったと思うよ。

 お前が嫌なら、そう言ってもいいんだよ。


 父には全てお見通しだ。湊は怒っている航を見ると、何故か救われたような気になった。みんなが湊の死を望んでも、航だけは否定してくれる。


 航はいつも、自分の思ったことを思ったように言う。思ったことを呑み込むことの多い湊にとっては、それが腹立たしくて、羨ましかった。


 いつの間にか、湊の手足は温かくなっていた。

 喧嘩をして叱られたことも忘れて、湊は航に秘密にしていたことを打ち明けた。


 自分には、他人の嘘が分かる。


 湊がそう言うと、航はアーモンド型の瞳に、満天の星みたいなきらきらした光を宿して、――笑った。




「本当かよ、それ。すごいじゃん」




 すごい、すごい。

 手放しで称賛しょうさんする航に、湊は胸の中が温かくなる。


 自分の嫌いなところを、認めてくれる人がいる。こんなに近くにいたのに、自分は一人でからに閉じ籠って、何をしていたのだろう。


 もっと早く、話せば良かった。

 航は気味悪がったり、離れて行ったりしない。これからも喧嘩をするだろうし、腹も立つだろう。けれど、どんな時も本音で話せる航と、双子の兄弟で良かったと心から思った。航がいて、良かった。


 荒れた夜の海のような心の中に朝陽が昇って、海面は穏やかに凪いで行く。其処に現れた光り輝くものこそが、希望なのだ。


 父が口癖のように言っていた。

 失っても、失っても、希望がある。だから、諦めたらいけない。


 航は少し黙って、ばつが悪そうに目を伏せながら言った。独り言のような小さな声だった。




「明日、一緒に親父に謝ろう」

「うん。お母さんにもね。きっと、心配を掛けた」




 航は何かを言いたげだったけれど、気付かない振りをした。


 その日は二人で同じベッドで眠った。航の体は温かくて、湊はすうっと眠りに落ちた。


 神様の夢は、もう見なかった。

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