4.生命の証明
⑴無垢の刃
衝動的な行動は、他者を巻き込み、最悪の事態を招く恐れがある。
先日の井戸での一件から、昴はそれを学んだ。何か行動を起こす時にはまず冷静に考え、結論が出なければ相談する。和輝が
では、もしもそれが他者には理解はおろか、知覚することすら困難な事柄だった場合はどうするのだろう。相談するという行為自体が最悪の事態を招く恐れがある場合は?
昴は、大きな紙袋を抱えていた。中には野菜や果物などの食料品が大量に詰まっている。
和輝と日用品や食料品の買い出しの為に、近くの街まで買い出しに来ていた。災害に見舞われた界隈は未だにその傷跡を残しているけれど、人々は既に復興の為に動き出している。
死者は蘇らない。生者は常に前へ進まなければならないのだ。
商店街を抜けた先、昴は広場の噴水の側に座っている。背中に水音を聞きながら、中々現れない和輝を待っていた。
買い出しを済ませて帰路に着こうという瞬間に、和輝は買い忘れを思い出したらしかった。荷物と昴をこの噴水の前へ置いて、大急ぎで道を引き返した。だが、何処で道草を食っているのか、一向に帰って来ないのだ。
昴は、ぼんやりと道行く人々の群れを眺めていた。
見ていると色々なことが分かる。男がいて、女がいる。老人がいて、子供がいる。人には色々な種類が存在し、中には肌や瞳の色の違う者もいる。肌を露出する女がいれば、きっちりと隠す男もいる。それは千差万別なのだろう。彼等は歯車のように己に与えられた役割を果たし、生活を送っている。
その時、広場の端で悲鳴が上がった。
ひったくりだ。
誰か捕まえてくれ。
人々の声が遠くで聞こえる。昴は思わず腰を上げたが、何か出来ることがある訳でもなく、二の足を踏んだ。
けれど、その時、人混みの中から小さな影が飛び出した。
和輝だった。
和輝は覆面男の前に躍り出ると、突進する男の腕を一瞬で掴んだ。次の瞬間、男の体は中に浮いていた。
美しい石畳の上、男が叩き付けられる。くぐもった
和輝は賞賛の拍手に軽く応えながら、何でもないような顔で昴の元へやって来た。
「待たせてごめん」
和輝は笑っていた。
離れたところで男は興奮したように賞賛し、女は頬を紅潮させてうっとりとしている。どうやら、小柄な和輝は、世間一般でいうところの魅力ある男らしかった。
昴は和輝と連れ立って、民衆の注目を集めながら、
帰り道、昴は先程の捕り物劇を思い出して訊いてみた。
「あの男の人は、何をしたの」
「ひったくりだよ」
「ひったくりって何?」
「路上でいきなり人の手荷物を奪って逃げる人のことだよ」
「それはいけないことなの?」
「いけないことさ」
和輝は言った。
昴は不思議に思って、問い掛けた。
「なあ、和輝」
「うん?」
昴は和輝と呼ぶようになったが、当の本人はちっとも気にしていないらしかった。
先程の捕り物劇とは掛け離れた幼い動作で、小首を傾げている。
「人を傷付けたり、殺したりすることは悪いことなんだろ?」
「そうだよ」
「じゃあ、あの人は悪い人なの?」
すると、和輝は何故か悲しそうに目を伏せた。
「悪い人とは、限らないよ」
彼が言うには、覆面の男の衣服は汚れ、擦り切れていたらしい。生活に
この街は先日の襲撃によって一部崩壊し、家を失った者もいたという。家財一式を失った者は路上で暮らし、今も助けの手を求めている。
昴は考える。
ならば、彼等を助けてやればいいのではないか。金を与え、住居を手配し、不自由なく暮らせるようにしてやればいい。
考え込む昴の横で、和輝は紙袋を抱え直しながら、言った。
「本当に必要なのは救済ではなくて、それを求めなくても済む環境を作ることなんだよ」
誰も助けを求める必要の無い世界。
それは、どんな世界なのだろう。和輝の目には見えるのだろうか。
その時、昴は
雑踏の中、ヒーローを賞賛する声が其処此処から聞こえる。けれど、昴の目には別のものが見えた。
一見すると、それは老女に見えた。真っ白い頭髪は日光を鋭く反射し、布切れのような白いワンピースが風を
少女は指先で円を描いた。その瞬間、空気のひび割れるような音がして、周囲の人間が驚き声を上げた。
静電気だ。
人々の興味と驚きは一瞬だった。少女には
透明人間だ。
昴はそう思った。目の前にいるのに、知覚されない。
昴がぼうっと見ていると、先を行く和輝が呼んだ。
今行くよと足を踏み出す前に、最後に振り返る。少女は口元を緩めて、手を振っていた。
またね。
そんな声が、確かに聞こえた。
4.生命の証明
⑴
帰宅した昴は、手洗いと
葵だ。
目を疑う程に存在感が希薄で、感情の無い無表情は生きているのか死んでいるのか判断が難しい。
葵は独り言みたいに「おかえり」と彼等の国の言葉で言った。昴も条件反射みたいに「ただいま」と答えた。
和輝は買い込んだ食料品を、せっせと冷蔵庫に片付けている。葵が言うには、その姿は冬に備えて木の実を隠す小動物に似ているらしい。昴にはよく分からない。
互いに必要な会話も無かったので、昴は先程の捕り物劇を葵へ話した。
「あの馬鹿は出しゃ張りだから、すぐに関係の無いことにも首を突っ込む」
「それは悪いことなの?」
「ああいうことをしていると、その内に手に負えない程の事件に巻き込まれるんだ。そして、あいつはあっさり死ぬ」
ああ、そうか。
葵は和輝に生きていて欲しいから、関係の無いことには巻き込まれて欲しくないのだ。
「和輝は、そのひったくりは悪い人とは限らないって言っていたよ」
「なんで?」
「その人にも事情があったんだって」
「事情があれば正当化される訳じゃない。同情の余地はあるがな」
葵の言うことは、難しい。けれど、昴にとってはそれよりも和輝の考え方は理解出来ないことが多かった。
どうして人を殺してはいけないのかと訊いた時、和輝は自分が嫌だから駄目なのだと言った。どうしてそれが嫌なのか、昴にはまだ理解出来ない。
冷蔵庫に食材を詰め込み終えた和輝が、一仕事終えたみたいな達成感のある顔付きでやって来た。三人分のマグカップを器用に運び、ソファへどっと
葵は当然のようにマグカップを受け取って、
昴はコーヒーの美味さが分からない。その為、いつも牛乳と砂糖で味を薄め、葵に白い目で見られる。
リビングが沈黙に包まれる前に、昴は口を開いた。
「和輝は前に、人を殺してはいけないと言った」
「うん」
テレビを眺めながら、和輝は興味も無さそうに頷いた。
昴は口を
「和輝は、どうしてそれが嫌なの」
「誰かが悲しい思いをするだろ」
和輝は即答した。
昴は、死んだことが無いし、身近な人を失ったという記憶も曖昧だ。だから、それが分からない。
彼等にとっては当たり前のことなのだろう。けれど、昴は訊かなければならないと思った。
「誰も悲しい思いをしないのなら、人を殺してもいいの?」
「駄目だよ」
やはり、和輝は即答だった。
其処で漸く視線は昴へ向いた。濃褐色の瞳は透明感のある奇妙な光が宿っている。光の反射の具合によるものなのか、彼の人柄から
「俺はね、医者なんだよ。人を生かすことが仕事だ。死にそうな人がいれば、助ける。助けようとした人が死んだら、悲しい。俺は悲しいことは嫌だ。だから、駄目だ」
さらさらと、砂が零れ落ちるように
「でも、世の中には良い人もいれば、悪い人もいる。和輝が幾ら人を生かそうとしても、殺そうとする人がいる。それなら、悪い人間は殺した方が良いんじゃないか?」
すると、和輝はぎゅっと眉根を寄せた。
怒っているというよりは、悲しそうな顔だった。それを見ると、昴は罪悪感に
和輝が一瞬黙った時、葵が呆れたように言った。
「お前なら、良い人間と悪い人間は、どのように判別するんだ?」
「罪を犯したかどうかじゃないかな」
「さっき言っていたひったくりは殺してもいい人間か? 罪の重さはどうやって判別する?」
昴は黙った。葵の問いに対する答えが分からなかったからだ。
葵は、昴の沈黙を見越していたかのように言った。
「この世はグレーゾーンなんだ。善悪に明確な定義がある訳じゃない」
「じゃあ、悪い人はどんどん人を殺すだろ」
「その為にルールがある。誰かに殺されるかも知れないという恐怖の中で、人は充実して生きられない。だから、互いに殺してはいけないというルールを守っている。このルールを守れない人間には罰が下される」
「どんな罰?」
「色々あるが、お前の話に合わせるのなら、極論は死刑だな」
じゃあ、殺しても良いってことになるんじゃないか。
昴は頭を掻き
けれど、葵は続けた。
「人の生き死になんて、本来は人間が決めて良い領分じゃない。だが、死ぬことでしか
感情の無い無味乾燥な声で、葵が言った。
昴は子供のように問い続ける。
「じゃあ、みんなが必要無いと思う人は殺してもいいってこと?」
「この地球上に存在する全ての人間が同じ答えを出す可能性は
「でも、実際に人を殺すというルールはあるんだろ」
「それは極論なんだよ。殺すことでしか成立しない社会は崩壊しているも同然だ」
「じゃあ、例えばこの家の中で和輝と葵が酷い喧嘩をしたとして、どちらかが一方を殺したとしたら、殺した方は死刑になるの?」
葵は何かを答えようとした。だが、その途中で、油の切れた人形みたいに止まった。和輝が拳を握っている。
怒っているのだろうか。人を生かす医者であるという和輝にとっては、これ以上無い程の
「この話はもう、おしまいにしよう」
和輝が唐突に言った。いっそ不自然な程の柔和な笑顔を浮かべていた。
尻切れ
「いいか、よく聞け。お前が人を殺したり、傷付けたりすると、俺は悲しい。其処にどんな理由があっても、誰が相手であってもね。だから、駄目なんだ」
俺の前で、その話題は二度と口にしないでくれ。
和輝は絶対零度の笑顔を貼り付けて、言った。昴も葵も黙っていた。
和輝はそのままマグカップを片手に、自室へ
「和輝を、怒らせたかな」
「怒ってはいないよ」
よく分からない。
けれど、自分の純粋な疑問が、和輝を悲しい気持ちにさせてしまったということだけは、分かった。
昴とて、和輝にあんな顔をさせたい訳じゃなかった。ただ、分からなかったのだ。
「きっと、今日の夕飯は手抜きだぞ」
茶化すように葵は言ったけれど、昴は笑う気も起きず、閉ざされた和輝の自室の扉を見詰めていた。
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