⑹君の為に出来ること

 火の海に包囲されながら、和輝も葵もすっかり気が抜けてしまったらしかった。


 だらしなく胡座あぐらを掻き、葵に至っては頭を抱えている。


 初めからロキがいれば、こんな苦労は無かったのだ。命懸けで怪物と戦った二人が可哀想ないくらいだ。


 そして、そんな二人を嘲笑うようにロキは扉の前に立ち、掌をかざした。すると、扉に刻まれていた謎の文字が淡く光った。


 両足を投げ出したまま、和輝は興味も無さそうに問い掛ける。




「それも魔法の何かなの?」

「そうだよ。魔法の扉だよ」




 和輝が溜息を吐いた。

 彼が溜息を吐くのは珍しい。ロキは光る文字を見詰めている。




「見たこと無いか?」

「俺の専攻はドイツ語だったから」




 和輝は投げやりだった。葵も突っ込まない。先程までの緊張感は消え失せ、喜劇みたいな滑稽こっけいさながら、笑うことも出来ない。

 ロキは和輝の本気だか冗談だか解らない言葉を聞き流して言った。




「ルーン文字だよ」

「ああ、それが噂の」




 知らない癖に。

 昴は、適当なことを言う和輝の言葉に内心で突っ込んだ。


 淡く光る文字に照らされて、ロキの相貌が白く見える。昴は問い掛けた。




「なんて書いてあるの?」

つまんで言うと――、この扉は魔法使いにしか開けられません。魔法使いじゃない奴はお帰り下さいってところかな」




 ロキも本気だか冗談だか分からないことを言う。

 真偽の程は定かではないが、兎に角、和輝や葵が幾ら奮闘したところで、この扉は開かなかったのだ。結局、無駄な労力だった。


 ロキが手を離すと光が消え、代わりに扉がゆっくりと開いた。当たり前のように先陣切って進むロキに、葵が渋々と後を追う。


 昴も追い掛けようとしたが、中々立ち上がらない和輝に気が付いて、声を掛けた。和輝は光の消えた扉をじっと見詰めている。




「どうしたの?」

「俺、語学にうといんだ」

「うん?」

「だから、彼処に何て書いてあるのかは分からない。けど、魔法使い以外立入禁止なんて簡単なメッセージだけとは思えないんだ」




 和輝が何を言いたいのか分からない。葵なら分かるかも知れない。通訳の為に呼び戻そうとしたが、それは和輝の不吉な言葉によって阻まれた。




「彼処に書かれているのは、多分、だよ」




 一瞬、昴は息が詰まった。和輝は全くの無表情で、まるで知らない人間のようだった。


 その意味を追及しようとした時、扉の中から葵の呼ぶ声がした。和輝は何事も無かったかのように返事をして、部屋の中へ入って行った。


 取り残された昴は、扉に刻まれた文字を見詰めた。アルファベットに似ている文字もあるが、子供の落書きにも見える。解読なんて出来ない。和輝は何を根拠にしているのか。だが、何故だか、それが恐ろしいものに思えて、昴は冷たい風が吹き抜けるように恐怖に包まれた。


 遅れて部屋の中へ入った昴は、その狭さに驚いた。凡そ四畳半。窓は無く、天井も低い。こんなところに小一時間もいたら、自分は発狂すると思う。壁際には古い机と椅子が一つずつ置かれ、すぐ隣には空になった本棚があった。


 ロキが言うには、抜け道や隠し部屋の類は無いらしい。念の為に葵も一つ一つ壁や家具を調べたが、結論は同じだった。


 あれだけ苦労して到着した先が、この小部屋か。

 昴は虚しさにひざを突いてしまいそうになった。期待した財宝も無い。けれど、和輝と葵はまるで気落ちせず、興味深そうに内部を物色している。


 何が面白いのだろう。昴はぼんやりと部屋の中を見渡し、空になった本棚に、一冊だけ古書が残されていることに気付いた。

 手に取るとそれは今にも崩れてしまいそうだった。横から覗き込んだ葵が、表題を教えてくれた。如何やら、中世ヨーロッパの歴史書らしい。全く意味が解らない。


 その時、頭の後ろで手を組んだ和輝が、唐突に言った。




「ロキは、何者なの」




 その声は平時と変わらぬようでありながら、誤魔化しを許さない強さがにじんでいた。昴と葵は揃って顔を上げた。ロキは軽薄に微笑んでいる。




「俺は昴の友達の魔法使いだよ」




 前と同じ返答だった。しかし、和輝は引き下がらなかった。




「君の名前を聞いて、一つだけ思い付いた」

「ふうん?」

「ロキは、北欧神話に登場する神様の名前だ」




 何かの確信を持った強い言葉だった。

 横で聞いていた葵が、注釈のように付け足す。




「ロキとは、北欧神話に登場する悪戯いたずら好きの神だ。神と敵対するヨトゥンの血を引きながらも神々の王国に住み、厄介事やっかいごとを持ち込んだり、その智略ちりゃくによって神々の窮地を救ったりする北欧神話最大のトリックスターでもある」

「詳しいね」




 ロキが戯けるように言ったが、葵は欠片も笑わなかった。




「その名は閉じる者、終わらせる者の意を持つ。また、ロキという神は炎の化身でもあるという」




 炎の化身――。

 これまで、ロキは魔法使いと自称し、炎の魔法を行使して来た。和輝の入院する病院が燃えた時には、火を消す為に爆風を起こしていた。


 和輝と葵は、既に確信を得ているのだろう。ロキは可笑しそうに目を細めて、拍手をした。




「偉いね、勉強して来たんだね」

「これだけ巻き込まれたら、流石にね」

「御褒美をあげるよ」




 そう言って、ロキは両手を広げた。それは今にも飛び立とうとする鳥類にも、種も仕掛けも無いと示す手品師にも見えた。




「確かに、俺の名前は北欧神話に登場する神様から拝借した。俺の名前はロキではない」

「じゃあ、お前は何者なんだ」




 ロキはその面に笑顔を張り付けたまま、答えなかった。その時、昴の脳裏には、あの病院で対峙したシリウスの顔が過った。

 現実かと疑う程の凄まじい魔法の攻防の最中、シリウスはロキをこう呼んだ。




「サラマンダー」




 昴が口にした瞬間、ロキが瞠目した、

 動揺は一瞬で消え去り、ロキはへらりと笑った。




「覚えていたか」




 観念したように手を上げて、ロキが言った。

 葵は眉をひそめた。




「サラマンダーは炎の化身だ」




 また、炎だ。

 ロキは微笑んでいる。証拠が揃っているのに悪足掻きする下手な犯人みたいだ。


 昴がめ付けると、ロキは猫のように目を細めた。




「お前等、四元論って分かるか?」

「分からない」




 間髪入れず、和輝が真面目な顔をして即答する。ロキは可哀想なものを見るような目をした。葵はそれを鮮やかに無視して言った。




「この世界の物質が四つの元素で出来ているという考え方だ」

「四つしかないの?」

「昔の考え方だよ。この世の物質は風、水、土、火の元素から構成されていると考えられていたんだ」




 昴は全く理解出来なかった。多分、和輝もよく分かっていない。葵ばかりが真相を手にした探偵のように語る。




「それぞれの元素には呼び名がある。風はシルフ、水はウンディーネ、土はノーム、火はサラマンダー」




 サラマンダー。昴は口の中で呟いた。


 ロキは葵の言葉を継いだ。観念したというよりも、隠すことに飽きたようだった。




「サラマンダー、それが俺の名前だ。炎の化身、エレメントと呼ばれる概念そのものだ。故に性別も無いし、人間ですら無い」

「――本性は、大蜥蜴おおとかげか?」




 葵が言った。眉間にはくっきりとしたしわが寄せられている。ロキは曖昧に笑って答えなかった。


 葵は追求しなかった。既に理解の範疇はんちゅうを超えてしまったのだろう。頭痛を堪えるみたいに頭を抱えて、うずくまってしまっている。昴は流石に気の毒になって隣にしゃがみ込んだが、片手で軽く放逐ほくちくされた。


 ロキは構わず和輝へ視線を向けた。




「俺にも教えてくれよ。お前は何の魔法使いなんだ?」




 和輝は不思議そうに目を丸めた。




「俺は魔法使いじゃないよ」

「それも妙な話だ。魔法も使えないただの人間風情が、これだけ立ち回れるはずがない」

「……はあ?」




 気を悪くしたように、和輝がうなる。




「お前がどれだけ魔法使いを偉いと思ってるんだか知らないけど、――人間をめるなよ」




 すると、ロキは可笑しそうに声を上げて笑った。

 昴には、その姿は魔法使いとか、エレメントとか、神様とか、そんな小難しい存在には見えなかった。まるで、――ただの人間に見えた。


 腹を抱えて笑うロキを軽くにらんで、和輝は背中を向けた。座り込む葵を覗き、声を掛けている。




「葵、帰るぞ。夕飯はカレーだ」




 脳も身体も限界を越えたらしい葵は、返事をしなかった。意識を失くしているのかも知れない。


 仕方が無いな、と言って和輝は、自分よりも大きな葵を背負った。その姿は不恰好だが、彼等らしいと思った。


 何だかなごんでしまい、昴はその背中を見詰めていた。和輝が振り向いて、言った。




「早く行くぞ。一緒にカレー食うんだろ」




 その言葉は、昴だけでなく、ロキにも向けられていた。

 先程までの剣幕は無い。昴もロキも毒気抜かれたような心地になって、ゆっくりと帰路を辿たどることにした。


 洞窟を出た頃には既に日は落ちて、夜になっていた。

 昴は昔の和輝が話してくれた浦島太郎の昔話を思い出した。洞窟の中では永遠にも似た長い時間を過ごしたように思うが、実際は数時間だったのだ。


 和輝も葵も、酷い姿だった。

 衣服は泥だらけで、すすを被った頭は老人のようだ。身体の彼方此方あちこちを擦り剥き、血が滲んでいる。昴も大して変わらない姿だったが、それは自業自得だ。


 彼等に伝えなければならない言葉がある。

 それなのに、言葉が出て来ない。昴が言いよどんでいる中、和輝が言った。




「気にすんなよ、昴。俺も葵もこんなの、日常茶飯事なんだから」




 前だけを見ながら、和輝が言う。




「でも、次は一言くらい、相談してくれ。何が出来るかなんて分からないけど、何か出来ることがあるかも知れないだろ。俺も葵も、すごくすごく、心配したんだぞ」




 昴にとっては、和輝も葵も他人だ。魔法使いですらない。けれど、他人の為に危険もかえりみず後を追って、当然のように助けてくれた。


 一人で洞窟へ入った昴を、葵はどんな気持ちで追い掛けたのだろう。昴と葵がいなくなって、和輝はどんな思いで探したのだろう。




「昴にも事情があるのは、知ってるよ。でも、これだけは約束してくれ。……何処にもいなくならないって」




 俺も葵も、そういうのはトラウマなんだ。

 そう言って、和輝は笑ったようだった。けれど、本当は笑ってなんかいなかったのかも知れない。




「何処にもいなくならないよ」




 昴が言うと、和輝は満足そうに笑った。何の拘束力も無い口約束だ。けれど、彼等はそれで良かったのだ。ただ、それだけで。







 3.ヒーローと魔法使い

 ⑹君の為に出来ること








 和輝は皿を洗っていた。

 二日分をまとめて作っていた筈のカレーは、結局一晩でからになってしまった。葵は寝ていたので、ほとんど和輝とロキで消費したことになる。


 明日の昼食はカレードリアかコロッケにしようと思っていたが、予定を変更しなければならない。冷蔵庫を覗くと買い溜めしていた油揚げがあったので、明日は稲荷寿司いなりずしを作ることにする。


 下拵したごしらえをしようか悩んだが、時刻を見ると午前一時を過ぎていたので、止めた。朝食はトーストでいい。文句を言うなら玉子焼きでも作ってやろう。


 冷蔵庫を閉じてキッチンを出ると、リビングではロキがソファでくつろいでいた。興味深そうにテレビを見ている。

 普段ならソファは昴のベッドだったが、流石に身体に悪いので客用の布団を貸してやったのだ。今頃は和輝の自室で泥のように眠っているだろう。


 和輝はソファへ座った。丁度、ロキとは対面する形となった。コーヒーを淹れても良かったが、寝る前で、歯を磨いた後だったので止めた。


 一応、葵と自室の気配を探り、二人が寝ていることを確かめる。ロキは何かを察して姿勢を正したが、相変わらず何を考えているのか分からない顔で軽薄に笑っている。


 今更、誤魔化したり、気を使う理由も無い。自分が全てを理解出来るとは思っていないが、訊かなければならないことがある。


 和輝は単刀直入に問い掛けた。




「お前の目的は何なの」




 テレビの音声は雑音になっていた。

 ロキは口元に微かな笑みを残し、問い返した。




「どういう意味?」

「お前がサラマンダーと呼ばれる人間ではない概念そのものだってことは分かった。いや、本当はよく解ってないけど」

「正直だな」




 呆れたように、ロキが言った。

 口元からちらりと鋭い犬歯が覗く。葵の話によればサラマンダーは大蜥蜴おおとかげだ。犬歯ではなく、牙なのかも知れない。


 危うく思考が脱線しそうになり、和輝は続けた。




「昴の味方をする理由は何なの」

「神木葵から聞いてないのか?」

「葵はそういうことは話さないよ」




 葵だって、隠し事くらいするだろう。


 否、本当は知っていた。

 葵が隠し事をする時は、自分の為だ。

 意味の無い嘘は吐かない。




「俺は今、お前の口から聞きたいんだ」

「――ああ、他人の嘘が解るんだったな」




 それが果たして、人間の姿をしただけの概念そのものに効果があるかは分からないけれど。

 このままではかわされる。畳み掛けるつもりで、和輝は追及した。


 ロキは微笑み、あっさりと答えた。


 魔法使いという種族、異なる次元に存在する、知覚不可能な世界。弱肉強食のヒエラルキーと王族の存在。

 昴が置かれている立場、その体に刻まれた強大な魔法構造、陰湿な権力闘争。ロキは、監禁されていた昴を脱出させ、記憶を消して人間界へ隠した。


 信じ難い御伽話だ。

 けれど、ロキが嘘を言っている様子は無かった。


 赤い瞳が瞬く。それは獲物を前にした捕食者の眼差しだった。




「俺は昴を王にしたい」




 和輝は、机の下で拳を握った。

 そうだろうな、と思った。そうでなければ、辻褄が合わない。




「延々と続く王家の独裁は見ていてつまらないからな。そろそろ、革命が起きなければならない」




 愉しそうに語るロキには、得体の知れない恐ろしさがある。和輝に対して人間風情と言ったその口調も、人間を超越した別の存在であることを暗示していた。




「王族の独裁は、頭が代わったところで何も変わらない。俺は退屈していたんだ。そんな時、嫡子ちゃくしにのみ継承されて来た特殊な魔力構造が、王族とはいえ末席の、それもしいたげられていた昴に発現したんだ。――皮肉じゃないか!」




 魔法使いの社会のことは、和輝には分からない。弱肉強食も自然の摂理だ。独裁を一方的に批難することは難しい。


 和輝は低く問い掛けた。




「お前は混沌を望むのか」




 それでは、昴を権力争いに利用しようとする王族と同じだ。ロキは何を望んでいるのだ。


 昴が王になれば、まずは混乱が起きる。従う者もいるだろうが、反発する者もいるだろう。反対派はやがて内乱を起こすかも知れない。その時に、誰が昴を守ってくれる?


 ロキは答えなかった。

 和輝は更に問い掛ける。




「昴を王にして、何が変わる?」

「昴の政治手腕に期待するばかりだが、少なくとも、この血を血で洗う継承争いは終結するだろうな」

「その特殊な魔力構造の為か? 何故、それ程までに恐れる?」

「昴の持つ魔力構造は、犠牲の数だけ力を増幅させる。昴がその気になれば、反対派をまとめて処分することも可能だろうさ」

「……王様らしい力だな」




 和輝は吐き捨てた。

 犠牲の数だけ力を増幅させる。あの日と同じだ。昴は自分を助ける為に、大勢の人間を犠牲にした。昴はその力を使いこなせていなかった。




「その為に、昴に人殺しになれって言うのか?」

「大なり小なり、上を目指す以上は犠牲は付きものだ」

「どうして昴が背負う必要があるんだ。今の昴がそれを望んでいるとは、俺には思えない」

「昴の意思がどうであれ、争いは始まっている。無関係ではいられない」

「継承権の放棄は?」

「無駄なことだ。特殊な魔法構造を持っている限り、狙われるだろう」




 和輝は何も言えなかった。

 昴は自分が力を制御出来ていないことを悔やみ、何か出来ることを探して、一人で洞窟に足を踏み入れたのだ。

 昴の行為は無謀だった。浅慮を責めても良かった。だが、これからも魔法使いという恐ろしい刺客に襲われることを考えると、力を制限しようという考えは間違っていない。あの病院で、大勢の死者を出してしまった昴の苦悩は計り知れない。




「ただの人間には、何も出来ないよ」




 断崖絶壁から突き落とすように、ロキが言った。だが、和輝は踏み留まるつもりで言い返した。




「人間をめるなよ」




 和輝は側に掛けてあったブランケットをロキへ投げ渡した。おやすみと言い捨てて、さっさと自室へこもる。


 色々なことがあり過ぎて心身共に疲れ切っていた。ベッドが早く寝てしまえと甘美に誘っている。


 その横では、客用布団で昴が潰れたかえるみたいにして眠っていた。年相応の幼い寝顔だった。


 自分が彼くらいの頃は、何をしていただろう。ぼんやりとそんなことを考えて、自分がやけに年老いたように感じる。


 何が出来るかなんて分からない。だが、誰も巻き込むまいとたった一人で洞窟に足を踏み入れた昴の思いを、無駄にはしたくない。


 だから、一つだけ誓う。


 自分は、何があっても昴の味方でいる。彼が道を踏み外すのなら、導いてやろう。彼が一人で行かなければならないその時まで。

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