⑸暗闇の攻防
和輝はリュックの中を
葵は岩陰から怪物の動向を探り、
巻き込んだ張本人でありながら、出来ることが無いというのも遣る瀬無い。しかし、手伝いを申し出ると、あっさり却下されてしまった。
器用に十徳ナイフを扱う和輝は、傍目には分からない程に精密で専門的な作業をしているのだろう。手際良く一つ二つと作り上げて行くその様は、ドミノ牌を並べていた時に似ていた。
邪魔する訳には行かないが、やることも無い。昴は声を潜めて、作業に没頭する和輝へ問い掛けた。
「和輝って何者なの?」
「何が」
顔も上げず、和輝が返した。
「発火装置って、精神科医に作れるものなの?」
「これはまあ、昔取った
よく分からない。葵の過去が波乱万丈であったことは聞いたが、和輝は何処かちぐはぐで、違和感がある。精神科医としての腕を疑うつもりは無いが、必要外の技術がやけに
「
葵が言った。
彼が言うには、昔、和輝がフリーターだった頃に好奇心から色々と手を出して、使うか使わないかも解らない技術を習得していたそうだ。それこそ、泳いでいなければ死んでしまう
「何かしないでは、いられなかったんだろうね」
記憶が無い為か、他人事みたいに和輝が言う。
昴には、それが分かるような気がした。何が出来るかは分からないけれど、何かしないではいられない。それは昴がこの洞窟へ来た理由と同じだった。
だから、和輝は昴を責めないのだ。それが
さて、と言い置いて、和輝は立ち上がった。その足元には十個程の発火装置と、一回り大きな装置――小型爆弾があった。
製作の為にランタンは分解してしまったので、光源は細い懐中電灯の光だけだ。それでも、和輝も葵も怪物の姿が見えているらしく、同じ方向をじっと見詰めていた。
「作戦開始の合図は俺がする。計画失敗の合図は葵に任せる。その時は昴を連れて逃げてくれ」
「お前は?」
「俺一人ならどうとでもなるよ。無茶はしない。約束したからね」
「そうだな。お前が死ぬ時は、俺が殺す」
「お前を残して死ぬ気は無い」
何やら物騒な会話をして、二人は笑ったようだった。
何が可笑しかったのか解らないが、追及したところで理解出来るとも思えない。
和輝はリュックを背負った。彼はこれから怪物の横を擦り抜けて、断崖絶壁を身一つで登るのだ。登頂後は閃光弾で合図をすると言う。
「さあ、行くか」
闇の中で、和輝の双眸が奇妙に光って見えた。それはいつもの澄んだ湖畔のような透明感とは違う、燃え盛る紅蓮の炎に似た光だった。
3.ヒーローと魔法使い
⑸暗闇の攻防
作戦の通り、和輝は闇の中へ消えて行った。昴には見えないが、葵が言うには怪物の左下を掠めるように駆けているらしい。
このまま気付かないでくれと願いながら、昴は手の中の発火装置を握った。余り強い力を与えると誤作動すると葵が忠告した。
だが、今は祈ることしか出来ない。
その時、闇の中で魔獣の唸り声が低く響き渡った。
それは侵入者に対する
暗黒の中で和輝の声がした。
合図だ。和輝が助けを求めている。昴が構えるより早く、葵は手の中の発火装置を放り投げた。それは直線上に空気を裂いて、怪物の側で発火した。
一瞬、怪物の一部が照らされる。
蛙の形をした頭部が闇に浮かび、気味の悪い悲鳴を上げた。
間髪入れず、昴はその対角線を狙って発火装置を投げた。目的は撹乱だ。和輝が擦り抜ける一瞬を作らなければならない。
今度は体毛に覆われた蜘蛛の脚が照らされる。それは背筋が凍るような不気味な光景であった。
和輝が怪物の横を抜けたと、葵が言った。けれど、怪物は和輝に狙いを定めたらしく、足音も無くその後を追い掛けている。
葵は走り出した。
「こっちだ、化物!」
怪物の足元で発火装置が爆ぜる。
葵は、怪物を和輝から遠ざけようとしているのだ。その狙いの通り、怪物は葵を獲物として捉えたようだった。
暗闇の中で、地を
何が起きているのか分からない。葵が襲われている。だが、援護しようにも彼が何処にいるのか見えない以上、下手な攻撃は巻き込む恐れがある。
昴が二の足を踏んでいると、目と鼻の先で風を切る音がした。
巨大な何かが、地面に突き刺さる。懐中電灯の光に照らされたそれは、蜘蛛の脚であった。昴の身の丈を優に超える鋭利な爪先が地面を抉っている。
全身から汗が吹き出して、戦慄に震えが止まらない。昴の身体は硬直していた。だが、その時、怪物目掛けて発火装置が投げ付けられた。
「お前の相手は、こっちだ」
闇の中、葵が勇ましく立ち向かう。
昴は転がるようにして逃げ出した。怪物がゆっくりと方向転換し、発火装置の投げられた場所――葵の元へ迫る。
怖い。
怖い。
怖い。
あんな怪物に立ち向かうなんて、頭がおかしい。狂ってる。倒せる筈無い。けれど、逃げ切れるとは思えない。
皆、死んでしまう。
葵も和輝も、どういう神経をしているのだ。死んでもいいのか。怖くないのか。
その時だった。
遠くから何かの破裂する音がして、闇に慣れた視界は真っ白に染まった。閃光弾。和輝の合図だ。本当に怪物の横を抜けて、あの崖を登り切ったらしい。
怪物の雄叫びが
「行くぞ!」
葵だ。
懐中電灯の微かな明かりに照らされた葵は、泥と
足場の悪い洞窟内を駆け抜ける。昴の目には何も見えない。何処かから聞こえる怪物の雄叫びと、追撃の轟音。それを
途中、昴は何度も躓いた。
しかし、葵はその手を離さなかった。
突然、葵は立ち止まった。どうやら、目的地に到着したらしい。懐中電灯で照らされた先は、壁と呼ぶに相応しかった。けれど、其処にはハーケンが
本当に、和輝は此処を登ったのか。そして、自分も登るのか。
背後から怪物が迫る。葵は何の躊躇も無くハーケンに足を掛け、登り始めた。
「扉は開いたか?!」
壁を登りながら、葵が問い掛ける。昴は見様見真似で後を追った。
頭上で和輝が叫ぶ。
「明かりが欲しい!」
昴は手の中の懐中電灯を見遣った。流石の和輝も、闇の中では扉を開けることは出来なかったらしい。
葵は舌打ちをして、懐中電灯を奪った。
「しっかりついて来いよ」
そう言って懐中電灯を口に
扉が開かなければ、逃げ場が無い。そうなった時に最も危険なのは和輝だ。優先すべきは扉の突破。昴は死に物狂いで追い掛けた。
だが、住処を荒らされた怪物が黙っている筈も無い。
後方で風を切る音がした。だが、それは頭上の破裂音によって阻まれた。
和輝だ。
葵と昴が到着するまで、本当に扉の前で食い止めようと言うのだ。
発火装置に照らされた怪物の双眸は、獲物を前にぎらぎらと光っている。其処にあるのは本能的な
蜘蛛の爪先が振り上げられ、地響きと共に壁へ突き刺さる。和輝はひらりと躱し、次の発火装置を蛙の頭部を狙って投げ付ける。
破裂音、爆炎。壁を抉る鈍い音。彼等の攻防がどれだけ続いたのか、時間経過は曖昧だった。だが、和輝の抵抗が毛程も効いていないと言うことだけは、確かだった。それどころか、火に油を注いでいるかのように攻撃は激しくなる。
其処で漸く葵が到達した。懐中電灯の光が扉を照らす。闇の中で、葵が声を上げた。
「なんだ、これは」
扉まで到達したら、葵がピッキングするか、和輝が蹴破る。そういう計画だった。
遅れて到達した昴は、葵の言葉の意味を理解した。
扉は、一見すると鋼鉄製の一枚扉である。昴とそう変わらない程の大きさで、不審な点は無い。ただ、重大な問題がある。
取っ手と鍵穴が無いのだ。
懐中電灯の細い光に照らされた其処には、見たことの無い難解な文字が無数に刻まれている。これでは、ピッキングの仕様も無い。
「蹴破れ!」
怪物を相手に防戦する和輝が叫んだ。
葵は助走を付けて、左足を振り上げた。しかし、その一撃は扉に吸収されてしまったかのように消えた。
何なんだよ、これ。
苛立ちと焦りを滲ませて、葵が吐き捨てる。その間も和輝は怪物と戦っている。
昴は力任せに扉を叩いた。だが、びくともしない。
これは本当に扉なのか?
引き返すことは出来ない。怪物の爪先が足場を削り、どんどん逃げ場を失わせて行く。
万事休すだ。
絶望に目の前が真っ白に染まる。身体から力が抜けて、そのまま座り込んでしまいそうになった。その時、和輝が怪物の一撃を擦り抜けて此方へ戻って来た。
「駄目か?」
「無理だ。取っ手も鍵穴も無い。押しても引いてもびくともしない」
「そうか。――じゃあ、作戦変更だ」
懐中電灯の微かな明かりの中で、和輝が笑ったのが見えた。
何故、笑えるのだ。昴には分からない。けれど、葵はその言葉を信じるとばかりに頷いた。
和輝はポケットに押し込んでいた小型の爆弾を取り出した。有り合わせの材料で作ったので、威力には期待出来ない。先程まで撹乱に使っていた発火装置を多少強力にした程度の品だ。和輝はそれを葵へ手渡して、天井を指差した。
「見えるか? 彼処だ」
葵が目を凝らす。相変わらず夜目が効くらしい。彼等は野生動物なのだろうか。
和輝の指し示す先を見て、葵が笑った。まるで、新しい
「成る程。――ドミノだな」
「ああ。ぶっ壊してやろうぜ、価値観を」
「お前、やっぱり頭がおかしいな」
「光栄です」
そんな遣り取りをして、二人は昴を振り返った。
彼等が何の作戦会議をしていたのか分からない。だが、最早何をしても無意味に思えた。
「もう無理だ。何をしたって無駄だ。この状況で、何をするって言うんだよ!」
「決まってるだろ。起死回生の一手を打つのさ!」
そう言って、和輝は昴の横を擦り抜けた。
そのままロープを伝って闇の中へ降りて行く。葵は懐中電灯の光を細く絞っていた。
「天井を照らしてくれ」
言われた通りに天井を照らす。其処には、怪物に殺された憐れな犠牲者が蜘蛛の巣に幾多も吊るされていた。余りに恐ろしい光景に悲鳴を上げそうになる。だが、しっかり持っていろと葵に一喝された。
闇の中で、和輝の声がする。
こっちだ。来てみろ。そう叫んで、闇の中を駆けて行く。怪物は矛先を和輝へ定めて、声を追って退いて行く。
「和輝は何をしてるんだ」
「誘導だよ」
いいか、見てろよ。
葵が言った。
「この世には、絶望なんて無いんだ」
そう言って、葵は右腕を振り上げた。
其処から放たれたのは、先程の小型爆弾だった。一直線に向かう先には、尖った鍾乳石が垂れ下がっている。其処は怪物の爪痕により、僅かに亀裂が入っていた。たまたまかも知れないし、和輝が怪物の攻撃を躱しながら、誘導したのかも知れない。
葵の放った小型爆弾は鍾乳石に衝突し、破裂した。それは小さな衝撃だった。けれど、その小さなきっかけにより、鍾乳石は悲鳴を上げた。
「和輝!」
葵が叫ぶ。
それと同時に、天井からぶら下がっていた鍾乳石は大きく
地を揺らすような凄まじい轟音と粉塵が空間を支配した。
葵はすぐ様ロープを伝って降りると、粉塵の元へと駆けて行った。昴も遅れながら後を追おうとしたが、彼等の身体能力にはとても追い付かなかった。
「やったか?」
煤塗れの和輝が、喘ぐように言った。
十分だ。十分過ぎる程の一撃だった。頭上から鍾乳石で貫かれたのだ。最早、怪物に同情してしまう。
和輝はこの展開を何処まで想定していたのだろう。そして、葵は当たり前のように連携して見せた。何方も常人には不可能だ。少なくとも、昴には出来ないことだ。信頼関係とか気合いとか、そんな次元の話では無い。
和輝と葵が何かを話し合っている声がする。すぐに訳の解らない言い争いが始まったが、昴は腰が抜けてしまい、その場に座り込んでしまった。
二人は言い争いを続けながら、再びロープを登って戻って来た。
「問題は、扉を開ける方法だな」
「叩いてみた感じだと、向こうに空間がありそうなんだけど」
そんなことを言いながら、二人は扉を調べ始めている。昴はすっかり気が抜けてしまい、身長差のある二人の背中へ向けて言った。
「二人はすごいね」
振り返った二人は小首を傾げていた。まるで、何がすごいのか分からないと言っているようだ。けれど、それが彼等らしい。
安堵感に包まれ、身体が
昴が笑ったその時、顔面を蒼白にした二人が同時に呟いた。
「嘘だろ」
背後で何かの気配がした。
二人の視線は
目の前に、巨大な金色の目玉があった。
瞼は無い。
「昴!!」
叫んだのは和輝だったのか、葵だったのか。
昴の頭上には、鋭い爪が迫っていた。
死を覚悟する間も無かった。手を伸ばす和輝と葵がスローモーションに見えた。
その時だった。
何処かで微かな破裂音がした。それは一瞬で巨大な火柱となり、怪物を包み込んだ。煉獄の炎の如く恐ろしい業火は怪物を呑み込み、辺り一面を火の海にした。
何かを考える余裕も無かった。身の毛もよだつ
昴は、この炎に覚えがあった。
そして、此方の抵抗も健闘も嘲笑うかのような登場の仕方も、知っていた。
昴は、彼の名を呼んだ。
「ロキ」
真紅の頭髪を爆風に靡かせながら、ロキはいつものようにへらりと笑っていた。
彼は炎の中で焼けることも無く、まるで微風を受けているかのように
目の前の非現実的な光景の中、ロキはハードルを跳び越えるかのように地面を蹴ると、昴の横へ着陸した。
炎に呑まれた怪物は炭と化し、最早原型も留めていない。断末魔も絶えていた。
窮地を思わぬ形で脱した葵が、拍子抜けしたように吐き捨てた。
「初めから、こいつを連れて来れば良かったな」
違いない。
けれど、煤塗れで奮闘した二人の手前、頷くことは
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