神の代理人

垣内玲

第1話

 グランディアハン国王・ラウル七世が、カルマゼリアの地において、西の異民族・エルムの指導者、魔術師・アディムルの軍勢を撃破したという知らせを、クリスティーネ司教補はサンレアーノ大聖堂の資料室で聞かされた。高位の聖職者が誰でもそうであるように、クリスティーネもまた、強大な魔法の力で20代の若い姿を保っているが、彼女の場合、実年齢も37歳。司教補という階級から言えば異例の若さであると言って良い。長く伸ばされた紅の髪と、緑の瞳は、遠目からも人目を引かずにはいない。

 「アディムルは、黒魔術を用いて、兵力を大きく見せていました。国王陛下がその幻術を破り、アディムルの本軍をカルマゼリア平原に引き摺り出し、三方からこれを囲み、殲滅したとのことです。アディムルは自害しました」

 興奮気味に語るのは、クリスティーネの従弟で書生のルイだった。従弟と言っても年齢は20も離れており、ルイが物心ついた頃にはすでにグランディアハン聖公会の上級司祭であったクリスティーネは、ルイにとっては母親以上に威厳ある尊崇の対象であった。ルイは元来、信仰の道に生きるような性格の男ではない。それでも、彼が聖職を志したのは、この理知的で、厳格で、魔法の力で永久に若い姿のままでいる従姉への憧れ故であった。

 「それで、エルムは降伏するのですか?」

 クリスティーネの言葉は、心なしか早口であるようだった。ルイはそれを、従姉も自分と同じように国王勝利の知らせに浮き立っているのだろうと解釈したが、それにしては、どことなく冷たいものを感じないでもない。かすかに違和感を覚えたが、ルイにとってクリスティーネの思案することなどは常に理解の及ばぬ領域である。

 「恐らく。アディムルは最強の魔術師であり、当代屈指の名将で、エルム統合の象徴でした。その彼が倒れた以上、エルムが帝国に屈服するのは時間の問題でしょう」

 エルムは、近年の帝国にとって最大の外敵であり、長年手を焼いてきた相手であった。そのエルムが帝国に屈すれば、帝国の人民は永く平和を楽しむことになるだろう。単純なルイは、そのことが心から嬉しかったのだが、クリスティーネの緑の瞳は、なぜかひどく物憂げであった。

 「ルイ、わたくしは枢機卿にお会いしてきます。午後の講義は中止と、学生達に伝えておいてください」

 サンレアーノ大聖堂の建物は、その一部が帝国最大の神学校・サンレアーノ大学の校舎としても利用されている。クリスティーネは聖公会宣教局次席であり、サンレアーノ大学教義学教授を兼務している。クリスティーネの講座は人気だった。講義そのものは、至ってスタンダードな、正統的教義の指導であり、それを語るクリスティーネも穏やかで柔らかい声質以外にはこれと言った特徴の無い教師ではあったが、学生指導の手厚さと細やかさで信頼されていた。

 自分の学生の顔と名前はもちろん、出身地や家族構成までよく記憶していた。40にもならない若さで司教補という高位に上り詰めた選良中の選良でありながら少しも驕るところのない人柄が、学生達に慕われている。常日頃、クリスティーネの側近くに従っているルイは、彼女が教育にどれほどの情熱を持っているかよく知っているだけに、突然の休講という言葉には戸惑いを禁じ得なかったが、彼が何か言う間もなく、従姉は紅色の髪を翻して資料室を後にした。


 クリスティーネ・サドゥカリウスは、帝国辺境の貧農の家に生まれた。8人兄弟の末っ子だった。その日の食事にも事欠く生活から抜け出すことができたのは、クリスティーネの利発さがその地の司祭の目に止まったからだ。

 貧しさとは、飢えることではない。飢えから逃れるために過酷な労働を強いられることでもない。クリスティーネはそう考えている。貧しさとは、世界が狭いということだ。貧しい人間は、生きるために、飢えないために、死なないために、自分の持つあらゆる資源を投入する。そうでなくとも乏しい金が、時間が、体力が、ただ生存を維持することのために膨大に消費される。だから、貧しい人間には、自分の生活している世界の外側を知る機会など与えられないし、そんなものの存在を想像するゆとりすら得られない。

 世界が狭いということは、それ自体が不幸なことだ。狭い世界に閉じ込められれば、それだけで、心はすり減らされる。それなのに、貧しい人間は、自分の心がすり減らされている理由を知らない。そうやって、貧しい人は、理由も分からぬままに、鬱屈を鬱屈であると認識することすらままならないままに、目の回るような忙しさと、困憊と、惨めさの中で一生を終える。


 故郷の司祭に目をかけられて、教育を与えられたクリスティーネは、自分に与えられたその幸運がどれほど巨大なものであるのかを知っている。

 クリスティーネは、無欲だった。彼女は何も求めていなかった。ただただ、自分に教育を与えてくれた教会への、感謝などという言葉では言い尽くせないほどの忠誠心と、穏やかな雰囲気の外貌からは想像も付かないほどに激しい信仰心だけがあった。

 片田舎の貧農の娘として一生を終えるはずだった自分に何の望みがあるだろう。教会の権威と、神の威光が、クリスティーネの全てだった。

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