二十四、

 佑樹の言葉はすぐに僕の脳裏のどこかへ行ってしまったが、娘が生まれてわかったことはたくさんあった。マユミちゃんにめっぽう甘かった父の気持ちがわかった。娘のためなら僕も理性を失うことがあったからだ。同時に、僕を連れ戻しに来た時の母の気持ちも理解できるようになった。父が僕よりマユミちゃんを大切にしたことが、母には許せなかったのだ。どちらも大切な人がいて、自分の信じる方法で守ろうとした、その優先順位が違っただけのことだ。だが結論として、僕は両親どちらにも愛されていたと思う。めでたし、めでたし。

 ならば、マユミちゃんという人の存在は僕にとって、もう思い出す必要もないことのように思えた。実際、娘が生まれてからは毎日忙しくてそんな暇もなかった。自分の子供時代や育った家庭うんぬんより、これから娘にやってくる未来の方を僕は大切にしてやりたかった。

 だが、マユミちゃんの面影はふとした折にたびたび僕の前に現れた。同僚の子供が小学校で数が数えられなくて困っていると聞いた時は自分の叔母の話をしようかと一瞬迷い、話すほどのことじゃないと思って口をつぐんだ。慈と見ていたアニメが苦しみを乗り越えるきょうだいの愛を描いたものだったりすると、現実は冗談にならないこともあるのにと苦笑した。不況で職を失う派遣労働者が増えているとニュースで見れば、その画面のどこかにトオルがいるような気がした。こうした思い出の片隅には、いつもマユミちゃんの姿があった。どれも世の中のなかなか大変そうな事象ばかりで、生きている時のマユミちゃん自身もそれをどう感じていたのかはわからない。だが少なくとも僕の心にはその時、やるせなさとともにふとした暖かさがこみ上げてくるのだ。それは人生で経験した様々な辛さの中にある、僕だけの甘い世界だった。そう、それはちょうど、あれから数ヶ月経った娘が生まれて初めての秋、今目の前に広がっているこの空に似ている。夜空は鉛色のまま、暖かい雨粒を落としてくる。


 店外のラックを片付けようとする店員に声を掛けられ、僕は我に返った。本当に一瞬の出来事だった。

 エコバッグを抱えてドラッグストアの前で立ち止まったその時、僕は自分の足元からこみ上げてくる強い力を感じた。足の裏から体中を駆け巡る、巨大な熱。それは、僕自身の体温だった。湿気で白くなった自分の吐息の向こうで、ありとあらゆるものが光って見えた。今は夜の九時五十七分。腕にはめた時計の秒針の音がゆっくりと聞こえた。伸ばした手の先に落ちてきた雨粒が、ほとんど静止して見えた。キーンという耳鳴りがして、まるで雷に打たれたように、僕の全身をある強烈な思いが貫いた。

 ――僕は今、生きている!マユミちゃんのいなくなった世界を生きている!

 僕は足を踏みしめて、体の震えをどうにか止め、エコバッグの中身が雨粒で濡れないよう、慌てて肩に掛け直した。どうしてそんなことを突然思ったのかは、自分でもよくわからなかった。僕はそこで、自分がマユミちゃんに許されたのだと思うことにした。僕は確かに優しくなるには意気地なしすぎた。いざという時には逃げ出していた。大切なことは佑樹や他の誰かに任せっぱなしだった。けれどマユミちゃんは僕がそんな後悔を抱えることなく、その代わり僕にいつまでも心の奥に住まわせてほしいと願っているのかも知れない。ちょうど、雨が地面に染み込んで地下水となり、僕たちの足の下を音もなく流れていくように、そして何かの折にチョロチョロと地表に顔を出すように。

 温かい雨粒をパーカーの袖で遮って、僕は車の運転席に乗り込んだ。そして雨粒が落ちてくるフロントグラスにエコバッグをぴたりとつけ、外から見られないようにしてしばらく泣いた。湿度と暖かさのせいで窓ガラスが曇っていく。泣けるだけ泣いてしまうと、僕は助手席のグローブボックスからティッシュを取り出して鼻をかみ、エンジンを入れて、ワイパーでフロントグラスの曇りをとった。そして、慈と娘の待つ家に向かって、ゆっくりと車を発進させた。


(完)

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さよならマユミちゃん 高梓文(コウシフミ) @koushifumi

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