私の青春は、パン屋のお姉さんだった

怜 一

私の青春は、パン屋のお姉さんだった


 漫画研究部の活動が終わった放課後。

 手早く荷物をまとめて、いつもより早足で校門を抜ける。

 微かに肌寒い気温の五月上旬。冷たい空気が肺に流れ込んで、少しだけ咽せた。


 目的地は、学校から徒歩十五分ほどの場所にあるパン屋だ。現在の時刻は十九時四十五分。このままのんびり歩いていると店が閉まる二十時になってしまうので、仕方なく文化系の私が息を切らして早歩きしているというわけだ。


 いつもなら、十九時くらいに部活が終わるのだが、珍しく部員同士の揉め事が発生してしまい、それを私含む他の部員たちで止めていたら、こんな時間になってしまった。


 ただでさえ少ない漫研部員同士で揉め事を起こすのは勘弁してほしい。同じ学校の中にいる数少ない理解者たちの集まりなのだから、できるだけ仲良くしたい。


 赤信号に切り替わった横断歩道に捕まった。車道を一本挟んだ正面にある背の低い雑居ビルの一階から橙色の灯りが漏れていた。どうやら、まだパン屋は店じまいしていないらしい。


 鞄から取り出したスマホを確認する。画面には19:50と表示されていた。そのまま、画面をスマホのカメラモードを切り替え、ディスプレイに自分の顔を写した。ぐしゃぐしゃになっている前髪を手櫛で直して、汗ばんでテカッている額をブレザーの袖で拭う。


 「大丈夫。変じゃないよね」


 画面に映る自分に言い聞かせるように呟いた。

 横断歩道の信号が青に変わったことを知らせるメロディーが鳴り響く。


 「すぅー……ふぅ」


 深呼吸を一つして、乱れていた呼吸を整える。スマホを鞄に仕舞い込み、さっきまでの焦りを隠すようにゆっくりとした足取りで横断歩道を渡った。


 木製の取っ手を握り、扉を開く。扉に付いていたベルがリンとなって、客が来店したことを店員に知らせる。すると、店の奥から莉沙さんが姿を表した。


 「いらっしゃいませ」

 「どうも」


 来店した客が私だと気付いた途端、接客スマイルを浮かべていた莉沙さんの表情が驚き混じりの笑顔に変わった。


 「あー!なっちゃん!いらっしゃーい!今日はもう来ないのかと思ってた!」


 なっちゃんとは、私の名前である那智をもじったあだ名だ。莉沙さん曰く、学生時代に流行っていたオレンジジュースの名前が元ネタ、らしい。ちなみに、私をなっちゃんと呼ぶのは莉沙さんしかいない。


 「それがですね……。な、なんですか?」


 遅くなった理由を説明しようと口を開いたら、莉沙さんが探るような視線を私に向けてきた。そして、なにかを察したのか、莉沙さんの口角がにんまりと広がる。


 「あー。もしかして、恋人とイチャついてたから店に来るのが遅くなったの?」

 「違いますよ。なんでそうなるんですか」

 「だって、ワイシャツが第三ボタンまで取れてるし」

 「なっ!?」


 胸元に手を当てると、たしかにワイシャツのボタンが上から三つ外れていた。おそらく、取っ組みあいを止めた時に外れたのだろう。私は咄嗟にボタンをつけ直し、莉沙さんを睨みつける。


 「下着、見えてなかったですよね」

 「大丈夫よ。レースふりふりの真っ赤なブラなんて見えてないから」

 「そんなの着けてませんっ!」


 私を揶揄ってご機嫌な莉沙さんは、喉を鳴らしてクックックと笑う。

 私以外のお客さんがいなかったからまだ良かったものの、もし、そうじゃなかった場合は莉沙さんにトングとトレイを投げつけているところだった。


 「いやー。それにしても、ついになっちゃんにも年下の恋人ができたのかと思ったんだけどなぁ」


 なにを言っているだ、この性悪女は。


 「年下とか一番ありえませんよ。私、年上がタイプなんで」

 「へぇ。意外としっかりしてるのね」

 「それ、どういう意味ですか?」

 「べつに深い意味はないわよ」


 ああ、そうですか。

 私には深い意味があったんですけどね。

 相変わらず、この人は。


 「というか、なんで年下だと思ったんですか」

 「なっちゃん、お姉ちゃんタイプだから年上にリードされるより、ちょっと頼りない子をリードしたい方なのかなーって」

 「私、一人っ子ですよ。それに、好きな人と居られるならどっちでも構いません」


 ふーんと、莉沙さんは何か言いたげに、しかし何も言わなかった。

 こほん。

 気を取り直して、遅くなった理由を莉沙さんへ説明する。


 「ちょっと、部活でトラブルがあったんですよ」

 「へー。どんなトラブル?」


 莉沙さんは、先ほどとは違う興味を示したような相槌を打つ。


 「部員同士が雑談してたら、知らないうちに口論を始めちゃって。それから、段々エスカレートしていって、最終的には取っ組みあいのケンカにまで発展しちゃったんですよ」

 「それは大変だったわねぇ。それで、どうなったの?」


 莉沙さんは、ケンカの顛末に瞳を輝かせる。

 ま、私もその場にいなければ、莉沙さんと同じ反応だっただろう。だけど、もうちょっと私へ同情や心配をしてほしかったな。とは、口に出さずに話し続ける。


 「相撲で決着をつけようとするわ、片方が相手に馬乗りになって説教を始めるわ。で、それを止めようと割って入った私になぜか矛先が向いて、二人からそれぞれ推してるカップリングの良さについて延々語られるわ。もう、ホントに大変だったんですよ」


 特に私が余計なことを言って、再び、地雷を爆発させないよう細心の注意を払わなきゃいけなかったのが一番大変だった。


 「相撲?カップリング?んー…………んん??」


 予想外の内容に困惑した莉沙さんは、小首を傾げる。

 

 「よく解んないけど、青春してるってことね!いいね!高校生!」


 理解することを放棄した莉沙さんは、元気いっぱいにサムズアップをした。

 私は、えーと不満そうに唇を尖らせる。


 「そんな良いもんじゃないと思うんですけど」

 「自分の譲れない好きなモノを本気で語り合える仲間がいるってことでしょ。それって青春じゃない?」


 それは、まぁ、たしかに。


 「なっちゃんは、青春してる?」

 「そんなCMのキャッチコピーみたいなこと訊かないでください」


 私は莉沙さんのだる絡みを適当にあしらって、出入り口付近に置かれていたトレイとトングを手に取る。


 莉沙さん。私、今、青春してますよ。

 トングを握っていた右手に自然と力が入る。トングの先端同士がぶつかって、ステンレスの軽い音が鳴った。

 カチッ。


+


 私が莉沙さんと出会ったのは、中学二年生のときだった。たまたま店の前を通りがかったとき、漂ってきた焼きたてパンの美味しそうな匂いを今でも忘れられない。


 ちょうどお昼どきでお腹を空かせていた私は、ハーメルンの笛吹きに連れ去られる子供のように、匂いにつられるがまま、お店の中へ入っていった。


 少し重い扉を開くと、香ばしく甘い匂いが鼻腔へ流れ込み、内側から空っぽの胃を刺激した。

 ぐ〜ぎゅるる。私のお腹の中に住む怪獣が唸る。


 「よっぽどお腹が減ってるのね」


 開口一番。

 怪獣の咆哮を聞きつけ、店の奥から現れたお姉さんが、呆れたような笑顔でそう言った。


 笑顔が似合う人だな、というのが第一印象だった。鈴の音のような上品な笑い声。切長の細い目がさらに細くなる。左目にある泣きぼくろがちょっと歪む。


 この人の笑った顔、好きだな。

 空腹でぼんやりとした頭の中にしっかりと浮かび上がったのは、そんな単純な感想だった。


+


 「なっちゃんて、いま何年生だっけ?」


 なんの脈絡もなく莉沙さんが訊いてきた。

 明日の朝食になるパンを選んでいた私は、振り返らずに返事する。


 「今年で三年生です」

 「あ〜。あっという間だねぇ。どうりで私も若くないわけだ」

 「なに言ってるんですか。まだ、二十四歳じゃないですか」

 「なっちゃんもこの歳になってみたら解るよ」

 「そんなもんですか」

 「うん。そんなもん」


 レジカウンターに肘をついた莉沙さんはしみじみと遠くを見つめている。私はというと、目の前にあるアップルパイとベーコンチーズパンに頭を悩ませていた。


 朝食としてはどちらも鉄板なチョイスで、間違いのない二品だ。ガッツリいきたいなら迷わずベーコンチーズパンを選ぶのだが、甘いアップルパイと紅茶で朝食を優雅に彩るのも魅力的だ。

 くぅ、どっちも食べたい。


 「なっちゃんは進路とか決めてるの?」

 「しん…ろ?」


 アップルパイ派の私とベーコンチーズパン派の私が激しい脳内会議をしている最中、唐突に降ってきたワードに脳がフリーズする。


 しんろ?しんろとは、あの担任に提出をせっつかれている進路のことか?私が迷いに迷ってるあの進路のことか?


 「進路、ですか?」

 「そう。進路」


 どうやら、私が思い当たった進路で合っているみたいだ。というか、しんろなんて読みの単語、これ以外に聞いたことがない。


 「まだ、決められてないです」

 「あら、そうなの。進学と就職で迷ってる感じ?」

 「………」

 「なっちゃん?」


 莉沙さんが言い当てた悩みは図星だった。しかし、図星がゆえにすぐにイエスとも答えられない事情があった。


 大半の学生は、基本的に進学一択だろう。来年から社会人になって会社でこき使われるより、僅かでも学生でいられる道を選ぶだろうし、大卒の資格があれば就職の幅も広がる。


 幸い、私の家は裕福ではないが、私を大学に通わせてくれるくらいの稼ぎはある。ならば、大学へ進学するほうが無難だろうし、両親も先生もその道を進めてきた。

 私だって、進学の方が良いことくらい解っている。

 

 「莉沙さんは、どうやって進路を決めましたか?」


 しばしの沈黙の後、そう訊かれた莉沙さんはそうねぇと一拍置いてから、


 「私、幼い頃からパン屋さんで働きたいって夢があったから、それで進路を決めたのよ。気に入ったお店の募集に応募して、たまたま受かったのがこのお店だったって感じ」


 莉沙さんは、当時を懐かしむように目を瞑る。


 「なっちゃんは、なにかやりたいことがあるの?」

 「やりたいことは、ありません。でも、居たい場所はあるんです」

 「なっちゃん……。もしかして、高校生で居続けたいから留年するかどうか迷ってるの?」


 ホントに、トレイとトング投げつけようかな。


 「ジョーダン、ジョーダン。そんな怖い顔しないでよ。……真面目な話。どの選択肢を選んでも、多分、後悔することになる。少なくとも、私はそうだった」

 「えっ。意外」

 「意外ってなによ。私だって後悔くらいするわよ」


 莉沙さんは、わざとらしく眉間に皺を寄せて、ムッとした表情を見せた。

 さっき、揶揄われたお返しです。


 「大学に通ってた友達から楽しそうなキャンパスライフの話を聞くと、羨ましいなーとかって思っちゃって。それで、なんで私は進学しなかったんだろうって後悔したこともあった」


 でもね、と莉沙さんは続ける。


 「ある日、店に腹ペコの女の子が来てね。その女の子が、私の作ったパンを食べたそうにじーっと見てたから、思わず一個あげたの。そしたら、すっごい笑顔で美味しいって言ってくれて。その時、あぁ、パンを作る選択をした私は間違ってなかったんだって、そう思えたの」


 莉沙さんは、優しく微笑んだ。


 「だから、たとえ後悔したとしても、その後悔を乗り越えられる選択肢を選んだほうがいいんだって、その腹ペコの女の子に教えてもらったわ」


+


 結局、アップルパイとベーコンチーズパンの両方を購入した。


 私が店を出ようとすると、莉沙さんはちょっと待っててと言い残し、店の奥へ入っていった。間もなく、お店のマークがプリントされた紙袋を携えた莉沙さんが戻ってきた。

 

 「これ、よかったら食べて。将来に悩めるなっちゃんへ私からの応援」


 そう言って、莉沙さんは紙袋を私に突き出した。意表を突かれた私は、いつもの一.二倍くらい大きく目を見開いた。


 「いいんですか?」

 「いいわよ。このパンね、今度ウチで出す新商品の試作品なの。よかったらなっちゃんの食べた感想、訊かせてほしいの。参考にしたいから」

 「わ、私の感想っ!?」


 驚きのあまり少し仰反った私を見て、莉沙さんはそんなに驚くこと?と肩を震わせた。


 「私の感想なんて、役に立つんですか?」


 と、至極当然の疑問を莉沙さんに投げかける。好きな味かそうじゃないかくらいの判断しかできない私の舌なんかじゃ、正直、莉沙さんの期待に応えられそうにない。


 しかし、私の弱気な物言いを莉沙さんは一蹴する。


 「なっちゃんはウチの常連さんだもの。なっちゃんのこと信頼してるのよ」


 あっ、と腑抜けた声を溢した私は、咄嗟に顔を伏せた。鏡を見なくても、自分の顔がみるみる赤くなっているのが解ったからだ。


 中学二年生の頃、偶然立ち寄ったパン屋さんで、初めて一目惚れをした莉沙さんから信頼されている。その事実だけで、全身がジンジンと熱くなるのを感じた。


 「ぁ……あり、がとぅ、ございます」

 「いえいえ。こちらこそ、いつも私の作ったパンを買ってくれてありがとうございます」


 私の絞り出した蚊の鳴くような謝意に、莉沙さんはペコリと頭を下げた。


 店を出ると、空はすっかり暗くなっていた。たまご蒸しパンのような満月は煌々と輝いて、私の帰り道を照らしてくれた。


 私は、莉沙さんの言葉を反芻する。

 後悔を乗り越えられる選択肢、か。

 私は、少しでも長く莉沙さんの隣に居たい。そのために、大学へ進学する道を捨てられるのか。


 正直、解らない。

 なら、逆にこう考えてみよう。

 大学へ進学したら、私の人生の中で莉沙さんと一緒に居られる時間が短くなる。


 「それは、嫌だ」


 思考よりも先に言葉が出た。

 そんな自分に驚いたし、なんだか馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。

 なんだ。もう、私の答えは決まっていたんだ。


 翌日の朝。

 私の朝食は、アップルパイでもなくベーコンチーズパンでもなく、莉沙さんからもらった試作品のパンだった。


 一回り小さい食パンの形をしたパンを一口齧る。その瞬間、練り込まれていたオレンジピューレの甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がった。

 なるほど。


 「私、オレンジ苦手なんだよなぁ……」


 莉沙さんへ提出する紙には、味や見た目の感想の後に「オレンジがすごくすごいです」と訳の解らない一文を添えて、感想文を締めくくった。

 

 朝食を済ませたあと、制服に着替えた私は、莉沙さんに頼まれていた新作パンの感想文と、私の履歴書と、いつか莉沙さんに渡したい手紙を鞄に忍ばせ、学校へ向かった。




end

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