追悼

坂井いつき

第1話 帰郷

 ある晴れた日の朝、ついに父が死んだ。母から受け取った報せは予想通り淡白なもので、思っていた通り、涙の一滴も湧いてこないものだった。

 喪服に袖を通しながら、奇妙だと思った。喪服というからには、喪に服すものなのだろうが、私は父の死に何の感傷も抱いていない。悼む気もない。


 私の人生最初の記憶はおそらく、弟が生まれる以前のものだ。何故ならその記憶の中に弟はおらず、母のお腹は大きかった。私の記憶が間違っていなければ、それは私が三歳ほどの頃のことだ。

 母は頬を押さえて床に座り込み、さめざめと泣いている。私はそれを少し離れたところで眺めている。心配で母に寄り添いたい気持ちを必死に殺しながら、ただ眺めている。母の向こうに見える父が包丁を手にしているからだ。父は台所のガスコンロの青い炎で、手にした包丁を炙りながらタバコを吸っている。紫煙を飲み込む換気扇の音がやけに大きく聞こえて、なんだかそれが恐ろしく、私は身を縮めた。

 前後の記憶はない。なぜそうなって、その後どうなったのか、私は知らないし、知ろうとも思わない。


 久しく訪ねていなかった故郷は、何もかもが縮んだように見えた。よく友人たちと集合場所がわりにしていた武将の像は、当時威厳たっぷりに私を見下ろしていた。しかし今、その瞳は虚。空を見つめているようだった。

 地方都市にはよくあることで、駅前だけは小綺麗になっていた。商業施設もあるようだが、私が到着した夜八時にはすでにどちらも閑散としており、これではハリボテである。

 迎えにきた母の車に乗り込み––この時間では公共交通機関などあてにならない––約三年ぶりに生家の三和土を踏んだ。

 実家はいわゆる建売住宅というやつで、個性らしい個性はない。以前は淡い水色のペンキで外壁を飾っていたが、何を思ったのか、二十年ほど前に濃い茶色に塗り替えた。

 私や弟が子供だったときの雑然とした印象はすっかり拭われ、妙に整然としていた。あまりにも当時の面影がなく、寂しさすら覚えた。聞けば自宅で葬儀を行うことにしたとかで、なるほどそれは片付けなければならないな、と、実に当然のことを思った。

 今私が踏んでいる廊下の床板は、一部がよく軋む。幼い頃の私がよく叩きつけられて倒れ込んでいた場所だ。今となっては理由まで思い出せないが、とにかく私はことあるごとに居間からこの廊下に引きずられていって叩きのめされ、蹴られ、頭を打っていた。

 その廊下を抜けて居間に入ると、父は寝かされ、本当に死んでいた。

 父が寝かされているあたりの位置は、昔父が大酒を飲んでそのまま失神するように眠り、ついでに時折失禁する、お決まりの位置だった。

 遺体を前にしてもなお、私にはなんの感情も湧かなかった。我ながら薄情な子である。

 ところで遺体というのは陶器に例えられることがあるはずだ。今の父も、硬くて冷たいのだろうか。恐る恐る首筋に触れてみる。確かに冷たいが、老いて弛んだ皮が、ぶよぶよとしたゴムのようで、とても陶器には程遠かった。

 嫌悪感で手をひいたが、相変わらず悲しみは生まれてこなかった。


 一般的にそうするように、弔問客は皆「ご愁傷様です。」と合言葉を言って入ってくる。愁傷しているつもりがないので、なんと返事をするものか分からず、黙って少しだけ頷くような会釈をして迎え入れる。門兵のような気分だ。入ってよし、と。

 弔問客の数がまばらになり、焼香の匂いが漂ってきはじめた時、私はようやく実感した。

 父は死んだのだ。

 そして私は心の底から安堵した。ついに父は死んだのだ。

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