外伝:壊れた自我(母・美津子サイド)

 黙っていなさい。

 微笑んでいなさい。

 男のご機嫌をとりなさい。


 美津子が母から教わったのは、この3つの事だった。


 美津子は末っ子だ。しかし、実質は一人っ子といっても良かった。それほど兄達とは歳が離れていた。


 父はかなり高齢だった。

 月の半分以上は家にいない人だった。美津子が甘えると父は喜び、どんなものでも買い与えてくれた。流行りの服や話題のおもちゃをもらうと、美津子は母と共に近所の人々に見せびらかした。子供から向けられる羨望の眼差しに、美津子はいつも酔いしれた。

 さんざん見せつけた後、美津子の母はそれらを早々に売り払った。「美津子はおねだり上手ね」と、リサイクルショップの店先で美津子は笑顔の母に抱きしめられた。


 私がお父さんの機嫌を取れば、物がもらえてお母さんが喜ぶ。美津子はそれだけを理解していた。

 母が喜ぶように父に微笑みかけ、理想の娘を演じ、興ざめになる事を避けた。それは周囲の男子に対しても同じだった。優し気だけど気弱と言う、『守りたくなる女』を演じて操った。女子からは注意や非難を受けたが、美津子はそれを嘲笑した。

「男子が勝手にやってんの。私は何も悪くないもん」

 周囲の女子にとっては皮肉なことに、美津子が女子から孤立するほど男子達は美津子に必死になった。美津子の周囲には、都合のいい男友達ばかりが集まっていった。



 美津子の人生は、高校入学直後に狂った。父が突然亡くなったのだ。

 蓋を開けてみると、父は借金まみれだった。美津子の母は当然のように相続放棄を希望した。しかし、兄達はそれを許さなかった。

「後妻とはいえ、十何年も付き添った人間が、そんな無責任でどうするんだ。借金を背負わないというのなら、金のない父からむしり取った物を全部返せ」

 美津子は、この瞬間まで母が後妻だということを知らなかった。兄達と母親が違うことも知らなかった。

「母親なら、美津子がねだった分くらいは背負え」

 とっくに大人になった長兄が母を責め立てた日の夜、母は散々に美津子の頬を打ち据えた。

「この強欲女が!余計なことは言わずに黙っとけと、何度も言ったろうが!」


 美津子は、自分を賢いと自負していた。

 通っている高校も、地域で最もハイクラスな県立進学高だった。

 だけど、今起こっていることがさっぱり理解できなかった。女として最も賢い生き方をしてきたはずなのに、こうして殴られる意味が分からなかった。


 嗚呼。私は不幸なのだわ。どんなに賢くったって、運命というものには逆らえないのよ。


 小さい頃から、自分を幸せだなんて思ったことはない。

 感情関係なく笑顔を作り、もらったものは片っ端から売られ、同性からは嫌われて、異性には偽りの自分しか理解されない。

 母が褒めてくれるのは、父からもらったものが売れた時だけ。それすらも否定されてしまっては、自分はまったくの空っぽになってしまう。


 更に、彼女に追い打ちをかけることが起こった。

 ある日、母が美津子に冷たく告げたのだ。

「あんたに大学なんて行かせないわよ。高校出たら、あんたが作った借金を、あんたが働いて返しなさい」

 母は女だ。美津子は、女のご機嫌の取り方を知らない。守ってくれる父という男がいない今、美津子は母に従うしかなかった。


 就職しても、やはり美津子は女から敬遠された。給料は母に取り上げられ、美津子が自由になるお金はなかった。美津子はおしゃれを諦めて、自分の人生も諦めた。美津子は母親の道具だった。

 しかし、それも終わる時がきた。高校の同級生だった渡辺彰が告白し、結婚して都会に移り、美津子は初めて縛られないことの素晴らしさを知ったのだ。


 ――愛してくれる男しかいない、優しく穏やかな日々。

 ――やっと手に入れた、憧れていた普通の人生。


 美津子の母が病死したという知らせがあったが、美津子は帰らなかった。

 腹違いの兄達に相続放棄を伝え、何もかもを一任した。

 母には負債がなかったため、美津子が責められることはなかった。




 二人の間には男の子が生まれた。愛くるしい我が子の寝顔に、美津子は初めて幸せを知った。彰は美津子の父と違い、我が子に甘くない人ではあったけど、それでも息子が理想の男に育っていくのが嬉しかった。


 美津子は再び妊娠し、今度は女の子が生まれた。美津子は娘の扱いに戸惑った。女として不幸にならぬよう育てようと思ったが、どうにもこの娘は勝気だった。お淑やかな男受けする態度をするよう諭しても、まったく聞く耳を持たなかった。


 悩んでいるうちに、更に男の子が生まれた。この子は3人の中で最もかわいかった。母親の後ろをついて歩く様子はご近所でも評判で、美津子はこの天使がいるならあとはいらないとすら思った。



 我が子に対する気持ちは、もちろん内心に秘めていた。

 母の元を離れてからというもの、美津子は己が不幸だとは思わなくなっていたのだ。積極的な交流ではないものの、ご近所の奥様方と仲良くできるくらいには健全な人間に変わっていたのだ。何もかもが幸せだった、そう、何もかも。たとえ夫が長男に激しすぎる態度を示そうとも、それが絶対に良い未来に導くのだと思い込もうとしたくらいには。


 ――だけど、不幸は再びやってくる。長男が失踪し、その原因として夫が攻撃され、自分も厳しく責め立てられて。


『この強欲女が』

 母の声が頭の中で反響し、幸せに浸った自分を責め続ける。

 ごめんなさい、お母さんが正しかったんです、ごめんなさいごめんなさいと、美津子は何度も脳内で謝り続けた。息子への罪の意識が、母を裏切った罪悪感にすり替わった。母から受けた仕打ちが何度も脳裏で蘇り、絶叫する事もあった。しかし夫も同様に憔悴し、美津子の肩を抱くことすらしてくれなかった。


 ある日、台所に立つ娘に目がいった。

 かつて生意気ながらも愛らしかった笑顔は消えていた。『長男代理にする』と言い出した夫に刈られた髪は見苦しく、7年も前に買った長男のお古はみすぼらしい。

 ――胸の奥がムカムカする。私はこんな欠陥品を産んだ覚えはない!

「まあ見苦しい。男の成りそこないは、何を着てもなりそこないねぇ」

 罵ると快感が走った。娘の歪む顔がたまらなくそそった。夫が自分ではなく娘を貶めたことに、女として勝ったのだと酔いしれた。


 私はまだ愛されている。

 不幸だけど愛されている。

 いえ、駄目よ満足しちゃ。芽は潰し続けなくては、勝ち続けることはできないわ。

 



 その歪みは、夫である彰が引き継いだ連鎖とは違う。

 美津子は病んでいるのだ。きっと、明らかな病名がつく何かに憑りつかれている。

 だけど誰もそれに気が付かない、本人も病と自分の見分けがついていない。

 ただ心の奥に残ったひとかけらの本心が、助けてと叫び続けているのだ。誰でもいいから助けてと。――しかし、近くにいてくれるのは娘だけ。認知が歪んで敵にしか見えない、娘だけなのだ。

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