N˚.8 < Vier Akte.:せつな【第四幕】 >

このクソ素晴らしき世界。

Serenade No.13 / Eine kline Nachtmusik. N˚.8


< Vier Akte.:せつな【第四幕】 >


…………………………


クリスマス、午後一時十四分。

 お昼ごはんをおえて、わたしとお母さんは広すぎるリビングで紅茶を飲みながら他愛のない話をしていた。あたりまえのように父はいないし、もう何日も会ってもいない。


「今日、刹那がいてくれてよかった」


 ぼそっと、お母さんがまつ毛を伏せてつぶやいた。


 ごめんなさい、お母さん。

 わたしね、お母さんが思っているほど、いい子なんかじゃなくてね。

 たぶん、かみさまにも、みんなにも叱られるような悪い子なんだ。




 今日、わたしね………。


 膝においた、ぼろぼろになった本の上で手をきゅっと握り、本と手のなかにいる「あなた」に、勇気をください、と祈った。


「……刹那、その本を持っていてくれたのね?」


 あの日、はじめて『わがまま』を言って『ねだって』買ってもらったゴッホの画集。しばらく画集を見つめていた母がくすくすと笑いだす。


「初めて刹那が「買って、買って」って駄々をこねてね。

 でも、誰の画集が欲しいのか分からなくて。

 なんていう名前の画家さんだったの?って聞いたら、刹那は、


 『しらないひとなんだけど、あのぶわーってなる絵のひとの本がほしいんだ!』


 そう言って、ただ手を大きく振るばかり」


 母が涙ぐみながら笑う。わたしは「そ、そんなことした……の?」と真っ赤になってしまう。「あの時は困ったなあ」と、また母は笑って、すこし涙ぐんだ。


「それで途方に暮れて………美術館に戻ったのは覚えてる?チケットを買って、もう一回………」


 そんなこと………わたし、そんなわがまま………。


「でも、なんとなくだけど『ああ、ゴッホか』って納得したなあ」


 笑っていた母が視線を落とす。




「寂しかったのね?刹那には………何もしてあげられなかったから……」




 ちがう、ちがうよ、



 ちがう!


 そんなことないっ、

 お母さん、そんなこと……っ


「そんなことないよっ!」


 こころから飛び出た“ことば”が、涙もいっしょになって溢れた。


「お母さんには感謝していて!

 たくさん感謝していて!!

 わたしは、あなたがいたから!


 こんなに、

 ………こんなにもっ!


 ここまで生きてこれたって!



 毎日、毎日、毎日、




 この本を抱きしめて、感謝しているから!

 そんなこと言わないで!!」


 母が微笑み、そのやさしい瞳をわたしに向けた。


「刹那のやさしいところは小さな頃から変わらないなあ。







 刹那、



 この先、どうしようもないくらい、つらいことがあると思う。


 いいえ、

 必ず、ある。




 必ず、つぶれそうになるくらい、つらいことが待っている。


 でも、




 その時、あなたのやさしさが、

 強い力になる。




 お母さんは………私は刹那が、そんな強さを持つように育ててきた。


 だから、そのやさしさだけは、

 何があってもなくさないでね」




 お母さんは、わたしを抱きしめた。


 あれ?お母さんは、こんなに細かったっけ?

 こんなに身長………低かったっけ?


「それと刹那?お父さんのこと悪く思わないで」


 涙が止まる。

 いま、お母さんは………なんて言った?


「あの人は、とてもじゃないけれど、私がいなければ生きていけないくらい不器用な人でね。




 お父さんを『支えよう』と、となりにいるのを決めたのは、お母さんだから。


 刹那は知らないと思うけれど、

 あなたが生まれてから今日まで、




 『大丈夫か?君にも刹那にも何もないか?』


 そう毎日………17年間忙しいのに電話してきてまで聞くのよ」







 うそだ、

 うそだ、そんなのは、ぜったい、

 うそだ。


 そんなことをするような、やさしい人間じゃ………ない。


「お父さんは寂しがり屋さんだから、毎日確認しないと怖いの」

「うそだ、うそだよ。そんなの、嘘だ」


 嘘だと言って、そうじゃないと、わたしは………困る。


「刹那に初めて手を上げた日、朝方まで眠らずため息ばかりついていたのよ。




 あの日は仕事がうまくいって、早く帰ることが出来たから、



 少し………

 じゃないわね、


 すごく楽しみにしていた。


 刹那の「おかえりなさい」を。

 しばらく聞いていないから、聞きたかったのね。


 あの人は不器用だから、ああいう風にしか言えなかった。




 あの人のこと、許してあげて」


 母は聞きわけのないこどもに、やさしく言い聞かせるように話す。なにも『わかっていない』のは、わたしのほうだって言いたいみたいに。もし、そのことが嘘なんかじゃなくて、ほんとうだとして、父がそんな人間だとしたら、



  父のようにはならない。

  父が冷たい分だけ、あたたかくなる。

  父がひどい分だけ、やさしくなる。

  父が大切にしない分だけ、拾っていく。

  父がお母さんを大切にしないだけ、お母さんのそばにいる。

  父がひとを支配しようとする分だけ、ひとを愛する。

  父が「金額の割に飾れば大したことのない」と言えば、


 わたしは、その画家の分だけ、




 絵を…………、





 父のようにはならない。

 あの人みたいになるくらいなら死ん………。



 そうやって、つらいことも、かなしいことも、ぜんぶ、がまんしてきた。

 そんな、わたしの今までってなに?




 そうだ、うそがあるじゃないか。


 嘘をつけ、得意じゃないか。

 はやく、うそをつけ。


 わたし自身を騙すんだ。







「うん!わかった、お母さん。こんど、ゆっくりとお父さんと話してみるね」


 いま、わたしはうまく笑えていますか?あの時みたいに「もっと笑って」と言われないような笑顔でいる?心配をさせないような顔で、うまく笑えている?


 今日まで、わたしの『お守り』だった画集が床に落ちて、ラグの上で開いたページにいる貴方の自画像が、その何もかも見通すようなまっすぐな目で、わたしを見ている。


午後三時八分。


「お母さん、これはレンジで温めてから?」

「うん。お願い」


 わたしはうまく嘘をついた。わたしは悪い子だから嘘がうまい。嘘を見抜かれないように、わたしも嘘を信じつづければ、いずれほんとうになる。そのときまで嘘を重ねて、だまして、がまんすれば大丈夫だ。そう言い聞かせながら震える手を無視して、レンジのなかに置かれたかぼちゃを、ぼーっとながめていた。


「ねえ?刹那?」

「なあに?」


 母を見るとなれた手付きで、じゃがいもの皮を包丁でむいていた。


「刹那の恋人。せめて、お母さんには紹介してね」


 せかいの彩りが幼い日のように失われていき、ここにあるはずのいい香りがなくなって、わたしの身体中の血液が足の指から床に流れ出ていく。


「……っあ、えと………」


 今日、母に「たかはしきょうこ」のことを話すつもりでいた。一度は、あの本と手のなかのあなたに勇気をもらった。だけど話が、わたしの知らない父のことになったから……………これ以上、わたしは「せつな」を失うのが怖い。


かみさま。

 かみさま、かみさま、助けてください。

 わかっています、知っています。

 わたしたちは母とか父とか、ふつうのひとたちからすると、ふつうなんかじゃなくて………、

 みんなも噂をしているから、わたしは悪い子だから、


 きっと叱られる。




 せめて、いまだけは、

 いまだけ、いま、


 ちがう、いまだからだ。

 ねえ、きょうこちゃん。

 わたしもあなたのために、

 わたしのためにつよくならなきゃ、


 あなたを守りたいからつよくなりたい。

 あなたの星になりたいから、


 すこしちからをかして、きょうこちゃん。


「あ、あのね………?っえ、と……お母さん……?」

「うん」


 お母さん、そんなやさしい目で見ないで、そんなやさしさで包まれるほど、いい子ではないから、悪い子だからやさしくしないで。いまから、お母さんを悲しませる悪い子だと話すから、叱られるとわかっていても失うわけにはいかない星が、わたしには存在していると、ほんとうを話すから。


 もう行く先を見失いたくない、行き先は自分で決めたい。


「わたしが、いま付き合っ……」


 言葉を玄関のチャイムが止めた。そのとき短く熱い息と熱い汗が全身の毛穴から吹きだし冷えて、いやらしく身体を撫でるように不快に流れ、身震いをする。のどを鳴らして、唾を飲み込み、母の目を見た。たぶん「助かった」と、わたしの目が言葉にしていたのかもしれない。なにかを覚悟していた母の目が閉じられ、やさしく微笑む口元が「ことば」を飲みこんだように見えた。


「刹那、お客さまをお願い」


 母がわたしをインターホンへと向かわせる。母は、きっとわたしの言いたかったことを………心臓が、とても短い間隔で強く打ち、胸の奥で跳ねていて『通話ボタン』を押そうとする指が震える。


「はっ、は……」


 からからになった口の中を湿らせようとするのだけれどできない。足の指先から血液が抜けたような感覚になったときに、身体の水分がほんとうになくなったみたいだ。


「っは……はい?どちらさ……まですかっ?」

『………あっ!あのっ、あたし……あ、私、高橋と………』


 カーディガンを羽織って外へ出ると、わたしが選んだ服に身体を包んだ、きょうこちゃんが立っていた。目を丸くするわたしに「や……やあ」と、ぎこちのない笑顔を作る。「どうしたの!?なにかあったの!?」と訊ねても、長い前髪で腫れたまぶたと赤くなった目を隠して言葉を濁すんだ。とにかく寒いから家のなかがいいと思い、招き入れようと玄関のほうへ向いた腕が強く掴まれた。


「せつな……あたしね?







 ………お願い、助けて」


 瞳をおどおどさせているなにかが、身体を小刻みに震わせているなにかが、振り絞っていて裏返っているあなたのこえが……………あなたの光が失われていく。だめ、まだ………まだ、だめだ。わたしは、あなたに輝いていてもらわないと、うまく歩いていけない。


「え、えと、と……とりあえず家の中………にね?」


 わたしの言葉と“こころ”があなたを見る。きょうこちゃんが、わたしにしてほしいことは、もう一対の星になることだと、あなたの“こころ”が言っている。でも、今日はお母さんと………、


「刹那?お友達?」


 振り返ると玄関に笑顔のない母が立っていた。反対側には腕をつかみわたしの背中に隠れる、きょうこちゃん。いま、きっと『大切なのはどちらか選べ』と、かみさまに言われているのだと思う。わたしにはどちらかなんて……………ちがう。両方を守り、両方に思われたいなんて、ただのわがままだ。


 わたしたちは不器用な人間と言われる種類なんだろう。いつも向けられる「愛」を裏切り、自分の「愛」を求めて、ぼろぼろになりながら歩きつづけるしかない。それをわかっているから………覚悟を、だけど勇気が………お願い助けて、ゴッ…


「刹那、いきなさい」


 え。


「刹那の名前、お父さんとお母さんで選んだ意味。何を大切にしてほしいと思ったのか、考えて」


 わたしを叱らないの?わたしは悪い子なんだよ。


 きょうこちゃんの強く握られた手の力が抜けていく……お母さんを選べば、きょうこちゃんを失う。きょうこちゃんを選べば、お母さんが泣いてしまう。


 わたしが選ぶのは、







 未来だ。


「お母さん!ごめんなさい!わたしはわたしの大切なひとに頼られたい!応えたい!」


 選んだ罰は受ける。

 選んだ責任は取る。


 何かをするとき、その何かの反対側には必ず同じ熱量の反発がある。それを受け入れたくないから「何もしない」と選ぶように、きょうこちゃんを誰かに譲るつもりはない。酷さだって、悪さだって、汚さだって、何かを犠牲にする無情さだって、人間として、ふつうの人間として、わたしは持ち合わせている。


かみさま。かみさま、かみさま。

 受けてきたやさしさを裏切ることが成長ですか?

 強く“こころ”を握りつぶすような痛みを伴う選択が正しいことですか?


 母や……父を泣かせてしまう選択が、







 大人になるということですか?







 きょうこちゃんの冷たい手をつよく率いて、わたしの足で、ちからいっぱい駆ける。『家』という名前がついたがらんどうの箱がちいさくなっていく。お母さんがと遠くなっていく。


 かみさま。わたしは今日、初めて………。


「いってらっしゃい。帰ってきたら大切なひとの名前を教えてね」


…………………………


このクソ素晴らしき世界。

Serenade No.13 / Eine kline Nachtmusik. N˚.8

< Vier Akte.:せつな【第四幕】 >

Ende.

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