気高き血潮
仲よし子
第1話
「七海さん、よろしくね」
突然話しかけられて、私がどんなに間抜けな顔をしていたか、知っているのは百合香さんだけです。
恵英女学院中等部の入学式。私の想像する入学式とは体育館にイスを並べて行うものでしたが、案内された先にあったのは「講堂」という古めかしい劇場のような空間でした。視界を埋め尽くす階段状の座席にはすでに数人でかたまっておしゃべりしている生徒もいます。入学生の半分が初等部からの進学ですから、むりもありません。ジャンパースカートとセーラー服とかばんが三重になって肩にのしかかってきました。
私の席がある列はまだ誰も来ていませんでした。周囲のざわめきのなか一人待つ寂しさを紛らわす術を私は知っていました。一つに集中すること。たとえば、前の座席の背に貼ってある「1年2組23番 宮北七海」と書かれたA4の紙を文字が浮かび上がるまで見つめるとか……。そんなときでした。
「七海さん、よろしくね」
首をひょいとかしげ、私の顔を覗き込んでいる百合香さんと目が合いました。好奇心たっぷりのアーモンド形の瞳で見つめられた私は、もしかしたら鯉みたいに口をぱくぱくしていたかもしれません。そんな私を馬鹿にすることもなく、大胆にも百合香さんは自分の前の名札をべりっとはがして、胸の前に掲げました。
「私、松木百合香。あ、ねえ、なんかこうすると犯罪者みたいだね」
私と名札を交互に見て、百合香さんは笑いました。頬を横切るえくぼは猫のひげのようでした。しかも百合香さんは22番。にゃんにゃんの語呂合わせが頭をめぐって私が勝手に吹き出すと、百合香さんは「もう!」と肩をこづきました。その瞬間でした。おかしな話ですが、私は百合香さんの一部になってしまったような気がしたんです。式の間というものの、気の休まるときはありませんでした。百合香さんが手の位置を変えたり、軽く咳をしたり、そういう仕草のたびに産毛をくすぐられる心地がしました。
式が終わると私と百合香さんはそろって通路に出ました。階段を降りる間、まるでそこが花道であるかのように、百合香さんは左右から話しかけられたり手を振られたりしていました。私の足取りは鈍りました。百合香さんにはすでに友達がたくさんいて、誰にでも優しくて、私はそのうちの一人でしかないのだと。一番下に降りるころには私と百合香さんの間に10人近くの生徒が入り込んでいました。きっともう百合香さんは私のことなど忘れてしまっただろうと、一人で講堂を出ようとしました。すると、後ろから腕を引かれました。
「七海さん、行かないでよ!」
百合香さんの背後からたくさんの目が私に注いでいました。みんな背丈にぴったりの制服を着ています。3年間着られるよう大きめに仕立てたりはせず、背が伸びれば買い換えればいいという考えなのでしょうか。彼女たちに私のだぼっとしたセーラー服はどんなふうに映るのでしょう。そんな私の卑屈な気持ちなど気にもとめず、百合香さんは輪の中央に引き入れて、「こちらは七海さん。七つの海を股にかける七海さん」と紹介しました。すごーい、かっこいい名前だね、と屈託のない感嘆の声を耳にはさみながら、私は気を引き締めました。名前をさん付けで呼ぶという今までにない風習にも、早々になじまなければならないと。
こんなふうにして私の中学校生活は始まりました。初等部からの進学組と私たち受験組は、初めはなんとなしに区別されていましたが、百合香さんは受験組にも積極的に話しかけて、すぐに打ち解けていきました。おかげで私のクラスは初めからなごやかな空気でしたが、噂ではそうではないクラスもあったようです。
入学して最初のテストが終わりました。返却された数学のテストの点数を見て驚きました。100点。小学校では珍しくありませんでしたが、中学に入るとぐっと勉強が難しくなる、とさまざまな場面で聞いていたので、拍子抜けしてしまいました。ふいに前の席の百合香さんが振り向きました。
「え、七海さん……」
百合香さんには珍しく引っかかった言い方に私は思わず答案用紙をひっくり返しました。
小学校のころの嫌な思い出がよみがえりました。女子の間ではテストの点数の部分を折って隠すのが暗黙のルールでした。それをしないと「これだから天才は」などと陰口をたたかれるのです。私は勉強ができるほうでしたが、クラスでは嫌われていました。正しくは女子のリーダー格の子に嫌われていました。できる人はできることを隠さなければ彼女に嫌われる。それはクラス全員から嫌われるも同然なのでした。
もしかしたら、百合香さんもそういうことをすごく気にするのかもしれません。もしそうなら、私の人生は終わりです。
百合香さんはやや強引に私の手をのけて答案を裏返すと、「すごい、全部あってる……」とつぶやきました。そして、「ねえ、問7もできたの? 私全然わからなかった。あとでこっそり教えてくれる?」と私の袖口を強く引っ張ったのです。
すごい、それはこちらのセリフでした。人の「できる」ことを蔑まない。ここに来てよかった。受験をしてよかった。私は父に感謝しました。恵英を受けることをすすめたのは父でしたから。
「イケメン2世議員に隠し子!?」との見出しに合わせて「某都内名門女子中学」の運動会の様子が週刊誌に掲載されたのは、翌年の7月ごろのことでした。
保護者席に座る衆院議員安木元彰氏に向かって誇らしげに賞状を見せる女子生徒の写真がトップを飾りました。その女子生徒は、安木氏が妻子ある身でありながら六本木の高級クラブに勤めるホステスとの間にもうけた子で、その女性との関係はまだ続いているという証言まで明らかになりました。女子生徒の目元に黒い線が引かれているせいか、笑っている口元が際立って、どこか邪悪に見えます。
記事に躍る某都内名門女子中学とは私が通う恵英女学院のことで、女子生徒はまごうことなく、百合香さんでした。
発売日の朝、学校の最寄駅の改札を出ると、待っていましたとばかりに若い男が近づいてきました。
「ちょっといいかなー」。怪しい猫なで声に足を止めるつもりはありません。「松木百合香さんのお友達?」「ちょっと話を聞かせてもらえないかな」。なおもついてくる声を振りはらいます。学校の前にはテレビカメラを担いだクルーまでいました。
教室は昨日とはうってかわって異様な熱気に包まれていました。教室に入るなりそれまでつぐんでいた口を一斉に開き、その内容はてんでバラバラでした。
百合香さんを慕う受験組の一人が、百合香さんが隠し子であるわけがないと息巻きました。けれど、たとえどんな事情でも百合香さんの味方だと良識を発揮する人の前にすぐに押し黙りました。矛先を変えて、安木議員の行動が許せないと憤ってみたり、面白おかしく報じるマスコミを糾弾してみたり。夏休み前の消化モードと化していた教室が一気に運動会の熱気に逆戻りしました。それにしても当の百合香さんは一向に現れません。そのまま朝礼を終え、1限目の授業が始まりました。百合香さんのいない教室は、停電した夜のようにものさびしく落ち着かないものでした。1限目終業のチャイムと同時に、百合香さんは担任の先生に付き添われて登校しました。私たちはすぐに百合香さんを取り囲みます。あたかも駅前で待ち伏せていた記者のように。
「みんな迷惑かけてごめんね」
心なしかいつもより低めのポニーテールで縮こまる百合香さんにさっきまでバラバラだった意見があっという間に一つにまとまりました。
「なんで百合香さんが謝るの。百合香さんはなんにも悪くないじゃない!」
憤るクラスメートたちに目をうるませながら、百合香さんはふにゃっとした笑みをこぼしました。
「でもね、ちょっと変な気分。今日はどこに行くにもカメラがついてきて、なんか、本物のセレブになった気分」
百合香さんはかばんを椅子の上に置くと、腕をチューリップのように上げて、くるりと一周し、冗談めかしてこう言いました。
「みんながっかりした? 私、隠し子だったんです」
すると、「親が誰とかそんなの関係ないよ」「みんな“百合香さん”が好きなんだから」と皆ここぞとばかりに百合香さんにアピールします。
「百合香さんを食い物にする連中を絶対に許さない」
小学校から百合香さんを知る璃子さんが声を上げると、そうだそうだと皆が呼応します。悪いのは週刊誌。運動会に忍び込み、プライベートをさらし、議員を悪者にし、皆の百合香さんをあたかも罪の子のように貶めた、週刊誌が悪い! 私は声を合わせながら、百合香さんの「本物のセレブになったみたい」という発言に意外さを感じてもいました。百合香さんみたいにクラスの中心で華やかにふるまっている人でさえ、自分は本物ではないという意識をもっていたのだと。自身の素性に対する後ろめたさでしょうか。表も裏もなく、誰にでも分け隔てなくやさしい百合香さんの、ほんのりと昏い内側をのぞきみてしまったような不思議な心地がしたのでした。
璃子さんの呼びかけで、駅までクラス全員で集団下校することになりました。
二十人余りの隊列が、イチョウ並木がアーチをかたちづくる午後の街路を練り歩きます。
おそらく学院から追い払われ、見えないところで張っていた記者たちが何事かとつけてきます。
ともに学びともにはげみ健やかにのびよ
乙女の気高き血潮はめぐりて我が手に透かむ
誰からともなく校歌を歌い始めました。次から次へと押し寄せるさざなみのように、声は重なり、大きく強くなっていきます。私も合わせて歌います。生まれや育ちはさまざまですが、気高くしなやかに生きよとの建学の精神は誰のなかにも等しく宿る、赤いスカーフはその象徴です。少し恥ずかしがっていた百合香さんも形のよい口を開けて歌詞をなぞっています。璃子さんは誇らしげに先導します。記者たちがおもしろがってついてくるので、ときに後ろを振り返り、口をとがらせて声を張り上げます。二十人の生徒たちはそろって一つの矛となり盾となり百合香さんを守っていました。
私たちが一致団結した最後の時でした。
その後、百合香さんは休みがちになり、その間、クラスの中心になったのは璃子さんでした。璃子さんが言うには、百合香さんのことが露見したのは裏切り者がいるからだと。実は、去年も運動会のあとに同じ雑誌に記事が出たのです。かつて天才子役ともてはやされた会川夢が、表舞台から退いて激太りしたというもので、百合香さんの件ほど話題にはなりませんでしたが、ネットでは画像が拡散されたようです。恵英の運動会はかなり前から関係者以外の立ち入りは禁止なので、保護者のなかに情報を売った人間がいるのではないかと璃子さんはふんでいました。しかも、去年に続き今年もですから、中学から入った受験組が怪しい、と。
私たちの間には疑心暗鬼のひびが入り、あっけなく分断しました。彼女たちは私たちの一挙手一投足を監視し、私たちは彼女たちと目を合わせなくなりました。
ついには、授業中にこんな名簿が回ってきました。
名前の横に、親の職業と年収を記せというのです。
私は息をついて、百合香さんのことを思いました。彼女がこんなことを望むでしょうか。現に、百合香さんが登校した日には、私たちは何事もなかったように仲良しのクラスメートを演じているのです。
もしこのクラスに裏切り者がいたとしたら、それを知った百合香さんはどんな反応をするでしょうか。私にとって百合香さんは恵英女学院そのものでした。生まれにかかわらず、ともに励み、互いを高め合うために私たちはここにいるのです。百合香さんが口にした本物という言葉。それは本来はあってはならない負い目なのです。
職業と年収という項目。これほどの蔑みがあるでしょうか。なにより、情報を売るのは金に困っているからだ、という発想の貧困さにため息が出ます。そもそも璃子さんはちゃんと記事を読んだのでしょうか。運動会の写真はアイキャッチにしかすぎず、決定的な証言をしたのは安木議員の元秘書ですし、そこにたどり着くことができたのは記者の手腕です。ただで情報を得られる中学生に群がる金魚の糞は別にして、報じられたのは単なる事実です。いったいなにを恥じることがありましょうか。
私はボールペンではっきりと記入しました。「職業:雑誌記者 年収:出来高」と。
気高き血潮 仲よし子 @naka_yoshiko
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