第5話

『承久記』によればそれは承久3(1221)年5月14日のことであった。大江親広のもとへ「三井寺の強盗鎮圧の為」院御所へ急ぎ参内せよと使いがあった。親広は念のために伊賀光季のもとへ伺いを立てた。光季は親広に答えた。

「はて。私のところにはそんな使いは来ておらぬ。来たら参内しよう。」

親広は光季を待たず百余騎にて、院御所へ馳せ参じた。

「親広よ。義時はすでに朝敵となったぞ。おまえは鎌倉につくか。それとも我らの味方へ参ぜようか。」

そう言ったのは三浦検非違使判官胤義たねよしであった。

「胤義。その院宣を賜ったのは誰だ?峰殿か?」

くどいようだが、天皇や上皇から武家に勅なり院宣なりが下される場合には、必ず京都守護を通すことになっていた。しかも京都守護は二人いる。二人が合意して初めてその勅なり院宣は鎌倉へ伝えられる。そういう安全装置が京都守護なのである。ただし、院側近の公卿、すなわち摂家であれば、伝統的に、守護を介さず院宣を承ることがあり得た。当然のことながら、京都守護は、摂家と相談の上で、朝廷と幕府の連絡係を務めるのである(ちなみに承久の乱後は後鳥羽院とともに摂家は没落し、代わりに西園寺が関東申次として朝廷を牛耳るようになる)。

「峰殿は蟄居ちっきょなされた。三寅を鎌倉に人質に取られておるからな。院も察しておられる。」

「では?」

「院の万民を思う叡慮である。」

「きさまら、摂政にも、我ら守護にも事前に相談なく、院宣を賜ったのか。それがどういう意味かわかっているのか。」

「義時追討の院宣であるから、義時も、おまえら守護も知らぬのは当然ではないか。要するに、義時には鎌倉を束ねる器量がなかったのだ。」

胤義は嘲笑あざわらった。


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