第3話
頼朝は、義経が潜伏しているとされた東国の騒乱は勝手に裁いたが、西国に起きた事件は、京都守護経由で後鳥羽院に奏請し院宣を奉じて朝敵を討つという形をとった。頼朝の後継者もこの形を踏襲することになる。頼朝の死の直後、1201年に
ともあれ武士で院宣を得られるのは実質的に京都守護だけ、という慣例ができあがっていた。院宣によって武士は大義名分を得て、一つにまとまる。しかし実朝が暗殺され今は将軍不在、幕府は一枚岩ではない。
実は、京都守護が二人体制になったのは伊賀光季と大江親広の代からであった。彼らは建保7(1219)2月に同時に京都守護に任じられている。
それまでは京都守護は一人しかいなかった。初代は北条時政。政子と義時の父である。次は一条能保。源義朝の血を引く坊門姫の夫。その娘の一人は九条良経に、もう一人の娘は西園寺公経に嫁いでいる。義経の子が道家、道家の子が三寅丸である。次は一条高能。坊門姫の息子である。高能は若死にし、その後任はなかなか決まらなかったらしいが、結局、平賀朝雅に落ち着いた。上述のように彼は時政の娘婿であって時政とともに一悶着を起こした。その次が中原季時。大江広元の甥にあたる。再び文官に戻ったというわけである。季時は14年間の長きにわたって京都守護であった。
大江姓を名乗る前、広元は中原姓であった。
大江にせよ中原にせよ元々は京都の武家、学者の家柄である。
大江広元は頼朝に仕えて幕政に貢献した。
六波羅探題もまた、南北に分かれており、北方と南方、二人体制であって、すなわち伊賀光季と大江親広からの体制を引き継いだことになる。遠く時代は下るが、徳川幕府もまた、江戸に町奉行を二人、南町奉行と北町奉行を置いたが、おそらく鎌倉に倣ったものに違いない。
建保7年1月27日。実朝が公暁に暗殺される。中原季時が隠居して京都守護を退き、伊賀光季と大江親広がその後任となったのはこの事件がきっかけであったのは間違いない。大江親広は文官であっておそらく自らの郎党を持たなかっただろう。単なる文官では京都守護は務まらなくなっていた。それで家の子郎党を抱えた伊賀光季と兼任ということになったに違いない。
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