第2話

京都守護はただの守護ではない。後白河院の院宣によって頼朝は日本国惣追捕使となって、義経よしつねや平家の残党を追討するという名目で、守護・地頭を置くことを許された。頼朝の死後も鎌倉は頼朝の子の頼家よりいえ、実朝を次々に将軍に立てて、守護任免の勅許を維持してきた。

この、頼朝の正統な後継者たる鎌倉将軍には守護の任免権がある、頼朝の既得権は世襲される、という発想は別に武家の発明ではない。

天皇の大権は、藤原氏らによって、長い年月をかけてなし崩し的に簒奪されていった。藤原氏の関心は、一旦獲得した特権をいかにして子々孫々に世襲していくかということにある。彼らが最も恐れるのは、中国の王朝が唐から宋に交替したように、日本でも突然何かの政変があって、天皇大権が復活したり、庄園整理令が発令されたりして、既得権益をいきなり失うことである。後白河院が頼朝に委任したひょうの権は、格別の落ち度が無い限り、頼朝の跡継ぎが継承しなくてはならない。院宣などの権威によって恣意的に取り上げられる前例を作るわけにはいかない。公家はこのように極めて保守的になる。九条家の慈円も、村上源氏の北畠親房も当然そのように考える。逆説的になるが公家こそは新興勢力である武家政権の最大の理解者であった。藤原氏がいなければ日本国惣追捕使ないし征夷大将軍が頼朝の血筋に世襲されることなどあり得なかったに違いない。これらの職はもともと臨時職であったのだから。

京都守護は後に六波羅探題となるが、今はまだ六波羅探題は存在しない。六波羅探題(六波羅守護)は承久の乱の結果京都守護を改組してできたのである。したがって形の上ではまだ、京都守護は他の国に置かれた守護と同列である。

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