第1話 再会

(……昨日は、きれいな満月だったな……)


 雲一つない晴れ空と少し冷たい風が、間もなく訪れるであろう冬を感じさせる朝。

 フランス西部に位置する小国・ルリエル王国の王都にある大きな屋敷で、一人の青年が窓越しに空を見つめていた。


 若草色の澄んだ瞳に黒縁の眼鏡。ところどころに寝癖の付いたカーキ色の髪をした彼は、街を照らす太陽なんかには目もくれず、どこかぼんやりした様子で今はもう空に消えた美しい月と、そこで出逢った少女に想いを馳せていた。

 使用人の制服に身を包み、父の書斎から忍ぶように出てきた彼女。あんな真夜中の時間にあんな恰好で一体何をしていたのだろう……?

(……それに、俺を見て何も言わず逃げて行ったことも、解せないよなぁ……)


「おはようございます。コルザ様。本日のお仕事についてですが……」

「……」

 謎の少女と出会った次の日。

 朝食を終えて自室へと戻ったコルザは、仕事のスケジュールを伝えに来た執事の言葉を聞きながら、昨晩のことばかり考えていた。凝った装飾のローテーブルにはいくつか資料が置かれ、執事が父公爵からの伝言や要点を話してくれているが、一向に内容が頭に入ってこない。

 そのことにふと苦笑を見せたコルザは、寝癖の付いた髪に手をやると、不思議そうにこちらの様子を窺う執事に困ったように言った。

「もう下がっていいよ。今日はなんだか、考え事が頭に張り付いていてね。午前中のうちに資料には目を通しておくから、仕事の予定は午後に回してくれ」

「かしこまりました。では私は一度、他の業務に参ります。何かございましたらお呼び下さい」

「悪いね。早く従者を決めればいいんだけれどさ」

「いえ、それでは失礼致します」

 コルザの言葉に、執事は一礼を返すとそのまま部屋を出ていった。

 コツコツと靴の鳴る音が小さくなり、消えていく。

 そのことを確認したコルザは、資料の束を一瞥すると、思案顔で掛けてあった上着を羽織り、そのまま部屋を後にした。何を思っているのかは分からないが、その足取りだけはしっかりしているようだ。


(……とにかく、資料室へ。そこで一度状況を整理してみよう。そして……)

「ティアリー、二階の廊下が終わったら、次は一階の読書室をお願いできるかい?」

「はい、パスキーさん」

「……!」

 三階にある自室を出て、目的地である地下の資料室へと階段を下って行ったコルザは、次の瞬間、聞こえてきた女性の話し声にふと目を見開くと、ほぼ無意識に視線を移した。

 彼が見つめる廊下の向こう、そこにいたのは、昨夜、月明かりの下で出逢ったあの少女。

 竹箒を手に持ち、家政婦長の指示に頷く少女は、まるで昨日のことなどなかったかのように、淡々と仕事に励んでいる。


(――やっぱり、昨日のは見間違いじゃなかった。彼女は……)

 そんな彼女の姿を、驚きと動揺を合わせたような表情で見つめたコルザは、階段の踊り場で足を止めたまま、彼女の様子を観察した。

 後ろでまとめられたウェーブを描くピーチベージュの長い髪に、赤みがかった茶色の瞳。きゅっと引き結ばれたつやつやの唇にほんのり色付いた頬が可愛らしい、綺麗な女の子。

 整った顔立ちと品のある雰囲気はメイドと言うより、どこかの家のご令嬢のようだ。

「……なぁ、パスキー。あんなメイド、うちにいたか?」

 改めて彼女の姿を確認したコルザは、内心あの姿に違和を覚えながら、指示を受けて廊下の奥へと去っていく少女を見送ると、こちらに歩いて来た家政婦長・パスキーを呼び止めた。

 メイド達の統括者である彼女なら、あの少女について色々と知っていることだろう。


「これはコルザ様、おはようございます。メイドがいかがなさいましたか?」

「さっき向こうで話をしていたピーチベージュの髪の子。うちのメイドなんでしょ?」

「ええ、あの子はティアリー・ジェリー。お屋敷に来て一ヶ月のハウスメイドでございますわ」

「ティアリー……」

「なんでも、昔に生き別れた“思い出の人”を探しているそうで、一年ごとに屋敷を移ってはその方の手がかりを調べていると聞いています。ですが、高貴なご身分の方と言うこと以外、情報を持ち得ていないようで、このお屋敷で四軒目になるそうですよ」

 そう言ってパスキーは、どこか悩ましげな顔をしているコルザに、丁寧に答えた。

 労働者の人権保護の観点から、この王国では年に一度、就業における契約確認が義務付けられていた。大概の使用人はその際に契約を更新し、そのまま屋敷に留まるのだが、彼女はその制度を利用して屋敷を渡り歩き、人を探していると言うのだ。


「探し人?」

 家政婦長の口から出た意外な話に、コルザは目を見開くと、オウム返しに問いかけた。何のために彼女がそんなことをしているのか、全く見当がつかなかった。

「はい。そう話しておりました。それならあの子は見目もいいし、パーラーメイドをしてはどうかと打診もしたのですが、人見知りのようで……。とても優秀な子ではあるのですが……」

「なるほど……」

 優しい笑みで話をする彼女の声を聞きながら、コルザは疑問を募らせると、ふと黙り込んだ。

 彼女がもし本当に人を探しているとして、そのためにメイドをしているというのなら、それにはきっと、何か特別な理由があるはずだ。だってそうでなければ、貴族の屋敷に出入りするために、働くなんて選択を彼女がするとは到底思えない。

 それに、表で家人や客人の対応を行うパーラーメイドではなく、裏で掃除などをこなすハウスメイドを望んだということは、彼女自身、自分の正体を隠しておきたいのだろう。

 そう思うと昨日のコルザへの態度も納得がいく。

 でも……。

(うちに来るのに、なんでそんな手の込んだことをする必要があるんだ……?)


「ところでコルザ様、なぜそのようなことを?」

「ん?」

 彼女がここに来た経緯を聞いて出た疑問に頭をひねりながら思案をしていると、人の良さそうな笑顔を浮かべていた家政婦長が不思議顔でそう問いかけてきた。

 普通、屋敷の使用人は貴族にとって影同然。見かけない、なんて理由で貴公子様がメイドを気にするとは思えなかった。

「……見つけたんだ。だから、知りたくて」

「……?」

 家政婦長の妥当な疑問に、コルザは小さく笑みを見せると、どこか意味深な様子で答えた。

 彼女が去って行った廊下の向こうを見つめる彼の表情は、嬉しさと驚きとほんの少しの寂しさをごちゃ混ぜにしたような複雑さを湛えており、普段の穏やかな様子とは違って見える。

 そのことにパスキーは一瞬戸惑いを見せたが、すぐ思い当ることがあったのか、彼女は優しい笑みを浮かべたまま質問を重ねた。

「もしや、先日旦那様が仰っておりました、コルザ様の従者をお決めになる件ですか?」

「ん?」

「確かに、侍女も従者と同じく主人の近侍が主な役割ですが…まさか、本来女主人に付くはずの侍女をお探しとは、正直驚きましたわ。……ですが、そういうことでしたら、よく気の付くティアリーは適任かと存じますよ」

 何とも言えない微妙な表情を浮かべるコルザをよそに、パスキーはふふふと笑うと、思い当った推論に一人納得したように頷いた。


 確かに数日前、コルザは父公爵から、次期当主として従者を選ぶよう言われていた。

 まだ誰にするか明確には決めていなかったし、女性使用人のトップであるパスキーがその話を知っていてもおかしくはない。だからそんな推論に至ったのであろうことは理解できたが、コルザが彼女の話を聞いたのは、そんなことのためではなかった。

 彼女のことを知りたかったのは、もっと別の、特別な理由だ。



(……今日の月もとても綺麗。この様子だと、彼はまたバルコニーかしら)

 その日の夜――。

 家政婦長に終業の許可を得て使用人たちが集まる食堂を後にした少女は、後ろで一つにまとめていた長い髪を解くと、ほぼ無意識に空を見上げ、心の中で呟いた。

 空に輝く月の位置を見るに、時刻はちょうど十時を回ったころだろう。昨日は探し物をするために書斎に忍び込んだり、帰りがけに彼に姿を見られたりと、随分いろいろな出来事に見舞われた夜だった。だからこそ今日は早く自室に戻って、ゆっくりできたら……。


「お疲れ。新人メイドさん」

「……!」

 そんな思いを抱きながら、自室のある別棟に向かって歩みを進めていた少女は、廊下の角を曲がった途端、予期せぬ光景に出くわした。

 月明かりと淡い蝋燭が照らすそこにいたのは、黒縁の眼鏡の青年――コルザ・トレフィーヌ。

 彼は廊下を歩く少女の姿を確認すると、寄りかかっていた壁から背を離し、ゆっくりとこちらに近付いてきた。

 どうやら冬も近い晩秋のこの時期に、コルザは灯りも少ない薄暗い廊下で、たった一人のメイドを待ち構えていたようだ。

「今日の仕事は終わったみたいだね。じゃあ行こうか」

「……っ」

 予想だにしなかった彼の姿に、少女は僅かな動揺を見せると、そのまましばらく表情を強張らせていた。昨日のことがあったとはいえ、まさか彼の方から会いに来るなんて思ってもみなかった、と言うような様子だ。

 しかし、そんな彼女をよそに優しげな笑みを見せたコルザは、そっと手を差し出すと、そう言って彼女の反応を待った。

 態度はごく自然だが、彼はずっとこの瞬間を待っていたのだろう。ここは廊下の曲がり角。今来た道を戻っても使用人たちが集まる食堂しかなく、通り抜けはできない。

 それに、一度退出した手前、食堂に戻るわけにはいかないし、彼を避けるため窓から外に逃げるなんてはしたないマネも出来るわけがない。

 まさに八方塞がりの状況に少女は俯くと、手を差し出す彼に小さく尋ねた。


「……それは命令ですか? コルザ様」

「命令って……」

「そうでなければ、申し訳ありませんが、失礼させていただきます」

 まるで、コルザと関わることを恐れるようにそれだけを告げた少女は、驚く彼をしり目に、強引にその場を立ち去ろうとした。

 だが、茫然とする彼の横を通り過ぎようとした、その瞬間。

「待って。……じゃあ命令でもいい」

「……!」

 ぎゅっと彼女の腕を掴んだコルザは、彼女が抵抗できぬよう、真剣な眼差しで告げた。

「話がある。俺の部屋に来てもらおうか」



 結局彼の言葉に逆らうことができず、導かれるがままコルザの自室へとやって来た少女は、いつにもまして無表情を決め込むと、向かい側に座る彼の気配を俯いたまま窺っていた。

 ローテーブルを挟んで向かいに座るコルザは、話があると連れて来た割に何を思っているのか、あれ以来一言も話さず、なぜか緊張したように彼女を見つめている。


「……」

「……きみに、聞きたいことはたくさんある。でも、その前に教えてくれるかな?」

 やがて、意を決した面持ちで口を開いたコルザは、目さえ合わそうとしない彼女を見つめたまま、ゆっくりと切り出した。そして、疑問と微かな喜びを含んだ複雑な声で問いかける。

「どうしてきみがこんなところにいるんだい、?」

「……!」

 彼の口から囁かれたその名前に、それまでずっと俯いていた彼女が、ピクリと反応した。

 まるで認めたくない事実を渋々飲み込んだかのようにゆっくりと顔を上げ、複雑な顔で微笑むコルザの優しげな瞳を見つめ返す。


「……」

 だが、何と言葉を返すべきか、何を言えばいいのか、その言葉さえ思いつかなくて、悩むようにコルザを見上げていた彼女は、しばらくしてまた視線を逸らした。

 どうしても飲み込んだ事実を、簡単には肯定したくないようだ。

 彼女の態度からそう悟ったコルザは、少しだけ呆れた表情を見せると、無言を通す彼女に、強気の姿勢でダメ押しの如く事実を突きつけた。

「誤魔化そうとしても無駄さ。そもそも顔を見られて俺から逃げた後で、言い訳が立たないことくらいきみなら分かるでしょう? ねぇ、スリージェル侯爵家のお嬢様?」

「……っ!」

 言い返す余地のない彼の言葉に、彼女はふと目を見開くと、困ったように表情を歪めた。

 温和な見た目とは裏腹に、コルザは頭の回転が速いことくらい昔から知っていたけれど、もうこれ以上はどうにも誤魔化しきれないようだ。


「……そうね」

 ついに観念すると決めた少女は、肩の荷を下ろすように小さく呟いた。

「ここまできて幼馴染みのあなたを誤魔化すなんて、無理よね、コルザ……」

「本当に…生きていたんだね……」

 そう言って自らの正体を認めた少女――ペティアは、ふぅと息を吐くと、驚いた表情を見せる彼を今度は真っ直ぐに見つめた。

 もう五年近くも貴族であった自分の正体を隠し、メイドとしてお屋敷を渡り歩いていたのに。うっかり出くわしてしまった幼馴染みにこうも簡単に見破られてしまうなんて。

 悲しいような悔しいような……複雑な感情で彼を見遣ると、破顔していたコルザはやがて、尽きない数々の疑問を彼女に投げかけた。

「でも、どうして……? きみは、いや、スリージェル侯爵家の人は全員、五年前の大火事で死んだはずじゃ……? それに、生きていたのなら、なんでお嬢様だったきみが、こんなところでメイドなんてやっているんだい?」

「それは……」

「先に言うけど、嘘は聞きたくないからね」


 昨日の夜から頭に張り付いて離れない疑問。

 資料室で見つけた記録を読んでも分からなかった謎を矢継ぎ早に問いかけると、ペティアはどきりとしたように少しだけ身を引いた。やはり、何か訳ありな様子だ。

 彼女の態度からそう察したコルザは、口ごもる彼女に釘をさすと答えを促した。

 すると、少しだけ困ったように瞳を伏せたペティアは、彼の想いとは裏腹に意外な台詞を呟いた。

「……じゃあ、何も言えないわ」

「え」

「嘘を吐くことができないのなら、私はあなたに何も話せない。それに、お家がなくなった今、私はもうお嬢様じゃないのよ。生きるためにどこで何をしていても私の自由でしょう?」

 眉根に皺を寄せながら、どこか苦しげに言ったペティアは、もうそれ以上何も説明することはないと言うように、茫然としているコルザを見遣ると口を閉じた。

 確かに、彼女の言っていることは間違いではないだろう。幼馴染みとは言え、彼にすべてを話す義理は微塵もないのだ。

 だが、それでも納得しきれないコルザは、座っていた長椅子から腰を上げると、少しだけ声を荒げた。

「それは…そうかもしれないけれど、何も話せないってことは、何か抱えている事情があるんでしょう? それを教えてはくれないの?」

「……コルザが気にすることじゃないもの。これは、私の問題だから」


 答えを拒否するようにそう言った彼女はやはりどこか苦しげに見えた。

 昔はもっと、大輪の花が咲き誇るような華やかな笑顔が可愛い、明るい女の子だったのに。

 五年前とは明らかに何かが変わってしまった幼馴染みを、コルザはしばらくどうしたものかと見つめていたが、やがてしびれを切らしたように呟いた。


「……パスキーが、きみは誰かを探してると言っていた」

「!」

「ただ人を……それも同じ上流階級の人間を探すことが目的なら、わざわざ正体を隠すことはないよね。表に出てきて堂々と探した方がメイドをするよりずっと効率はいい。でも、きみはそうしなかった。つまり、そうできない理由があった。違う?」

「……」

 何も話そうとしないペティアをよそに、コルザは日中聞いた話と、資料室の記録を基に仮説を立てていった。

 もちろん、証拠なんて何一つないし、本当のことは分からなかったけれど、仮にも侯爵家のお嬢様がわざわざメイドをしているのにはよっぽどの理由があったはずだ。

 そのことを念頭に話をすると、ペティアは肯定も否定もなくただ黙って話を聞いていた。

 彼女の態度から、あながち的外れでもないことを感じたコルザは、小刻みに揺れる彼女の瞳を見つめながら話を進めた。

「おそらくきみには、誰にも知られることなくその人物を探す必要があったんだ。だから世間的に死んだことになっている状況を利用し、メイドとして屋敷を渡り歩いた……。当時十三歳だった少女の選択としてはあまりにも不可思議に感じるね。そう思い立った理由があるとすれば、五年前の大火事。スリージェル侯爵が自ら屋敷に火を放った一家心中事件……」

「違う!」

「!」


 自らの仮説を朗々と話していたそのとき。

 突然、両手でローテーブルを叩いて立ち上がったペティアが、怒気を含んだ大声でコルザの言葉を遮った。唐突な事態に驚いて彼女を見つめると、ペティアは震える声で小さく、

「あれはお父様の仕業なんかじゃない……。あれは……っ!」

「ペティア……?」

 テーブルに手をついたまま俯く彼女の表情は髪に隠れて窺うことはできなかったが、ある意味核心に触れたコルザは、予想外の反応に驚きながらも恐る恐る声をかけた。

 こんなにも感情を露わにするペティアを見るのは一体いつ以来だろう。

 そう思いながら彼女の様子を窺っていると、ペティアはしばらくして我に返ったようにゆっくりと腰を下ろした。そして自らの発言を取り繕うように首を振る。

「ごめんなさい。何でもないの……」

「な、何でもないわけないよ。あの火事は、スリージェル侯爵が外交官の立場を荷重に感じて起こした心中事件なんじゃないの? だって、国の資料には……!」

「……国の、資料。……そうね……」

「……っ。どうして、本当のことを話してくれないの? 俺たち、幼馴染みだろう?」

 何を言っても決して事実を話そうとしないペティアに、虚しさと、ほんの少しの苛立ちを混ぜた声音で問いかける。

 すると彼女は、ふと表情を曇らせた後でコルザを見上げ、言った。


「……それは昔の話よ。確かに私たちは、小さいころ一緒にいた幼馴染みで、友達だったけれど、あれからもう五年も経つのよ。大人になった分、昔とは立場が違う……」

「立場……」

「ええ。そして立場が変われば交友関係も変わる。特にあなたは公爵家の嫡男、子供のころは持ち得ていなかった交友関係のひとつや二つ、あるでしょう?」

「それは……」

「そんなあなたを、幼馴染みだからと言う理由で味方と信じることが、今の私にはできない。あの火事の日以来、私は人を信じることができないの。……そのくらい、私は変わった。私はもう、昔の無邪気なだけのお嬢様とは違う。だからたとえ、あなたにだって私の目的を話すことはできないわ」


 わざと感情を廃した声で囁くペティアの言葉を、コルザは傷ついた面持ちで見つめていた。

 五年もの時間を経て再会した幼馴染みに、信用できないなんて言われれば誰だってそうかもしれない。だが、屋敷を焼き尽くすような大火事から、彼女はたった一人で逃げだしたのだ。あの火事がたとえ誰の仕業であったとしても、人の害悪に触れた少女の心はどれほど傷ついたことだろう。

 そう思うと、かける言葉さえコルザには見つからなかった。

 ただ黙って彼女の悲痛な言葉を噛み締めていると、しばらくして俯いたまま表情を失くしていたペティアが立ち上がった。

「迷惑をかけてごめんなさい。もう二度とあなたの前に現れないよう、この屋敷からは出ていくわ。あなたの知っているペティア・スリージェルはあの日死んだの。だから……忘れて……」

 今にも消え入りそうな擦れ声でそう告げたペティアは、悲愴な顔で黙り込むコルザに背を向けた。歩き出した彼女は本当に、このまま何も語らずいなくなるつもりなのだろう。

 このまま闇にかき消えて、もう二度と逢えなくなる。


「……っ!」

 本能的にそれを悟ったコルザはほとんど無意識に立ち上がると、彼女を追って駆け出していた。そして、ペティアが扉に手を掛ける直前、後ろから手を回して引き留める。

「行かないで、ペティア。せっかくまた逢えたのに」

「……」

 願うように告げるコルザの言葉に、ペティアが振り返ることはなかった。

 扉の前で佇む彼女は、彼が諦めるのを待つように俯いたまま何も言ってくれない。

 その姿をじっと見つめていたコルザは、やがて彼女の中にある苦しみや辛さ、そして一人で抱え込む何かを受け止めるように、優しくペティアを抱きしめた。

「……!」

 何をしたって簡単に癒せる傷ではないけれど、背を向けたときの彼女の表情があまりにも悲しげで、せめて少しでも味方だと思ってくれたら、それだけでよかった。

 突然の抱擁に動揺を見せるペティアの体は、とても細くて、意外なほど小さい。

 五年前、最後にペティアに会ったとき、二人の身長差なんてそんなになかったはずなのに。もっと同じ目線で、いろんなことを語らっていたはずなのに。

 今ではすっかり彼女を見下ろす位置にいるほど、確かに時間は経った。

 けれど、彼女の中であの事件は何一つ終わっていない。今もずっと、苦しんでいるんだ。


「ペティアが今の俺を信じられないのは分かった。だから、言いたくないことは聞かないよ。だけど、出て行くなんて寂しいこと言わないで……」

「でも、私……」

「傍に、居させてよ。俺にとってペティアはずっと、大事な存在だから。昔みたいに信じ合える関係に、戻りたいんだ」

 彼女を抱く腕に少しだけ力を込める。温かくて、少し甘い香りがした。

 彼女が生きていることを真に実感しながら、コルザは俯いて黙りこむ彼女に囁くように告げた。


「俺の侍女になってくれる? きみの傍で、俺がペティアの味方だって証明してみせるよ」


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