侯爵令嬢と花びらの願い

みんと

プロローグ 月明かりの下で…

 ここにも、ない――。

暗い部屋の中で、少女は何かを探していた。


 黒い、ごわごわとしたシンプルなドレスに、白いエプロン。

後ろで一つに束ねられた色素の薄いピーチベージュの長い髪……。

闇に紛れて顔を窺い知ることはできないが、どうやらこの家に仕えるメイドのようだ。

真夜中をとうに過ぎたこんな時間に何を探しているのか、少女は外の気配を気にしながら誰もいない部屋の中を動き回り、ありとあらゆるものを手に取っていった。

薄い月明かりだけが、そんな彼女の様子を静かに見つめている……。


(……違う…。残念だけれど、このお屋敷もハズレのようね……)

 やがて、パタンと言う微かな音と共に引き出しを閉じた少女は、項垂れたように息を吐いた。

メイドとしてこの屋敷に仕え始めて一ヶ月余り。ようやく忍び込むチャンスが来たというのに。

ここでも彼女の探し物は見つからない。

(……一体、どこにあるのかしら。なんとしても見つけ出さないといけないのに……。でも、これ以上ここに長居はできないわね……)

 革手袋をした左手をぎゅっと握りしめ、強い意志を瞳に宿した少女は、しばしの逡巡の後、もう一度息を吐くと気持ちを切り替えるように立ち上がった。

屋敷に仕えるメイドとは言え、満月だけが煌々と輝く夜遅い時間に、屋敷内をうろついているところを誰かに見られるわけにはいかない。

それも、王国有数の貴族、トレフィーヌ公爵家当主の書斎から出ていくところなんて、誰にも見られるわけにはいかないのだ。


(大丈夫、誰もいないわね……)

 扉の向こうに神経を集中させ、外の気配を探った少女は、覚悟を決めると扉の隙間から音もなく屋敷の廊下へ滑り出た。時刻は深夜。見回り以外、使用人も皆寝ている時間だ。

自分の不在が発覚する前にこの廊下を抜けて、早く与えられた自室へ戻らなくては……。

「そこで何をしているんだ?」

「!」

 そのとき。誰もいないはずの廊下から、不意に鋭い声が飛んできた。

ついさっきまで何の気配もしなかったこの場に現れた声に、やや動揺しながら振り返ると、そこにはいつの間にか背の高い男のシルエットが。

男は部屋から出てきた少女を不信げに見つめている。

(見回りの執事……? なんてタイミング…この状況をどう説明しようかしら)

「その恰好、きみはうちのメイドだな? こんな時間に、こんな場所で何をしていた」

「…え、と……」

 そう言って、強い口調で問う男の影を見つめながら、少女は冷静に打開策を模索した。

少女にはある目的があった。だからこうして人目を忍んで動いていると言うのに、目的も達成せぬまま、こんなところで自分の正体を知られるわけにはいかない。

「もう一度聞く。こんな真夜中にここで何をしていた? ここは父の…公爵の書斎だぞ」

 動揺など悟らせまいと凛とした眼差しを相手に向け、自分の不自然な行動を正当化する理由を思案していると、不意に少女を見据えていた男がゆっくりと近付いてきた。

コツコツと靴の鳴る音とともに、窓から入った月明かりが、メガネを掛けた背の高い男の姿を映し出す。

「……っ!」

 途端、平静を保って打開策を練っていた少女の顔に、初めてはっきりとした驚きが走った。

赤みがかった茶色の瞳を見開き、なぜか見つかったときよりも動揺している様子だ。

「黙ってないで何とか言ったらどうだ?」

「も、申し訳ありません……」

 そんな彼女の僅かな変化に気付かぬまま、青年――この家の嫡男であるコルザは、若草色の瞳を細めると少女に詰め寄った。

強い口調のままじっとこちらを見つめる彼の視線に、無意識に顔をそむけた彼女の顔がほんの少し焦りに変わる。

だが、彼女は仕える家の子息の質問に決して答えようとはしなかった。

それどころか、声の主がコルザであると分かって以来、相手の顔を見ようとさえしない。

「……何か話せない理由でもあるのか?」

「……っ」

「まったく強情なメイドだ。……ほら、いい加減こちらを向いて、俺の質問に答えるんだ」

 彼女の使用人としてあるまじき無礼な振る舞いに、コルザはふと表情を曇らせると、俯いたままじっと気配を殺す少女に手を伸ばした。

そして、彼女の顎を掴んで視線を無理に上げさせ、眉根に皺を寄せた顔でその瞳を覗き込む。

「……!」 

 その瞬間、見開かれた彼女の赤みがかった茶色の瞳と、コルザの若草色の瞳が互いを捉えた。

淡い月の光が、向かい合った二人の表情を優しく照らし出す。


「……まさか………」

 数秒の沈黙の後、不意にコルザが衝撃を受けた顔で目を見開いた。

表情をみるみる驚愕に染め変えた彼は、まるで亡霊でも見たかのような動揺ぶりだ。

その様子にハッと息を呑んだ少女は、咄嗟に手を伸ばすと勢いよく彼を突き飛ばした。

少女の顎を捕らえていた手が離れ、コルザが数歩後退る。

「……っ」

 しかし、それでなお冷めざる衝撃に目を見開いた彼は、条件反射とは言え、仮にも公爵家の嫡男に手を出した使用人の無礼など気に留めた様子もなく、ただじっと少女を見つめ続けた。

そして、謝辞もなく、逃げるようにこの場を去って行った少女の背に、戸惑いと驚きを混ぜた曖昧な声音で、小さく呟く。


「……ペティア?」

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