音無

桜俊

第1話 序章 美和と克己 01



 ザァーザァー……




 「今を生きるってなんだろう?」




 「俺の現実は何処にあるんだろう?」




 ザァーザァー……






 やや天を見上げた男の頬や眼に降り注ぐ、刺すような冷たい雨粒。




 明るくも視界が悪く降り止まない雨の中、男は見知らぬ地へ足を進めていた。




 雨の中を長時間歩んできた極度の疲労で、棒になっていく俺の足は自分自身の意思を介せず、勝手に前を突き進んでいく。






(これは何処に行こうってんだよ??)






 まる一日中歩き続けて疲れ果てつつも、どうにかしたい自分の意思は「足よ止まれ!」と訴えかけている。


 上半身は自由か利いたので、足を叩いたりつねったりと反応を試みる。


 叩いたりした痛みは感じるものの、足は意識外から操作されるかのように歩むことを止めないのだ。


 信じがたい現象から目を背けたくても、現実がそれを許さないようだ。




 進み続ける足を止める手立てがなくなった事から、投げやりな気分でこれから何が待っているのかを考えてしまう。






美和みわ!」




美和みわ!」






 幾度この名前を思い叫んだことか。


 名前を呼ぶ度に胸が締め付けられる。


 涙を流す美和の顔が思い浮かぶ。




 身が張り裂けそうになるほど、苦しい!辛い!悲しい!




 ドックンドックンと煮えたぎる血流を全身に感じ、込める力によって肥大しそうなほど強く握りしめた拳。いつ血管がブチ切れてもおかしくないほどに、湯気が立つほど全身に力が入っている。周囲からは「大魔神」と呼ばれて当然、と言うほどピリピリとした殺気を放っている。




 この男の熱された全身に水を差すように、時折車道の側を走る車が大量の水しぶきを飛ばしてくる。






 バシャァァア……






「この世はクソだ!」








  泥水まみれになりつつも歩み続ける男。


 まともな言葉にならない、どうにもならない気持ちが全身を駆け巡る。




 酷い雨の中を、さらに数時間歩み続けただろうか。


 足の裏には出来たマメが潰れ、飲まず食わず歩き続けて満身創痍である。


 潰れたマメの痛みを忘れるほどの怒りと絶望感から、気力だけで歩き続けている。




 だが人間、気力がいつまでも続くものではない。




 限界を超えた男は、フッ……と力なく、もんどり打って倒れ込む。










 *****










(●●●! ●●●!)




 どこからか張り裂けそうになるほどの声で、俺を呼ぶ声が心に響いてくる。


 男は実の所、聴力に障害がある。


 だからこそ俺を呼ぶ声は、聞こえないはずだ。


 しかし心をえぐりそうになるほど、突き刺さってくる心の叫び。




(かつみ! かつみ!)




 ただ大きく叫んでいるだけではないのだろう。


 失われていく相手を想い叫ぶ強い意志が伝わってくる。




(何故なんだ?)




 何がいけなかったんだろうか?




 意識を失って倒れ込んだ克己かつみは自問自答する。




 わからない。俺を呼ぶ心の叫び。なんで俺を呼ぶ?




(美和……何故?)




 俺を呼ぶ声に反応して、少しずつ目を開眼させていく。


 真っ暗な闇の中をうつ伏せで横たわっている克己は、身を起こそうと再び手足に力を入れようとする。


 だが一向に、力を入れることが出来ないでいる。




(ちからが……入らな……い?)




 どうやら記憶を失ったままのようだ。周囲は明かりが無いほど真っ暗で、自身にスポットライトが当てられているように感じる。




(俺は……?)




 克己の不安をよそに背中から暖かな感触が伝わってきた。




(暖か……い……?)




(……克己)




 顔は見えずとも、誰が背中に触れているのかを感じる事は出来た。




(美和……)




 先ほどまでの苛立ちと、怒りなどの負の感情が嘘のように静まっている。




(でも……ごめんなさい……)




(えっ?)




(も……もう戻れない……の……)




(そんな!)




 克己は感情の幅が大きく振り戻され、一気に悲しみに包まれていった。




 わからない……




 美和はどうして、あの時あんな事を言い残したんだ?




(……ごめんなさい……)




 突き放しているはずなのに、何故俺の背中を?何故呼び叫ぶ?




 ますます美和の気持ちがわからなくなっていく。




 眼を閉じても、忘れようとしても、脳内にしっかりと焼き付いて離れない最後の言葉。








「あの時……最後まで私を抱いてくれたら、あなたを選んでいた。あなたとの子供が欲しかった」








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