第38話 盲目の令嬢とメイド
アンゼリカ・ル・トワールは今もその日のことを忘れていない。
その日、その時まで、アンゼリカは末娘らしい明るくておてんばで、少しばかりわがままな普通の令嬢だった。
ちょうど五年と少し前のことだ。
その日は夜遅くまでひどく興奮していたことを覚えている。今もその時にもリュヴェルトワールにはこれと言った娯楽がない。特に貴族の令嬢ともなれば、同じ年頃の子供と遊ぶこともできない。当時十一歳だった兄のエルクラッドは、今と違って勉強に修練にと忙しく、アンゼリカに構っている暇もなかった。
そんな中やって来たのは国中を巡業するサーカスの一団だった。
空中を飛び回るナイフ、火の輪をくぐるライオン、ぐらぐらと揺れながら綱渡りをする曲芸師、そして魔法のようにカードやボールを操る麗しき男装の奇術師――。
それはこれまでにない刺激的な体験だった。
興奮したアンゼリカはその日の体験を、何度も何度も――当時まだ見習いメイドだったリュセットに話した。それで夜中になっても寝付くことができず、時計の針が十二の刻を指しても眠らなかった。時計の針が九を指す頃には眠りなさいというのが母からの言いつけだったのに。
ようやく寝つけたアンゼリカは、次の朝寝坊をした。だのに目を開けても部屋は真っ暗なままで、彼女を起こしに来たリュセットに、
「この前読んだ絵本のように、太陽が大きなドラゴンに食べられてしまったのかしら。部屋が真っ暗で何も見えないわ」
そう告げた。
それで事態を把握したリュセットが両親に報告をし、屋敷は大騒ぎになった。
そして八歳のリュセットはようやく理解した。自分は視力を喪ったのだと。唐突に。理不尽に。
それから明るかったリュセットの心は暗い影に閉ざされていった。
部屋に引きこもり、家族ともまともに口を利かず、使用人には難癖をつけて八つ当たりをした。誰もが腫物を扱うようにアンゼリカと距離をおいたが、リュセットだけは辛抱強く彼女の世話を焼き、かんしゃくも受けとめてくれた。
その後アンゼリカは聖竜教会の聖職者に治療を受けた。一人目の聖職者では治療ができず、何人もの聖職者に治療を受け、最後には大司教にまで治療を受けた。
トワール伯爵家はこのために多額の寄進を聖竜教会に支払っていた。しかしアンゼリカの病状に改善の兆しが見えることはなかった。
アンゼリカは諦めた。貴族として、あるいは女性としての幸せを。結婚して、家庭を築くという――もしくは自立して生活するという未来を。
しかし両親は往生際悪く治療の方法を模索していたらしい。
今度やってきたのは魔術師だった。
魔術師は色々とよくわからない儀式をして、はっきりと治せると言った。
大司教でも治せないものが一介の魔術師風情に治せるものなのか。
父の話によると、その魔術師はエルクラッドと同年代ながら王国でも指折りの実力を持つ魔術師なのだと言う。
けれどアンゼリカには信じられない。そもそも魔術というものがよく理解できないし、身近にいる若い男性が兄のエルクラッドなので、若い男というのはどうも口ばかりで頼りないという印象が拭えないのだ。
そんなことを考えながら、アンゼリカは部屋の中でぼんやりと過ごしていた。
目の見えないアンゼリカに一人でできることなどなきに等しい。アンゼリカはいつも暇を持て余していて、それが猶更行き場のない苛立ちに繋がっているのだ。
ドアをノックする音。続いて聞こえてくるのはアンゼリカにとっては血を分けた家族よりも耳慣れた声。
「お嬢様、お茶が入りました」
「どうぞ、入って」
アンゼリカはお付きのリュセットに入室の許可を出す。ドアが開くと同時に漂ってくる香高い紅茶の匂い。今日はいつもと違う茶葉を使っているようだ。
「こっそりお客様に出すための高い茶葉をくすねてきたのです。他の皆には内緒ですよ」
そう言うと、リュセットはアンゼリカの前にティーカップを並べた。カチャリという澄んだ音が耳に心地良い。
「――ねえリュセット」
「なんでしょう?」
「わたしなんかのお付きにされて、嫌だと思うことってない?」
アンゼリカがそう問うと、リュセットはくすくすと笑った。
「何よ、笑うことないじゃない」
「うふふ、お嬢様があまりにも当たり前のことを聞くものですから」
からかうようなことを言うリュセット。しかしその声は優しい。
「人間ですもの。嫌になったことなんて一度や二度ではありませんわ」
「――そう」
リュセットの声は優しいけれど、はっきりとそう言われて、アンゼリカの心は沈む。
「でもお嬢様。わたしお勤めをやめたいとか、投げ出したいとか、そういうふうに思ったことはありませんわ」
「どうして? いっちゃなんだけど、わたしって無愛想だし、わがままだし、かんしゃくは起こすし――いいところなんて一つもないじゃない」
アンゼリカの言葉にリュセットが微笑む気配が伝わる。
「ふふ、確かにそうですわね。それでも――この方の手を決して離してはいけないと、そう思ったのです。わたしはお嬢様がもし結婚しても、修道院に入ることになっても、どこまででもついて行くつもりでおりましたわ。だって真っ暗な闇の中でひとりきりだなんて、あんまりかわいそうじゃありませんか」
「同情なんて――」
「かわいそうというのは、かわいい、いとおしいということなのですよ。わたしはそう思っておりますわ。きっと」
リュセットのその言葉はとても静かだった。少なくとも今この時において彼女の言葉に、嘘偽りはないのであろう。
「お茶を飲み終わったら街に降りましょう。治療は城下の魔術師ギルドで行うそうです。旦那様はお屋敷から動けませんが、奥様とクローディア様、エルクラッド様も立ち会われるとのことです」
「そう――」
アンゼリカはうつむいて、カップを手に取るとその香りを吸い込んだ。
「わたしは、皆に案じられていたのね。これまでそんなことにも気付いていなかった」
「今日、この日お気づきになられたではありませんか」
リュセットは優しい声でそう言った。
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