私はかかし

麦野 夕陽

1話完結

 私は、かかし。田んぼの真ん中で作物を狙う動物達を追い払う番人である。

 私は、かなり頑固で気難しい爺さんに作られた。

「これでカラスが来なくなるはずだ。おい、もしまたカラスに作物を食われるようなことがあったら、お前のようなかかしすぐにでも捨ててやるからな。」

 爺さんはそうぼやきながら、田んぼのど真ん中に私を立てた。

 その日から私は、田んぼに近寄る動物達に目を光らせた。主にカラス達との戦いだ。少しでも隙を見せれば、作物を食われてしまう。毎日睨み合いだった。いつもカラスの方が諦めてどこかへ飛び立っていくが、翌日にはこりずに同じ電柱にとまってこちらを睨み付けてくるのだ。

 カラスが田んぼの近くにいるうちは気を張っているが、カラスがどこかへ飛んでいき、他に作物を狙うやからもいないときは途端に暇な時間がおとずれる。

 そんなときは決まって田んぼの前の道を眺めた。むしろ眺めることしかできないのだが。

 腰を曲げた老人が亀のような歩みで通り過ぎ、薄汚れた軽トラックが濁点をつけた音をたてて通り過ぎ、滝のような汗を流しながら必死に自転車のペダルを踏む人が通り過ぎる。

 今日は高校生の男女が仲良く喋りながら歩いていた。恋人か、はたまた親友か、もしかしたら腐れ縁の幼なじみだったりするかもしれない。

 とても楽しそうだった。少し羨ましくも思えた。


 いつからだったか、朝と夕、いつも決まった時間にランドセルを背負った男の子が通るときいつもこちらを見つめてくることに気付いた。ランドセルに付けているのか、いつもリンリンと鈴の音を連れて歩いていた。

 見つめてくるといっても、カラスに見られたときのように緊張が走ることはなかった。むしろなんだか、小っ恥ずかしい気持ちになった。

 あまり人通りも多くない道。いつも一人で登下校しているようだった。

 一人で登下校となると、喋る相手もいない。あの子も暇なのだろう。自分と似たものを感じた。自分はかかしなのに。

 暇だったから周囲を眺めてかかしの私を見つけたのだろう。私の存在に気付かない人も大勢いるのだから。


 ある日、いつものように男の子が田んぼの前を通った。もちろんこちらをじっと見つめている。偶然そのとき田んぼに風が吹き抜けた。私は左右に揺れた。自分の意思で動いたわけではない。かかしだから。

 すると男の子の表情が輝き、周囲を少し見渡したあと、さりげなく手を振ってきた。あまり目立たないように、しかし私にはちゃんと見えるように手を振ったのだ。

 どうやら風で揺れた私が男の子に向かって手を振ったように見えたようだった。


 ふと気付いた。田んぼの主の爺さんは作物のために私を作った。あのカラスも作物を狙っているのであって私に興味があるわけではない。


 あの男の子は、私に関心があるようだった。それがなんだか嬉しいと思ってしまった。自分はかかしだと言うのに。田んぼを守るために作られただけだというのに。


 その日から男の子は私を見ると嬉しそうに手を振るようになった。私は手を振り返すことができないのがもどかしかった。


 毎日カラスと睨み合うことは変わらない。しかし、カラスが来なくなれば私は用無しになって撤去されるのだからこれで良いのだ。作物を食われてしまうことになればそれはそれで撤去されるため、気を抜くことはできないが。


 今日もいつものように男の子が通りかかった。男の子はにこにこしながら手を振ろうとしていた。しかしいつもと様子が違うことに私は気付いた。男の子の後ろを黒い車がゆっくりと尾けている。普通なら追い越す際に徐行するとしても、すぐに追い越していくはずだ。その車は追い越す様子もなく男の子の歩みに合わせてゆっくりと走っている。


 まもなく車が男の子のすぐ横に停車した。車の運転手が窓を開けて男の子に何か話しかけている。男の子がどこかを指差している。何を話しているかは聞こえないが道を尋ねているようだった。


 何か、何か、何だか胸がざわついた。カラスと睨み合っている時と同じくらい、もしかするとそれ以上に私に緊張が走っていた。


 その時気付いた。電柱にカラスがとまっている。カラスが接近していることに全く気がつかなかったのだ。自分は隙だらけだった。しかし、一瞬でも隙をみせれば作物を食い荒らすはずのカラスは電柱でじっとしていた。カラスも車と男の子の様子をじっと見つめている。


 作物を狙っているときは道を通る人間になど目もくれないのに。やはり──


「──おい、そこのカラス」

「⁉︎ なぁんだぁおめぇ⁉︎ 口が聞けたのかよ⁉︎」

 ただのかかし、ただの人形だと思っていたようだ。まあそれで正しいのだが。

「君だって話せているじゃないか。」

「……確かにそうだなぁ。もっとも、人間には聞こえないようだが。」

 カラスが車と男の子をちらりと見やって言う。

 男の子と車の運転手がまだ話している。道を尋ねるだけでそんなに時間がかかるだろうか。

 車の後部座席の窓で何かが動いていることに気付いた。窓が黒っぽく、よく見えないが確かに動いている。

「──取り引きしないか。」

 私が極めて冷静に言うと、カラスは車の方を見たまま答える。

「内容によるさ。」

 私はただのかかしだ。この田んぼを世話しているのは田んぼの主である爺さんだ。いつも作物の手入れをしているのを見てきた。作物をどうこうしていいのはあの爺さんだけだ。それは重々承知している。

 そもそも私は作物を守るために生まれてきたのだ。しかし、私はここから一歩たりとも動くことはできない。人間にはかかしの圧力など通用しない。

 私にはこの手段しか残っていなかった。

「あの子どもに何かあったら私の代わりに守ってほしい。」

「……ほぉ? もちろんタダでとは言わねぇな?」

「タダでやってくれるとは、はなから思っていない。」

 車への鋭い視線を外さずに、必死に、冷静に、言う。

「──あの子どもが無事に帰ることができたなら、私は今日一日、何も見ない。この田んぼを狙うものがいても、何も見ないのだから、追い払うこともない。……そういうことだ。」

 カラスは黙っていた。沈黙は肯定なのか、否定なのか。あの男の子に何も起きなければそれでいいのだ。

 その時、後部座席のドアが突然開き、車の中からのびた手が男の子の腕を乱暴に掴んだのが見えた。

 男の子が小さく声を上げるのと同時に私は叫んでいた。

「頼むっ──!」

 その叫びはその子どもを傷付けないでくれという懇願なのか、カラスに対してなのか、動けない自分自身の身体に対してなのかはわからなかった。


 私の叫びと同時に、カラスが電柱から急降下する。もはや残像しか見えないカラスはあっという間に車に急接近し、男の子を掴む手を鋭いくちばしで突き刺した。

 振り払われても何度も突き刺し、同時にカラスの大きい鳴き声で威嚇する。広げれば一メートルに及ぶ翼の音が、動けない私にまで聞こえるほど動かして。


 車の人間達は、あまり粘ることもなくあっさりと退散した。


 男の子はうずくまって泣いていた。一度にいろんなことが起こり、混乱しているようだった。

 カラスは車が完全に去ったことを確認すると、飛んできて私の頭にとまった。そのカラスの行動がなにを意味するのかは、わからなかった。


 私とカラスは田んぼの真ん中から男の子を見守った。男の子はしゃくり上げて泣きながらも、こちらを見ていた。


 しばらくすると男の子は落ち着いてきたようだった。涙を小さい手で拭いながらゆっくりと歩き出した。男の子の姿がもうすぐ見えなくなるところで、カラスは静かに飛び立った。男の子が歩いて行った方向へ。


 私は安堵すると同時に、自分が向かう近い未来を見据えていた。動揺もしていなかった。ただ、現実を受け入れる覚悟をしていた。


 程なくしてカラスが戻ってくると、子どもは無事に帰宅したことを告げられた。そばに不審な人間もいなかった、と。

 そうか、と小さく呟いて

「ありがとう。」

 自然と言葉が出てきた。

「取り引きなんだから礼はいらねぇぞ。」

 カラスは淡々と答える。

 そして私は目を閉じた。正確に言うと、私は目を閉じることができない。だから、田んぼが今どうなっているかは嫌でも見える。しかし、見えないことにした。見えていないことにした。何も考えないように、罪悪感に押し潰されそうになりながら。

 


 翌朝、田んぼの持ち主の爺さんがやってきた。爺さんは作物を食われ尽くした田んぼを見て絶句していた。しばらくたつと、爺さんの顔はみるみる赤くなっていった。

「お前を置いてから全然食われなくなったと思っていたのに! 何故いきなりこんなに荒らされたんだ!」

 爺さんが憤りながら私に近付いてくる。カラスにただの人形だとバレたか…、とぶつぶつぼやきながら。

「理由なんかどうでもいいんだ。お前さんがいても田んぼを荒らされるなら置く意味はない。」

 爺さんは私の足元を抱えて持ち上げる。粗雑に運ばれ、軽トラックの荷台に放り投げられる。

 わかっていたさ。仕方のないことだ。私は爺さんを裏切ったのだから。


 誰かがリンリンと鈴の音とともに走ってくる足音が聞こえる。大人ではない軽い足音だった。

「あ…あの…!」

 女の子なのか男の子なのかわからない声が聞こえる。どうやら子どものようだ。

「なんだ? 子どもと遊んでやる暇はないぞ。」

 爺さんがぶっきらぼうに答える。

「そっ、そのかかしさんどうするんですか?」

「用無しだから棄てるんだよ。」

 軽トラの荷台にうつ伏せ状態の私は、子どもがどういう表情をしているのかわからないが、息を呑む音は聞こえた。

 爺さんがガタガタと作業する音だけがしばらく響いた。「……あの! ちょっと待っててください!」 

 そう子どもが叫んで、走り去る音が聞こえる。少し爺さんの作業の音が止まり、そしてまたすぐにガタガタと再開する。


 五分程で子どもが息を切らしながら戻ってきた。

「これ……!」

 爺さんが手をとめる。

「なんだ? プチトマトか?」

 会話から察するに子どもがプチトマトを見せているようだ。

「プチトマトの作り方、学校で習ったから、家でもつくった! 最初は摘むのが早すぎてまだオレンジ色で酸っぱかったから、これは赤くなるまで我慢したの。毎日水あげて、毎日話しかけたよ。」

 爺さんは小声で「そうか。」と呟いた。

「これ、お爺さんにあげる。だから、そのかかしさん棄てないで!」

 爺さんは声色を変えずに言う。

「お前、そんなにこのかかしが気に入ってるのか?」

「うん!」

 おどおどしていたはずの子がはっきりと答える。

「……そのトマト、大事に育てたんだろう。こんな老いぼれに食わせていいのか?」

 勢いよく首を動かす音がした。おそらく、きっと、縦に。

 その後、黙ったままトマトを食べるような音がした。

「……うまい。」

「ほんとっ⁉︎」

 嬉しそうに跳びはねる音がする。お世辞を言うような爺さんではない。

「だが、もっと美味くなるはずだ。」

 跳びはねる音が止まる。

「またここに来たら、美味く育てるコツを教えてやる。このかかしも一緒だ。」

 そう言いながら爺さんが私を持ち上げる。やっと子どもの姿を見ることができた。いつも見る、男の子だ。

 初めて、間近でこの子の姿を見た。輝いて見えた。子は宝だと言うが、その通りだ。昨日の出来事で怪我もないようで安心する。


「行かなくていいのか?」

 爺さんがいつも通りぶっきらぼうに言うと

「はっ! 遅刻するっ!」

 そう言って慌てて走っていく。走りながら振り返り

「かかしさん! お爺さん! また来るね!」

 今まで見たなかで一番大きく手を振って去っていった。


   *   *   *


 それから毎日、男の子は田んぼで爺さんに農業を教えてもらうことになった。

 私は以前と変わらない場所からそれを見守る。


 農業を教わる最初の日、男の子はランドセルに付けていた鈴を外し、私に付けた。爺さんは止めたが、男の子は断固として譲らなかった。頑固なところが少し爺さんに似ている。


 ある日、男の子の農作業姿もさまになってきた頃、爺さんが尋ねた。

「なんで、あのかかしのことをそんなに気に入ってるんだ?」

 男の子は嬉しそうに微笑んで答える。

「近所にも学校にも友だちがいなくて、ひとりで登下校してたときに、見守っていてくれてる気がしたんだ。それに」

 男の子は私のほうを振り返ってにっこり笑って言う。

「助けてくれたもん」

 そのひとことに、分かってくれていたことに、身震いした。するはずがない。私は、かかしだから。しかしその時


 ────リンリン


 風も吹いていないのに、鈴がなったのだった。

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