一章 遥か彼方

その日は激しい雨だった。

温度も湿気も鬱陶しい。髪は右往左往に跳ね、服は好き放題に濡れ、嫌気が刺すようだった。


その日の夜に、彼女が死んだ。

愛しくて大好きでどうしたって死なせたくなかった、彼女が死んだ。


その場で涙は出なかった。とてつもなく悲しいのに、もうこれで苦しむだけの彼女を見なくて済むとも思った。最悪で最低だけれど。なんせ、出会った頃から心身共に病弱な人だった。


白く華奢な体が小さなベッドに横たわっていた。

ふわふわの長い茶髪が湿気で跳ねている。

死に顔でさえ、この上なく幸せそうな顔をしていた…と思う。

泣きじゃくる彼女の両親に少し頭を下げて、一足先に病室を出た。自動販売機の光を頼りに喫煙所まで歩く。パタパタと自分の重い足音が、人気のない暗い廊下に響く。

ふと今までの事を思い返しながら煙草に火をつけ、一息ついた。


彼女はずっと、"こんな身体なら生まれて来なければよかった"、"早く死んで楽になりたい"なんて泣き喚いて両親や看護師さん、僕の手を焼かせていた。

その上いたずら好きなかまってちゃんで、何日かお見舞いに行けず久しぶりに顔を出した時なんかは倒れるドッキリを掛けられて酷く怒ったっけ。

そんな彼女も体調が急変して緊急で入院するまでは、一緒に音楽をやったり旅行に行ったりしていた。僕の前ではよく笑う人だった。

たくさん心配も迷惑もかけられたけどそれすら嬉しかった。


雨がうるさい日、彼女、"叶多かなた"は静かにこの世から消えた。

僕には叶多以外何も無かった。趣味程度でやっていた音楽も彼女がいてこそのモノだった。

特徴的な笑い声も、それでいて綺麗な歌声も、ふわふわで良い香りのする髪も、本当だか嘘だか分からないけれど面白かった話も、何も、もう。

涙は出なかった。死んだ瞬間だけは。


煙草は味気なくて、すぐに消した。

両親に挨拶をして、この後の事を話さなければ。

葬儀や僕の家にある彼女の私物。これからの事。

これから、僕はどうすればいいのかすら分からない。


彼女の望みは叶っただろうか。

何一つ叶わなかった人生だと僕の胸の中で泣きながら掠れた声で漏らしていたのを思い出す。

彼女はあまり僕に好きだと、愛していると言わなかったけれど。

貴方がいたら落ち着くと。もし死に別れたら待っていると。

彼女から告げられた一言を、僕も反芻する。



「…遥か彼方で」

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