蹴りたい背中

1、

 前回、三島由紀夫賞最年少受賞「宇佐見 りん」氏の第2作目、第164回芥川賞受賞作『推し、燃ゆ』についての感想文を書いた。

『推し、燃ゆ』を読んで、芥川賞最年少受賞「綿矢 りさ」氏の『蹴りたい背中』を読んでみたくなり、手に取った。


 この『蹴りたい背中』は、『推し、燃ゆ』のように、若い女性が、当時の若者のリアルを描いた作品なんだと思う。

 しかし、作品中、携帯電話は出てこない。

 友人の「絹代」への連絡は「自宅の電話」へ。3人でモデルのライブに行く時の待ち合わせの際、「私」が30分遅刻した時も連絡手段はない。ずっとただ待っていた。

 これが、18年前の女子高生のリアル……たった18年間で、これほどまでに変化した女子高生のリアル。

 急激に移ってゆく、時代の変化を感じる作品となった。



2、

 思春期の、理屈では表現しきれない感情がそこにはあった。

 理解して、納得したい派の私にとっては、理解し難い描写もあった。

 「共感」という意味では、『推し、燃ゆ』の方が、私としてはすっとはいってくるものがあった。


 「私」が気になる男子生徒「にな川」は、モデルの熱狂的なファンだ。ファンと呼ぶには、度を越しているほどに。

 この本が出版された2003年当時、まだ「推し」という言葉は存在しなかったのだろう。

 しかし、『推し、燃ゆ』と同じように、手の届かない世界にいる人間に、熱狂的に依存している高校生の姿を描いている。類似するものを感じた。

 そして、ある時、「その人」との「遠さ」をまざまざと感じる。



 好意を抱く男子生徒に対する「背中を蹴りたい」という感情だったり、警備員に「もっと叱られればいい、もっとみじめになればいい」という加虐敵な感情。思春期の、好きな人に対する加虐的な思考。

 一方で、その時の表情を見ていた友人からは「ものすごく哀しそうだった」と言われる。


「私の表情は私の知らないうちに、私の知らない気持ちを映し出している」

 思春期特有の複雑な感情を表現している。



 そして、全編を通じて、嫌な人が出てこないというところも興味深かった。

 多くの物語で、嫌な気分になる場面とか、辛い思いになる場面とかがあると思う。

 しかし、絹代も絹代のグループのメンバーも、そしてにな川も、「私」を取り巻く人たちは、懐の大きな良くできた人間に描かれている。

 尖っていて、少し横暴な「私」に対して、登場人物たちが、とても寛容に思える。



3、

 最後に、私が気に入った表現をひとつ紹介したい。


「私を見ているようで見ていない彼の目は、生気がごっそり抜け落ちていた。人間に命の電気が流れていると考えるとして、生き生きしている人の瞳ほど煌々と輝いているなら、にな川の瞳は完全に停電していた。」


 私はある時から、人の目を見れば、その人が精神的にどん底を経験した人間かが分かるようになった。

 瞳に深みがあるというか、暗くて静かな、ひきこまれるような静かな灯火。


 私が感じる、そんな目を表現しているようにも感じたが、でも違う。

 生きる希望のない、死んだ目。光をともさない目。

 そんな目も、わたしはまた知っている。




※学生の読書感想文に毛が生えたような、大人の読書感想文である。

 間違った箇所がある場合は、暖かく指摘していただけるとありがたい。


綿矢りさ(2003)『蹴りたい背中』,河出書房新社

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