俺を拾った吸血鬼がオカルト否定派だった件について

アオイ・M・M

Cut.00 〝波打ち際で月を見上げて〟


自分のそれと同じ意見を口にするまで。

「もっとよく考えてみろ」と繰り返すだけで具体的な指示を出さない上司。


夢と希望に満ち溢れた大言壮語を吐くだけで何1つ責任を取らない最高責任者。


在籍期間が長いだけで仕事はできず重箱の隅を突く事だけは異常に上手いお局。


上司の機嫌を取るだけでのらりくらりと仕事を押し付け定時で帰る同僚。



――世界は最悪クソに満ちている。



世の多くの社畜なかまたちはきっと、俺と同じような気分で生きているのだろう。



それでもまだ、自分には目に入れても痛くない妹がいるだけ幸福なのだろう、か。


実際に目に入れてみたらとてもじゃないが痛くないとは言えなかったけれど。

あれは何歳頃だったろうか、取っ組み合いの喧嘩をして指で目頭を抉られた。



以来、瞬きをする時かすかに左目の端が痙攣するのは正直気になり続けている。


あの時怒られたのは自分だけだった。

俺は兄だから仕方ないが。


就職が不利になるからと高校は出して貰ったが大学には行けなかった。

俺は兄だから仕方ない。


給料の振込先は両親の口座で、手元に戻って来る額は微々たるもの。

大半は妹の学費とお小遣いに変わる。

俺は、仕方ない。





仕方ないんだ。





けれど、疲れた。


帰宅するために満員電車に詰められて揺れる。

自宅の最寄り駅で降り損ねたのは疲労から意識が飛んでいたから。


ちゃんと目が覚めたから俺はきっと運がいいのだろう。

良いのだろうか。


目覚めない方がいっそ、




――その先を考える事すら億劫で。


終着駅は海の前、これ幸いとばかりに改札をくぐり、夜道を歩く。

どこをどう歩いたのかは覚えていない。


無人の砂浜に出て波打ち際を歩く。

足跡を波が消していく、濡れた靴と靴下を脱ぎ捨て投げ捨てる。


気分がよかった。

足が濡れて冷たい、冬の海は海水浴には向かないけれど。


それでも気分がよかった。

あの家に自分の帰りを待つ人間はいない。

夕食は用意されていないし、残業続きで帰る時間もいつも深夜だ。


機器のトラブルでたまたま今日は残業が無かっただけ。

何日ぶりだろう、何カ月ぶり? それとも何年か。


どうでもいいか。


俺がこうやって波打ち際を歩いても、誰も責める人間はいない。

気分がいい。



ゆらりゆらりと砂浜を歩く。

腕を振って、足を揺らして身体を回転まわす

踊るように、いや、俺はその瞬間、確かに踊っていた。


首を傾ける。

赤い、とてもきれいな満月が見える。



いい気分。



踊るまわる


踊るまわる


踊るまわる


踊るまわる


首を傾けて満月に接吻くちづけて。




足をもつれさせて転ぶまで、とてもいい気分で。


踊るまわる

まわった。

まわり続けた。




転んで、砂まみれになって大の字で。

空を、赤い満月かのじょを見上げて。



言葉にならない感情が胸に満ちる。


痛くはない。


涙は出ない。


けれど、——つらかった。


ただただ辛くて。

理由がわからなくて。

どうしてなのかと思っても空転するまわるばかりの思考きもち



嗚呼、ああ、きっと。

――俺は壊れてしまったんだ。




赤い月が欠ける。

視界の端を埋めたのは誰かの白い頬。


大の字に転がった俺を覗き込んでいたのは少女。


紅い月光を映し出して、限りなく純白に近い金髪ホワイトブロンドの。


それはとても美しい、異国の少女だった。




『――泣いてるの?』



囁くような声も美しく、俺は慌てて起き上がって目元を拭った。

涙なんて流れていなくて。

代わりにまとわりついた砂がぽろぽろとこぼれて落ちる。


砂の上に胡坐あぐらをかいて、なるべく笑顔に見えるように表情かおを作る。



心配ないよ、大丈夫、こんな時間に一人は危ない、お父さんとお母さんはどこ?


口から洩れるはずだった美辞麗句きれいごとは呼気に解けた。



少女かのじょが俺の首に両手を回し、抱き締めてくれたから。

背中を、小さな掌が何度も上下する。


言葉はない、幼子をあやすようにただただその手は優しく。

いたわりと愛だけに満ちていた。


大の大人か小さい子供にされる事じゃない。

なのに、振りほどく事ができない。


胸の奥から零れ落ちそうになる汚辱に塗れた言葉を必死に押しとどめた。

違う、言うべき言葉はそんな言葉ではなくて、もっと。




――今、楽にしてあげる。



言葉の意味を理解する前に。


首筋に熱、熱く。

冷たい刃を刺しこまれたような、凍えるような甘美な痛み。


唇が、喉が空気を求めて開くのに何も行き来せず。


ねつが奪われていくのがわかる。


指先から腕が、腕から肩が。

足先から、脚から、太腿から。

心臓おれのなかから。


体温いのちを失って凍えていくのがわかる。


世界が回転するおどる


回転するおどる


回転するおどる


回転するおどる



気付けばまた砂浜に大の字に転がって。

あの赤い満月を眺めている。


身体は動かない


ねつはとっくに枯れ果てて。


いのちはとっくに擦り切れている。



視界の端で、彼女が踊るまわるのが見えた。


長い髪がドレスの裾のように広がって、小さな素足が砂を踏み鳴らす。


唇は血に濡れて。


鋭い犬歯きばが月光に濡れひかる。



赤い赤い満月そらの下。


俺という人間はその夜、死んだ。


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