第三話 救世主!?
蛍の足は早かった。
背負われた千影の耳に風がびゅーびゅーと擦れた。途中で、何度も高い塀の上へ登ったり降りたり、草の青臭いにおいが広がる草原を走ったり、砂利道を音も立てずに通り抜けたりした。その走る力は一瞬たりとも衰えることなく、気がつけば、千影の目の前には日中目にしたあの大木の黒い影がそそり立っていた。
大木の目の前に着いた蛍は、千影を風呂敷で包んだ荷物のように下へ降ろすと、さきほど千影が吹いたものと同じ銀の笛を懐から取り出して吹いた。ヒュ―という笛の音は、夜更けの森の静寂の中へ消えて行った。
千影はアジトがある大木の上を見た。だが、森は深く、春の月明かりは、大木の太い根が張る地面にほとんど届かない。千影が神経を張りつめたように、大木の上を見ていると、どこかでフクロウが「ホウ」と鳴いた。すると、とつぜん千影の頭上に真っ白い物が落ちてきたのだ。
それに驚いた千影は、またひっくり返った。
「な、なんだよ!それ!う、浮いてる!空中に浮いてる!」
千影がそう騒ぐと、蛍は千影の口を押さえて、また口元に人差し指を立てた。
「ったく、お前は!忍者としての自覚が足りん!……あぁ、いや、お前はまだ忍者ではなかったな。とにかく、お前はいちいち騒ぎ過ぎだ。それにな、こんなもので驚くな。これは、ただの糸電話だ。ほら、ちゃんと見てみろ」
そう言われて、千影は、蛍が手に持つ白い物体をよく見てみると、それは、上から長い糸で吊るされた、ただの紙コップであった。
「これから、この糸電話を使って合い言葉を言う。まぁ、お前は黙って聞いていろ」
千影と蛍は紙コップに耳をそばだてた。すると、なにやら、コップの底から若い男の凍てつくような冷たい声が聞こえてきた。
“シキソクゼクウ”
すると、蛍が紙コップに口をあてて、“ショギョウジッソウ”と言った。すると、頭上から縄梯子が降りてきた。
「さぁ、千影。先にお前が登れ。上で湊さんが待っているぞ」
そう言われると、千影は少し緊張した面持ちで、はしごを一段一段登っていった。アジトの上まで着くと、あの小さな四角い扉は完全に閉まっており、真っ暗であった。千影のあとに登ってきた蛍は、素早くはしごを巻上げて回収すると、扉を三回ノックした。すると、また、中から先ほどの男の声が聞こえてきた。
“玄関開けたら?”
すると、蛍はすかさず“山田のごはん”と答えた。
(なんじゃそりゃ……)
千影が呆れた顔で蛍を見ていると、小さな扉がゆっくりと開き、中からオレンジ色の明りが漏れだした。
「さぁ、お前から入れ」
「う、うん……」
千影はごくんと一回、つばを飲み込んだ。
「あ、あの……」
千影はおそるおそる頭だけ部屋の中へ入れた。部屋の中には、蛍とまったく同じ格好をした覆面黒装束の忍者が三人いた。
一人は扉のすぐ横に立膝をついて座ったまま、大きな真っ黒い瞳でまばたき一つせず、品定めをするように千影を見ている。もう一人は千影には目もくれず、ちゃぶ台の横で腹ばいになりながら、漫画本を片手にポテチの袋に手を突っ込んでいる。そして、最後の一人は見るからに大柄な体で、ちゃぶ台の奥にどしりと座り、腕を組んで構えていた。
「お、おじゃまします」
慌てた千影は、昼に起った出来事をすっかり忘れていた。そして、また、尻が入り口に詰まった。
「うーん!ぬ、抜けない!」
外から蛍も千影の尻を押すが、千影の身体はびくともしない。
「手伝うか?」
千影が顔を真っ赤にして踏ん張っていると、扉のすぐ横に立てひざをついていた小柄な忍者がボソリと言った。
「あ、あぁ、ありがとう。お願いします……」
小柄な忍者が千影の両腕を思い切りひっぱり、外からは蛍が尻を全力で押した結果、ようやく、千影は中へ入ることができた。
この様子を、部屋の奥に座っている忍者はただ黙ったままにこにこしながら眺めており、漫画に夢中な忍者は、あいかわらず漫画本しか見ていなかった。
「まったく……これは相当な減量メニューを組まないといけないな」
蛍はそう言いながら、すばやく中へ入って扉を閉めた。そして、おろおろと落ち着かない様子の千影をちゃぶ台の手前に座らせると、その横に蛍も座った。
二人の目の前では、覆面の大男が腕を組んで微笑んでいる。
その男は、確かに優しく目を細めているのだが、どこか付け入るすきがない、たやすく他人を寄せつけないようなオーラを放っていた。誰も一言も発しない。
この異様な空気の中、千影は緊張で心臓が口から出てきてしまいそうだった。
「ところで、蛍」
はじめに話の口火を切ったのは、目の前の大男の忍びであった。
「はい、何でしょうか?」
蛍は手前に拳をついて返事をした。すると、大男の柔らかな目元はとつぜん、キリッと引き締まった。この変化に、千影も思わず前のめりになった。
「このデブはいったい誰だ?」
「はぁ!?」
大男の質問に、異様に張りつめた空気は一瞬にして緩んだ。
「湊さん、あんた、また俺の話聞いてなかったでしょう!それに、デブって言い方はやめてください。コイツ、こう見えてけっこう繊細なんです」
蛍がそう言うと、大男は申し訳なさそうに頭を掻きながら千影に頭を下げた。
「それで、コイツはいったい……」
大男がそう言ったとたん、蛍がその場に勢いよく立ち上がり、両手を千影に差し向けた。
「この者こそ、この世の救世主、と、なる予定の、藤林千影でございます!」
「おぉ!そうかそうか!お前が、あの藤林千影か!」
大男はそう言うと、アジトが揺れるほど跳び上がって立ち上がった。
この男、かなりデカイ。身長はざっと見てもゆうに二メートルは越している。頭が天井につかえて窮屈そうだ。
大男の忍びは少し屈みながら千影の元までドシンドシンと歩いてくると、大きな掌を千影に差し出した。
「俺の名は
湊の皮の厚い大きな手は、お肉がたっぷりついた千影の丸い手をすっぽり包み込んだ。
「よ、よろしくお願いします……」
湊の少し後ろには、先ほどの冷たい態度の忍者が立膝をついたまま顔を伏せていたが、湊が挨拶をしろと目配せをしたので、仕方がないというふうに立ち上がると、千影の目の前に立った。背はとても小さくて、まるで小学生のように小柄な男であった。
「僕は山田
そうボソリと言ったきり沈黙が流れたので、蛍は気まずい空気を変えるような明るい口調で言った。
「こいつはみんなからハルと呼ばれている。だから、お前もハルって呼んでやれ」
「う、うん。よろしく、ハルくん」
千影は助けを求めるように何度も蛍に視線を送りつつ、ハルに手を差し出したが、ハルは不機嫌そうにぷいとそっぽを向いてしまった。
(感じ悪っ!俺、こいつに何かしたっけ?)
さらに、千影が気まずいやりとりをしている傍らには、千影の存在にまったく興味を持たない忍者がいた。それは、さきほどからずっと漫画本に夢中になっている忍者だ。
千影はハルに手を差し出したまま、横目でちらちらとこの忍者を見た。それに気付いた蛍は、少し咳払いをすると、その忍者から漫画本を取り上げた。
「あぁ!蛍!てめぇ!何すんだよ!」
(え?女の子?)
その忍者の声は、汚い言葉遣いとは裏腹に、とてもかわいらしく柔らかいものであった。しかも、千影はその声をどこかで聞いたことのあるような気がした。
「まったく、緊張感のないやつめ。お前も早く千影に自己紹介をしろ」
蛍がそう言うと、その忍者の首根っこをつかんで無理やり立ち上がらせた。女忍者は蛍の手を邪険に振り払うと、殺気をはらんだ目で千影を睨みつけた。
「はっ、誰だよこのデブ」
女忍者がそう言ったとたん、蛍は女忍者の頭を小突いた。
「こら、言葉には気をつけろ!こいつは、あの藤林千影だ」
蛍はこう言ったが、女忍者は千影を小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「だからどうした!たとえこいつが藤林千影だとしても、こんな何のセンスも能力もなさそうなただのデブ、いったい何ができるってんだ!アタシ、こんなデブなんかに名は明かさねぇからな!」
女忍者がこう言うと、蛍は額を押さえて大きなため息をつき、湊は天を仰いで大笑いをして、ハルはつまらなそうに自分の指先の爪を見ていた。
てっきり、千影は部員たちから大歓迎されるものだと思っていた。だが、現実は違ったようだ。
怒りと困惑と初対面の女の子にさんざんなことを言われたショックで、千影の心と脳みそは崩れてしまいそうなほど大きく揺れた。
「すまんな、千影。どうかこいつの無礼を許してやってくれ」
ひとしきり笑った湊は涙を拭いながら言った。
「こいつの名は
「えぇ。この体型のままだと、村雨丸を扱うどころか、忍者にもなれませんね」
「うーん、困ったなぁ。時間はあまりないのだけれどな……」
湊と蛍が深刻そうに話している様子を、千影は痛めた心を擦りながら聞いていた。
(おいおい、ちょいとお二人とも待っておくれよ!いったい何の話をしているんだ?俺抜きで中二病ワールドのシナリオを勝手に進めないでくれよ!だいたい俺、まだ忍者部に入るって言ってないんだけど……)
「よし!決めたぞ!」
こんな千影の思いなどよそに、湊は大きな声でそう言った。
「千影、お前はこれから、忍術を学びながらダイエットしろ!なお、忍術の教導およびダイエットの助っ人は、蛍に任せることにする」
「了解した」
蛍は何一つためらうことなく引き受けたが、その横で千影はうろたえた。
(な、何勝手に決めてんだよ!俺、まだ入部さえしていないのに!)
「それから、千影」
湊に名前を呼ばれた千影は、木製の兵隊玩具のように固く姿勢を正した。
「はい!」
「とりあえず、お前は盆が明けるまでにそのたるみきった身体を鍛え上げ、なおかつ、基本的な忍術を会得すること。本当の忍務につくのはそれからだ。
忍びの鍛錬は、なまやさしいものではない。途中で挫折しそうになったり、投げ出したくなったりするときもあると思う。
だが、いいか千影。この鍛錬は、身体を鍛えるだけのものではない。お前自身、お前の心も鍛えるための鍛錬なのだ。だから、けっして、あきらめたり、逃げ出したりしてはならない。もしも、途中で逃げてしまったら、お前自身をあきらめ、逃げ出したことになる。つまり、それ以上の成長や進化はないということだ。だから、この先どんなことがあっても最後までやり遂げるんだ。わかったな?」
最後の言葉を言った湊の目に優しさはなかった。この湊の目を見た千影はすっかりびびってしまい、「はい!頑張ります!」と、ふたつ返事をしてしまった。
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