第3話 宿の一幕①

――考えてみれば、それはある意味当然の事だと言えるのかもしれない。


現代の地球において、例えばスマートフォンを使えない人間はいるだろうか。老人や赤ちゃんといった人を除けば、それを使えない人間など、ほとんどいないだろう。例え、スマートフォンの機能を最大限引き出せていなくとも、通話やメールと言った基本的な機能なら、誰でも労せず使う事が出来るだろう。


ただ、その機能がどういう仕組みで動いているのか、知っている人はごく少数だ。スマートフォンだけでなく、ライター、飛行機、インターネット――今の人類が当然のように利用している便利な道具や機械の殆どの仕組みを、人類は大して理解せずに使っているのだ。


最も、それは別に何ら恥じることでは無く、使う側が仕組みを理解せずとも使えるようにデザインするのは、寧ろ競争社会において当然の事だと言えるのだが――しかし、。作る側は、作った物の仕組みを完全に理解している必要がある。そうでなくては物は作れないし、作る意味も無い。そしてそれは――魔法も同じ事である。


魔法を行使する側は、その仕組みを理解していなくとも、コツや感覚を掴めば魔法を使う事が出来るが、魔法を生み出す側はそうは行かない。魔法によって物体に力を加えたいのなら、力について理解が必要で、現象を発生させたいのなら、現象についての理解が必要で――法則を書き換えたいのなら、法則についての理解が必要になる。


そういった意味では、魔法は科学と対の存在などでは無く――科学とは、魔法の一部とさえ言えるのだ。



*   *   *



「ど、どうして……傷が無いんですか?」

「それは……あまり聞かないでくれると助かるな……はは。まあ、ちょっと訳ありでね。とにかく、この通り、何ともないから大丈夫だよ」


男はぎこちなく笑った。その回答や表情は、ニアにとって納得感のあるものでは無かったが、それでも助けてもらった手前、これ以上の追及を彼女が行う事は無かった。


「わ、分かりました。あの……なら、せめてお名前だけでも……教えていただけないでしょうか?今は難しいですけど、いつかお礼をしたいんです」


おどおどと、縮こまりながらニアが聞いた。


「それは……楽しみだね。そうだね……俺の名前は――龍一って言うんだ。まあ、長いし、皆は龍って呼んでるけど、好きなように呼んでくれたらいい」

「リュウさん……。改めて、助けていただいてありがとうございました。このご恩は必ず忘れません。いつか、何らかの形で返したいと思います」


ニアは丁寧に腰を折って、深々と頭を下げた。


「別に、そこまでの事じゃないよ。そうだ、折角だし、君の名前も聞いていいかな」


と言って、龍一と名乗った男――佐藤は少女に微笑む。最も、やはりその笑顔は何処かぎこちなく、はたから見れば危ない人間に見えただろう。ただ、その事を少女が気にすることは無く、少女も佐藤の方に微笑んで、口を開こうとした。


「私の名前は――」


その時だった。


「サトウ君!」


その声に、背の高い男――佐藤は、酷く動揺した。佐藤は慌てて周囲を見回す。周りに誰もいない事を確認してから、深いため息を吐いて、胸を撫で下ろす。


「サトウ君!中々帰ってこないから心配したよ~」


その声の主はシルワだった。彼女は早足で佐藤に駆け寄った。


「……シルワさん、その事は申し訳ないと思いますけど、その名前は呼んじゃダメって言われたじゃないですか」


佐藤は振り返って、自分を呼んだ声の主に呆れた声で返した。


「あ、ご、ごめん。ついうっかり。慣れなくて……えっと、リュウ君……だっけ。うー……言いにくいし、なんかムズムズする……」

「そんな事言われても……まあ、周りに人がいない状況ならいいですけど、今みたいに人がいる状況ならなるべく避けてくださいよ?」


シルワはポカンとした表情を浮かべた。


「人……?誰もいないと思うけど……」

「え、さっきここに――あれ?」


佐藤が振り返って、元の羽の付いた少女がいた方を見てみるも――そこに居たはずに彼女の姿は消え、そこには薄暗い路地裏の、重たい空気しか残っていなかった。



*   *   *



佐藤は宿の一室にいた。あの後、結局少女の姿を見つけることは出来ず、半ば不本意な形であったが佐藤は探すことを諦め、アール達と合流して宿で一度休憩することにした。彼らが借りた部屋は、佐藤達がレグムを訪れた時に止まった宿と特に大差は無く、簡素ながらしっかりと手入れの行き届いた、清潔な部屋だった。その部屋の中で、佐藤は紙とペンを武器に、一冊の本と格闘していた。勝敗の行方は火を見るよりも明らかなほど、佐藤の劣勢(本人がそう感じているだけだで、勝敗が存在するような事ではないのだが)であった。


(読めば読むほど……訳が分からねえ。重力って時点で嫌な予感はしてたけど、やっぱ超大統一理論だよな。現代の天才たちが解けてない難問を、俺が理解できる訳無いだろ)


重力――我々が日頃からはっきりと体験している力の一つである。我々が体重計の前で一喜一憂したり、地球に留まっていられるのは、この力のおかげであるのだが、実はこの力、現在の科学では出所がよく分かっていないのである。そういう力がある事も、強さも分かっているのだが、どうやって発生しているのか、仮説はあれど人類は正確な答えを出せてはいない。


(しかしこれ……ひとつ気になるのが、仮にこの本に書いてある事がすべて正しいとして、著者はどうやって自分の理論を確かめたんだろう)


実のところ――人類は重力について、数学的には完璧とも言える理論を完成させている。ただし、一つの問題点として、この理論を確かめる方法を人類は持ち合わせていないのである。それは別に難しい事では無く、単純な話、その理論を確かめるには膨大な量のエネルギーが必要になるのだが、それが人類には到底用意できない程の量なのである。


(それを用意出来たとするなら、一体どんな方法なんだろうな……。あれだけエネルギー効率の良い魔法なら、もしかしたら行けるのかもしれないけど、それだけの量となると周りの影響が計り知れないし……。駄目だ、一度休憩しないと頭がおかしくなる……。まあ、やっぱりこの世界と元の世界では、物理法則は一緒って事が分かっただけでも、収穫にはなったか)


佐藤は大きくため息を吐いて、半ば投げるようにペンを机に置いた。その時、彼のいた部屋のドアから、ノック音が数回鳴った。


「リュウ、入るぞ」

「どうぞ」


佐藤が半ば投げやりの返事をすると、部屋のドアがゆっくりと開いた。そこに立っていたのはアールだった。巨大な鎧の男は頭をぶつけないように、屈みながらドアをくぐって部屋の中へと入った。


「ん、取り込み中だったか?」


アールが佐藤が向かっている机の上を見て言った。そこには大量の書類と、一冊の本が広げてあった。書類には一枚一枚に大量の記号と日本語が書かれていた。


「ああ、いえ。そろそろ休憩しようと思っていたので、ちょうどよかったです」


佐藤は本を閉じて、机の上の書類を纏め始めた。


「悪いな。翻訳作業は順調なのか?」

「まあ、順調と言えば順調ですけど、進んでいないと言えば進んでいないとも言えるかもしれないですね」


佐藤は机の上の本をチラリと見て、大きなため息を吐いた。


「どういう意味だ?」

「ここに書いてある事が、さっぱり分からないんですよ。現代の科学を、二歩も三歩も先へ行くような行為ですよ……。いち大学生の俺が解けるような代物じゃないんです。端的に言って」


と言って、佐藤は机に突っ伏して頭を抱えた。


「じゃあ、その魔法を使う事は不可能って事か?」

「いえ、使うだけなら、多分俺なら大丈夫だと思います。魔力量とか、そういった問題はあると思いますけど、要はこれ、重力子に魔力で働きかけて、その性質を歪めるんだと思います。それの認識さえできれば、問題は無いかと。理解してなくても、認識さえできれば、問題ないんだと思います……多分」

「……悪いが、お前が何を言っているのか俺には分らん」

「大丈夫です。俺も自分で何言ってるのか分かってないんで……まあ、マギサさんにも意見を仰いで、自分なりに試行錯誤してみます。ところで、どうして俺の部屋に?」

「ああ、一応、さっき言ってた話を聞いておこうと思ってな。問題は無いと思うが、念のためにな」


と言って、アールは床を軋ませながらベッドに腰かけた。佐藤は体の向きを変えて、椅子に逆向きになるように座って、再び話し始めた。



「……とまあ、そんなところですかね」

「……助けたのが妖精族と言うのが少し気になるが……子どもならまあ、いいか」


組んだ腕から金属音を発生させながら、アールは言った。


「一つ、聞いていいですか?」

「ん、なんだ?」

「その女の子を襲った連中……多分、人間だと思うんですけど、何というか……その……」

「まるで、自分達が悪い事をしているって自覚が無いようだった。とでも言いたいか?」


アールが佐藤の言葉の先を読んで言った。佐藤は、首を縦に振った。


「……はい。何というか、すんなりあの子を解放してはくれましたけど、心の奥底では、自分達が正しいと信じて疑わないような……。自分達が絶対に正しいと信じているから、俺の考えを受け入れた……いえ、って感じでした。……俺はこの世界について知らない事だらけですから、今自分が思っている感情が絶対に正しい訳ではないかもしれない……。でも、率直に言って、異常だと思うんです。あんな風に、女の子をまるでモノみたいに……」

「だから、その判断をする為に、何があったのか知りたい……って所か?」


佐藤は頷く。アールはその直後、暫くの間ぴったりと固まって、動かなくなった。何処か一点をずっと見続けているようで、何も見ていないようでもあった。


「……そうだな。俺も、お前は間違っていないと思うよ。けど結局、俺もそう思うってだけだ。何が正しいかなんて、俺に答えを出す事なんかできない。だから、俺が知っている事実だけを、お前に伝える。それでお前がどう結論を出したとしても、俺は何も言わない」


暫くして、兜の僅から隙間からそんな声が漏れた。いつもの陽気な声とは打って変わった、重々しい口上だった。


「……聞きたいです。聞かせて下さい。この世界で何があったのかを」

「分かった。いいぜ」


鎧の男は、またいつもの口調に戻って、話し始めた。

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