見えない心

@Lothar

見えない心

 私の親友、中川ユイは目が見えない。しかも、足も動かない。

 所謂、下半身不随と全盲だ。

 今の時代、どちらか片方だけなら一人でも生きていくことができると思う。けれど、両方併せ持ったケースなんて、とっても珍しいんじゃないかな。

 そんな状態だからユイはいつも車椅子で移動する。誰かに押してもらわなきゃどこかに行くことも出来ない。

 ユイは一人じゃ歩くこともままならないし、生きていくことも不可能だと思う。

 仕事もきっと出来ないだろうし、国からの手厚い保護を受けて生き続けることしかできない。

 もし私がユイと同じようになってしまったら、人生に絶望して自死を選ぶだろう。でも彼女はそうしない。

 理由は怖くて聞いたことがないけれど、私にとってはユイが自殺を選ばないでいてくれたことは本当に嬉しいことだ。

 ユイは私にとって唯一にして最大の親友だ。彼女のおかげで今も私がいる。


 ――ユイは、生まれた時から障害者なわけではない。

 私はユイと小学三年生の頃に仲良くなった。そのころのユイは昼休みになると運動場に飛び出していき、終わりの鐘が鳴るギリギリまで走り回って、汗だくで教室に帰ってくる少女だった。

 私と違って沢山の友人に囲まれていたし、いつもクラスの中心だった。

 元気で活発で、子どもとしての正しい姿を体現したかのような少女。私はそんなユイに憧れていた。引っ込み思案で人見知りな私にとっては、誰とでも明るく接することできるユイはとても眩しかった。

 しかし唯一ユイの欠点をあげるならば、誰にでも平等に接したことだ。

 彼女は人を選ばず、誰にでも話しかけて仲良くなった。その活発さと明るさを生かして、誰の心でも開いた。

 私もその例に漏れず、ユイの明るさマジックで彼女とだけは話すようになった。

 そう、彼女とだけ。小学生の頃の私は、教室でユイとだけ話をした。

 他の誰とも会話を交わさなかった。ただ一人ユイとだけ話した。

 ここまで話したら察する人もいるかもしれないけど、私はいじめられていた。……と言っても小学校低学年のいじめなので、そんなにひどいものではない。

 仲間外れにされたり、体育のドッヂボールで優先的に狙われたり、そんな些細なことだ。

 それでも、あの頃の私にはとても辛かった。学校で誰も私に優しくしてくれないのは、幼い私にはわかりやすい地獄だった。

 そんな環境で唯一私に優しくしてくれたのがユイだった。彼女は私にとって「光」で、他の何にも変えることができない相手だった。

 だから私は、ユイに依存するしかなかった。

 ユイと仲良くなった私は出来るだけユイと一緒にいるように努めた。学校にいるときは、ユイの隣にいようと努力した。

 ユイと一緒にいるときは、救いのない暗闇に光が差したようだった。ユイがいない時は耳をふさいで何も聞かないようにした。

 そうやってユイを周りとの境界にすることが、私の唯一の自己防衛策だった。

 そうしている時だけが、居心地がよかった。


 でも、そんな依存がいつまでも続くわけがない。

 最初に反応を変え始めたのは、ユイ自身ではなく、その周りだった。


「あいつ最近さー、ユイにくっついてばっかで邪魔だよねー」

「そうそう、うちらはユイと遊びたいのにいつもくっついてきてさー。うちはあいつ嫌いだなー」

「わかるー、なんかなよなよしてユイ以外には目もくれないし……私たちのこと嫌いなら遊びに来ないで欲しいよねー」


 とある日の昼休みに、聞こえたそんな会話。

 きっと、私に聞こえるように話したのだろう。でも、そのころの私の耳には届かなかった。

 ユイ以外からの声をシャットアウトしていた私は、彼女らの声に無視を決め込んだ。かぼちゃがなんか喋ってるよ、程度にしか感じなかった。

 私が無視を決め込んでいたせいか、彼女らの声はどんどん大きくなっていった。

 最初は私にだけ聞こえるように言っていたことが、次第にユイにも聞こえるようになっていった。

 陰口だったものは、いつしか大声の主張に変わった。


「ねぇユリちゃん。もう遊びに来るのやめてくれる?私はユイちゃんと遊びたいの。あなたとは遊びたくないの」

「帰れよ。邪魔なんだよね」


 そんなことをユイの居る前で堂々と言われた。

 いつもなら無視していた暴言も、ユイが一緒にいる時では聞くほかない。

 それに例え私が無視していたとしても、ユイがそれを無視できるわけがなかった。


「アイちゃん、マヤちゃん。それはちょっと言い過ぎなんじゃないかな?ユリちゃんはちょっとシャイなだけだよ。それを『邪魔』って言うのはヒドイと思う。ユリちゃんに謝って」


 私に対して強気に出られる彼女らでも、ユイには頭があがらない。

 彼女らは反論しようとした口をすんでのところで抑えて、嫌々ながらも私に頭を下げた。

 この時の私はとても誇らしかったのを覚えている。私がすごいわけじゃないのに「どーだ!私の親友はすごいだろう!」と内心では思っていた。

 きっとそれが顔にも出ていたのだと思う。

 顔をあげた彼女は、私を睨みつけ、


「笑ってんじゃねぇよ、気持ち悪い」


 とユイには聞こえないように呟いた。

 そんなものを気にしない程に、私は気持ちよかったけれど。

 ここで少しでも反省すればよかったのに、私は思いあがった。ユイの隣にいつまでもいられると、私は勘違いしていた。


 それは四年生の夏休みのことだった。

 いつもなら大人数で遊ぶことを望むユイが「二人で遊ぼう」と伏し目がちに言ってきたのだ。

 幼い私は何も疑わずにユイと二人で遊べることを喜んだ。

 やっぱりユイちゃんの一番は私だ!ユイちゃんも私のことを一番の親友だと思ってくれているんだ!と無邪気に歓喜した。

 燦燦と照り付ける太陽が肌を刺す、熱線で息苦しくなるようなアスファルトの駐車場。普段から活発なユイは、よくここに皆を集めて遊んでいた。

 いつもたくさんの友達がいる場所に私とユイの二人きり。

 普段ならユイのコミュニティの端っこにいることを思い知らさせるような、そんな居心地の悪い場所だったのに、今の私にはオアシスのようだった。

 ユイが私を選んでくれた幸せを私は噛みしめた。

 でも、現実は私が思うほど甘くはない。


「ねぇユリちゃん。本当に悪いとおもってるんだけど……これからは私と遊ぶのやめてくれないかな?」


 ユイからそういわれた時、私は自分の浮かれていた感情がすべて反転するのを感じた。

 小学生たちの小さな妬み。

 でもそれは、確実に天真爛漫で曇りのなかった彼女の心を蝕んでいき、ついに言葉となって私の前に現れた。

 今考えれば当たり前だったと思う。ユイは私を助ける天使でもなんでもなく、一人の人間だ。それなら彼女に絶対はないし、私に対する気持ちが揺らいだとしても何もおかしくはない。

 けれど、幼い私はユイを盲信していた。彼女は私を裏切るわけがないと、理由のない絶対的信頼を置いていた。

 私はユイに何も与えていなかったのに。私がユイに依存していただけで、ユイは私を必要としていなかったのに。

 盲目になっていた私は、その絶対からの裏切りに声も出なかった。もともと質の悪い脳みそは全く働かなくなった。ユイの言葉を理解することを拒否した。

 周りの雑音と同じように聞き流そうとした。

 ……けれど、それをしてしまったら私は何もかも失うと、理性ではなく本能が主張した。何も考えられなかったけど、ユイを失ってはならない。それだけが胸中を支配した。

 何をしてでも、ユイを私から逃がしてはならない。


「……ユリちゃん?」


 とても長い長い沈黙だったのだろう。地面を見続けていた視線をあげて、小動物のようにかすれた声でユイが私を呼ぶ。

 もう覚えていないし、意識もしていなかったけど、そのときの私は泣いていたのだと思う。ユイが私の顔を見た時の、悲壮で罪の意識に駆られている顔が脳裏にこびりついているから。


「……なんで」


 精一杯出そうとして、出た言葉はそれだけだった。


「それは……アイちゃんたちがね、『ユリちゃんと遊ぶなら、もうユイちゃんとも遊ばない』って……だから、本当にごめんね」


 言葉足らずながらきちんとユイは説明してくれた。それは彼女なりの誠実さだったのだろうし、私に対しての説明責任があるとでも思ったのだろう。

 けれども、その説明は私の焦燥に拍車をかけた。

 あぁ、このままでは私は全てを失ってしまう。また前の暗闇に戻ってしまう。折角手に入れた光を私は失ってしまう。

 それを失ったら私は生きていける?いいや、もう無理。私はもうユイ無しでは生きていけない。

 ――ユイ無しではもう、誰とも話せない。

 今考えれば、そんなことを思っていたのだろう。そんな感情で動いていた。

 あの時の私は、頭で考える余裕もなかったからきっと本能でそれに感づいていたのだけど。

 でも、私は何も言えなかった。このままでは失ってしまう対象を、かけがえのない大切なものを引き留める術を何も持っていなかった。

 それは私がユイに依存していたから。私自身では何もしてこなかったから。

 だから、彼女に何も言えなかった。

 何か自分の為に行動を起こすこと自体が怖くてできなかった。今ユイを止めなければもっと悪い結末になるのは目に見えているのに声が出なかった。

 ――長い、沈黙が続いた。

 私はずっと、全く機能しない頭を振り絞ろうと必死だった。それこそユイがどんな表情をしているのか気にしない程に。

 でもそんなのはユイからしたら知ったことではないだろう。申し訳なさと罪悪感でこの場から早く逃げ出したいに違いない。

 ユイは一歩後ろに後ずさった。

 そして今まで見せたこともない不器用な作り笑いを浮かべて、


「……それじゃあね、ユリちゃん」


 か細い声でそう告げた。

 声は震えていたように思う。きっとそれを言うだけでもつらかったと思う。

 ユイは私に背を向けて立ち去ろうとする。

 ここでユイを逃がしたら、私は彼女と話すこともなくなるだろう。きっとこれが二人の最後の会話になる。

 それは嫌だ。どう考えても私はそんなことになったら生きていけない。この世に絶望して、光を失って、親に少しの罪悪感を感じながら、短い人生の幕を閉じる。

 そんな思考で頭が真っ暗になる中、私は咄嗟にユイの袖をつかんだ。

 声が全く出なくても、危機を察した体は動いた。きっとそれは失うことに対する条件反射。

 

「ユリちゃん……?」


 ユイは足を止め、こちらを見る。

 その顔は私に恐怖しているようにも見えた。早くここから逃げ去りたいと、ユイの目が語っていた。

 またも続く長い沈黙。

 でも、私が引き留めたのだから私が話さなくちゃならない。体が動いたからと言って何かを変えられるわけではない。失う結末を変えられるわけではない。

 言葉にして、伝えて、彼女を逃がさないようにしないと。そうしないと失っちゃう、なくなっちゃう。

 

「ユイ……ちゃん」

「……何?」


 お互いに震えた声。お互いに見えない心の距離。逃げたいユイと逃がしたくない私。

 

「私と一緒にいてよ……どこにもいかないでよ、私だけの傍にいてよ」


 それはただの願望だった。ただのわがままだった。ユイに対する私の願望。ユイにこうあって欲しいという私の願い。

 そんなことは、ユイにとっては分かり切ったこと、百も承知だったと思う。

 それでも私はユイに主張するしかなかった。動かない脳みそを最大限に使用してできることはこれだけだった。だから私は、愚直に訴えるしかなかった。ユイの罪悪感につけこむしかなかった。


「私にはユイちゃんしかいないの。あなたさえいればなんでもいいの。他の人なんてどうでもいい。ユイちゃんさえそばにいれば他には何もいらない。あなたが一生私のそばにいてくれるならそれでいい。なのに……なんでユイちゃんは私から離れようとするの?私から逃げようとするの?私はユイちゃんだけでいいのに……ユイちゃんはそれ以上を求めるの?」


 今思い返してみれば、なんて醜い言葉だろう。自分勝手なエゴにもほどがある。こんなのユイにとっては何の役にも立たない。これを聞いても彼女は胸を痛めるだけだ。

 ユイは私の言葉を聞けば聞くほど、その可愛らしい顔を歪める。ユイの心の中の葛藤が見て取れるようで、私の心も痛んだ気がした。いや、気のせいか。


「……そんなこと言われたって仕方ないじゃない。私はユリちゃん以外のお友達も大切なんだよ。私のお友達はユリちゃんだけじゃないの。もっといっぱいお友達がいるのに、ユリちゃん一人だけを選べない。だから……本当にごめんなさい」


 あぁ、ここで「分かった」と言ってユイの袖を離すことができればどれほどよかっただろう。私が大切な人のことを考えられる優しい人だったら、ユイはどんなに幸せだっただろうか。

 でも残念ながら、私は自分が一番大切だった。ユイは大切だけど、それ以上に私自身の方が大切だった。そんな私にユイの主張が通るはずもない。


「ユイちゃん、なんでわかってくれないの?あなただけいればいいって言ってるのに、ユイちゃんはそれ以外を求める必要なんてないじゃない。私以外なんて捨ててよ。私だけ見ててよ!」

「だからそんなことできないって言ってるじゃん!私のことが大切なら私のことも考えてよ!ユリちゃんはいつも自分のことばっかり!私のこともちょっとは考えてよっ!」


 ユイの言葉のナイフが私を突き刺す。胸が抉られるようで、自然に涙があふれた。痛む胸を右手で抑えた。

 ユイから初めて突きつけられる暴力的な言葉。その言葉が私に与えたダメージは、私自身でも図り切れなかった。

でも、ユイがこんなことを言ったのは私が原因。私が何も言わなければ彼女はきっと罪悪感だけ抱いて、何も言わなかった。だから今思えば当然の報い。

 痛い、逃げたい、消えてしまいたい。それでも私は、一度振りかざした言葉を下げることができなかった。


「うるさいうるさい!……ユイちゃんは私とだけいればいいの。それがきっとユイちゃんにとってもいっちばん幸せ!それでいいじゃない。なんでそんな簡単なことも分からないの?ユイちゃんならそんなことわかるでしょ?」


 私の言葉を投げつけられるたびに、ユイの表情は怒りに変わり、そして冷めていく。その色のない表情から、私への呆れ、侮蔑、失望を読み取るのは簡単だった。理性を失った私でも、直感で感じ取れるほどに。

 もはや私の主張は子供の我儘以下のものだろう。こんなことを聞かされたユイはさぞ不愉快に違いない。


「分かるわけないよ……意味分からない。」


 ユイの表情は冷めきっていたけど、正反対に拳は強く握られていた。侮蔑を凝縮したような表情の裏では、きっと色彩豊かな感情が渦巻いているのだろう。いや、鮮やかというには黒い感情の方が渦巻いてそうだけど。


「そんなことが私の幸せになるわけない……なんでこんなに強く言ってるのになんにも分かってくれないの?もう誰に言われたとか関係ない。ユリちゃん、私たち絶交しよ」


 ユイはついに今まで明確な言葉にしなかった言葉を口にする。

 ――絶交しよ。

 その言葉はユイからの明確な拒絶である。これまで「アイちゃんに言われたから」と責任転嫁をしてきたユイが自分の感情として吐き出した意志。

 ユイから私に言い渡された、初めての『拒絶』。

 その言葉が私に与えた衝撃は言うまでもない。私は文字通り目の前が真っ暗になった。はっきりと自分でも認識できるブラックアウト。

 足腰にも力が入らなくなり、自然に膝が折れる。アスファルトの地面に、衝撃を逃がすこともせずに尻をつく。

 全身に悪寒が走り、手が震える。袖をつかんだ手が離れる。その手は自由落下して地べたに落ちる。

 崩れ落ちた私を見下ろすユイの瞳には、色がなかった。

 無機物を見つめているような、もはや冷気すら帯びてそうな視線。

 あぁ、あれだけ温かかったユイは変わってしまった。もう私のユイではなくなってしまった。私だけの天使は、今、完全な消滅をしてしまった。

 崩れ落ちた私の心は、柱を失った家のよう。ここからユイが立ち去った後には、私はきっと自らの生を終わらせるだろう。間違いない、そうなる確信がある。

 もう言葉を発することすらできない、生まれたばかりの赤子に巻き戻った私にユイが投げるのは侮蔑。

 砕けるほど、崩れるほど、壊れるほど、消えたくなるほど強烈な侮蔑。

 ――いや、それは錯乱した私の妄想かもしれない。現に、目の前が真っ暗になった私には、ユイがどんな顔をして私を見ているのか知るすべがなかった。

 優しいユイならば、きっと慈愛に満ちた表情をしていただろう。そうに決まっている。いや、私の妄想だから確実なことは言えないのだけれど。


「じゃあ、そういうことだから。……じゃあね」


 吐き捨てられた言葉は震えているように感じた。私の勘違いだろうか、いや、間違いないだろう。私がユイのことについて勘違いするはずがない。

 そう、だからまた歩き出す足音も間違いない。私から去っていくユイは決して私の妄想ではない。

 全部、現実だ。私は明らかに彼女を失い、彼女から拒絶された。単純明快、明朗快活な結論だ。

 ユイにとっては私はいらない子になったのだ。ユイの人生にとっての不要物、燃えるゴミ。だからユイは私の前から消える。私の人生から消える。

 私にとってはペースメーカーのような、必要不可欠な存在が消える。

 ユイがいないと生きていけないのに、一ミリも疑う余地なく人生の終幕なのに。彼女にとって私はそんな存在じゃないのだ。

 それが悔しくて、歯がゆくて、辛くて、痛くて……私を抉り、圧し潰す。

 なぜ、ユイは私を必要としないのだろう?私はユイにとっていらない子?

 ――それなら、どうやったらユイは私を必要としてくれるの?

 私の直感は、一つの答えを指し示した。荒唐無稽で、何の論理も通っていなくて、倫理観すら消失した、子どもらしい我儘な答え。


 ――ユイが自分で何もできなくなれば、私を必要としてくれる?


 ユイが歩いてゆく先は、足音からして駐車場の外。それなりに交通量のある二車線の道路。

 私の愚かしい考えに同意するように、車の走ってくる音が耳に入る。

 倫理観や人間として守るべき尊厳がすべて取っ払われ、本能むき出しの獣のような思考に陥った私に、もはや躊躇は存在しなかった。

 ユイが私を必要としてくれる未来を想像して、期待に胸が膨らんだ。体の震えが止まり、足にも自然に力が戻ってきた。

 真っ暗になった視界は次第に色を取り戻す。そしてはっきりと、私から遠ざかるユイの背中を映した。

 あぁ、私は何て賢いんだ。こうすればユイを失わないで済む。ユイが私を必要とする。

 なんの根拠もない暴利暴論は私の胸中を幸せで満たした。一度冷静になってみればありえない未来を夢想する私は、もはや無敵だった。

 スピードを落とさずに車道を走る車がよく見える。青いワンボックスカー。まるで私に幸せをもたらす青い鳥。

 一歩一歩と、車道に近づくユイ。

 何故だかタイミングは完璧にわかった。足に力が入った。絶対に失敗しない自信があった。

 まぁ失敗すれば、私の人生は終わるしかないんだけど。

 グッと足に力を入れて地面を蹴る。

 跳ねた体は無性に軽やかで、また力強く地を蹴る。

 私から遠ざかるユイに向かって一直線。

 私の希望に満ちた未来の為に、迷いも躊躇いもない。

 私はあっという間にユイの真後ろにやってくる。もちろん勢いは止めない。というか既に止められない。

 急速に迫る私にユイは気付いたようで振り向こうとするがもう遅い。

 私はユイに肩から突進して、彼女を車道に追いやった。

 簡単に宙に浮いて、車道に放り出されるユイ。

 ユイの目からは大粒の涙が流れていた。きっと私の為に泣いてくれていたのだ。

 ――うれしいな。

 私の表情は自然と満面の笑みに変わった。

 そしてユイは、焦りを浮かべながら右を向く。

 青い鳥を見たユイは、何もかも諦めたかのような、なんとも情けない顔を浮かべた。


「ユリちゃん……なん」


 言い切る前に、ユイを衝撃が襲った。

 甲高い音とともに勢いを殺そうとした青い鳥。止まるわけないじゃないか、タイミングは完璧だったのだから。

 運転席から悲鳴が上がる。

 衝撃を受けたユイは吹き飛び、その足は曲がるべきでない方向にねじ曲がっていた。

 吹き出す深紅と絶叫。飛び散る赤は、燦燦と輝く太陽で熱されたアスファルトに当たった途端、水蒸気に変わる。

 けどそうやって夏の湿度に消えたのは、ほんの一部だけ。大部分は地上に広がり、晴れた光景に水溜まりを作る。

 盛大に鳴り響くクラクション。遅すぎるという感想は胸中にしまい込んだ。

 ユイから染み出る液体は、また新しい水溜まりを精製する。揺らめく陽炎も合わさって何か高尚な絵画のようにも見えた。

 惨状のすべてがしっかりと網膜に焼き付く。ねじれて人としてあってはならない状態になってしまったユイ。

 私はおぼつかない足取りで彼女に駆け寄る。


「あぁ!ユイちゃん……可哀そうに。こんなになっちゃって……でもこれで、うん。そうだよね、ユイちゃん」


 しっかりと記憶している。私はこのとき、これまでの人生で感じたこともないような喜びを感じていた。


 ――ユイちゃん、私やったよ。きちんとユイちゃんのことも考えて行動したよ。えらいでしょ。これで私を必要としてくれるでしょ?ほめて欲しいな。


 あれはきっと、世間一般的には狂った感情だろう。うん、間違いない。

 でも私はあの時、幸せの絶頂にいた。だから、あんなことができたのだろう。

 ぴくぴくと痙攣するユイを抱きしめ、そして……。


 ――それから数十分もしないうちに救急車がやってきた。どうやら運転手の男性が呼んだらしい。

 やってきた救急隊員たちはみな一様に驚愕を顔に浮かべた。彼らがたじろぐ意味がよく分からなかったけど、運ばれていくユイを見て、私はとても心配になった。

 神様どうかお願い。ユイちゃんを殺さないでください。そう祈った。

 彼女が死んだら、私も死んでしまう。彼女がいなければ私は生きることも出来ない。

 いなくなってしまったら意味がない。私が勇気を振り絞って行動した意味がない。

 ユイがいなくなってしまうという可能性に気づいた私には、もう先ほどの幸せはなかった。

 ――ただただ、恐怖するしかなかった。


 幸いなことに、ユイは一命をとりとめた。

 だが、病室で静かに眠る彼女は両足の自由と視力を失っていた。

 弱弱しく病室で眠る彼女を見て、大きく安堵したのを覚えている。これでまだユイと一緒にいられる。ユイを失わずに済んだ、と。

 私は時間が許すかぎり、ユイの傍にいた。

ユイの母には「ユイちゃんが飛び出したところに車が丁度来てしまった」と説明した。うん、何も嘘は言っていない。

 ユイの母からは嫌悪の表情を向けられてしまったが、ユイ以外の人間からどう思われようと関係ない。

 三日ほどして、ようやくユイは目を覚ました。

 ユイは事故直前の記憶を失っていた。


「……ほんとになにも覚えていないの?」

「うーん、ユリちゃんと言い争いしていたのは覚えていたんだけど……」

「……そう」


 ユイの母の目もあって、それ以上何も話すことはなかった。

 限りないほどの安堵が体に染み渡る。

 これでユイとまた一緒にいられるはず。あぁ、私はまだこの世界で生きることができるみたい。

 ユイの目が覚めた後も、私はずっとユイの病室にいた。

 全てが白に覆われた無機質な病室。小学生にとっては面白いはずもないのに、私はずっとそこに通い続けた。

 理由は至極単純。ユイがいるから。

 ユイの他のお友達もお見舞いには来ていたけど、長居はしなかった。

 きっと彼ら彼女らからしたら、白い病室はつまらなかったのだろう。そこにユイがいるだけで世界はバラ色になるのに、不敬者め。

 一か月ほどして、ユイは無事退院した。やはり歩けるようにはならなかったし、目も見えるようにならなかった。

 車椅子で常に誰かにいてもらわないと移動することすらままならない。以前の快活な少女の影は何処にもなかった。

 普通の教室から姿を消し、特別教室に移ってしまったユイのもとにも私は足繁く通った。ほぼ毎日、飽きもせず。

 当たり前だろう。ユイは私のペースメーカーなのだから。

 そこまでユイに固執したのは私だけだった。その頃にはユイの他の友達は、彼女の前に現れなかった。

 私は優越感に心の臓までどっぷりと浸かった。

 やっぱりユイのことを一番に考えられるのは私ではないか。他の誰かを優先するなんてあの時のユイもどうかしていたんだな、と。

 足繁くユイのもとに通う私は、自然とユイの車椅子を押すポジションになっていた。

 ユイは誰かがいないと何もすることが出来ない。

 そう、私はその「誰か」のポジションについたのだ。それが固定さえしてしまえば、ユイはどうしても私を必要とする。

 正直、ここまでうまくいくとは思っていなかった。途中でユイに拒絶されることもあるだろうと思っていた。

 でも彼女は私を全く拒絶しなかった。それどころか受け入れてくれた。

 罪悪感ゆえの行動なのだろうか。それともやっぱり、ユイも私のことが大好きなのだろうか。

 私にユイの心境を量り切れるわけはないんだけど、ここまで来たらユイは私を拒絶できない。

 これで相思相愛。私にはユイが必要だし、ユイにも私が必要。

 ――そうでしょう?


「なにボーっとしてるの?ユリ」


 ユイの怪訝そうな声で我に返る。

 そうだ。ユイの車椅子を押してたんだ。

 我に返った私は車椅子を押す手に力を入れ、無機質な廊下を進む。


「ねぇ、ユリ」


 静かに、しかし芯のある声でユイが私に呼びかける。

 どうせまたいつものセリフを吐くのだろう。


「いつも私のことを助けてくれてありがとう。でもね、いつも言ってるけど私にばかりユリの時間を使わなくていいんだよ。あの事故のことは気にしなくていいから……私じゃなくて自分の為に時間を使いなよ」


 何もわかっていないユイの定番のセリフ。

 いや、もしかしたら何もかも見透かしたうえでのセリフかもしれない。

 私が私の為に起こした事故だということ。私はユイ無しでは生きていけないこと。

 ユイのお決まりのセリフに対して、私はこれまたお決まりのセリフを返す。


「気にしないで。私はユイのことが好きだから一緒にいるの。確かに事故のことはずっと気がかりだけど、そんなの関係ないから」


 ――だって、もうあなたは逃げられない。

 今ならあなたは私を見ることも出来ない。私がいつもあなたの後ろで笑顔を浮かべていることをあなたは知らない。

 あなたの目には汚い私は映らない。


 だから私はあなたの世界を、色を潰したの。

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