サイネリア

7月31日

 暑い。暑いと、何も考えられなくなる。感性が熱に溶け出る。


 8月1日

 暑い。暑い以外の感情がない。特筆すべきことのない日常を過ごしている。夏を浪費している。過去になっていく。

これではまずいと思い、外に出て、花屋で花人を買った。青紫色の髪がきれいなサイネリア人だ。起動するのに時間がいるらしいから、目を覚ますのは明日になるだろう。えさなどどうすればいいのか、今のうちに調べておく。


8月2日

暑い。暑いってのはよくない。熱により奪われるものはあっても、得るものは何もない。誰もが夏に奪われ、失ったものに気づいていない。

サイネリア人が目を覚ました。7歳児くらいの少女型で、闇を見ることができないようなつぶらな目をしている。スープを与えたら飲んだ。やはり、できるだけ液体のえさが好ましいようだ。トイレの場所を教えたり、ダンボールの部屋を与えたりした。


8月3日

 暑い。問答無用で暑い。弁解の余地のない暑さ。このような狂った熱気に全身を侵されてなお、どうして人々は夏を許し続けるのだろう? こうして、夏が僕と世界を遠ざける。僕はまた一人残されるはずだったのだが、どこまで行っても、夏は僕の近くにいて消えてくれない。

 サイネリア人を「水道水」と名付けることにした。「水」という字が二つも入っていて、涼しそうだったからだ(「水素水」も考えたが、胡散くさくなるからよくない)。僕の身体はいつでも水を歓迎していた。理由もなく乾いていた。「水道水」が今年の夏の記憶に染み渡っていけばいい。


8月4日

暑い。──が、雨が降ったので、昨日よりかは幾分かマシだ。夏の雨。嫌いではない。どことなくすっきりとした激しさが伴うからか。それでいて、ねちっこさもあるからだろうか。気性が荒いが繊細な人の涙に似ているような気がする。夕方、雨戸にして、外を眺めていた。どんよりした都会の薄暮を稲妻が一閃し、照らす。それによって何かが壊されるということはない。どこまでも予定調和の暗がりが、雨を飲み込んで夜に染めていった。

花人は言葉を発さない。感情を表出する機能を極力削ぎ落とされている。それが残酷だと感じる人もいるらしいが、僕はそう思わない。そもそも養人にコミュニケーションプログラムを入れ、人格や感情を持っているように見せかけることに意味はないし、悪趣味だとすら思う。人間が求める発話や反応を工学的に行う機械と話して癒される人間の気が知れない。結局、そのような人間達はいつの時代でも、真の意味で他者と「話す」ことなど一度もないのだろう。ただ「コミュニケーション」という言語ゲームにおける定石をなぞり、他者性を排除し、同調圧力のマゾヒズムに浸り、「空気」や「世間」の作り出す適当なグルーヴに身を任せているだけだ。飼われている花人と何が違うのだろう?


8月5日

暑いが、どうすることもできない。昨日とはうってかわって、かんかんに晴れやがる。太陽がもし人間だったなら絶対に関わりたくない。月とはきっと手の届かないところに居るだろうから関われない。無数の星たちとはその輝きに耐えられないから傍にいられない。僕は周縁化した大気となり、音もなく死ぬ。

水道水は元気である。本人が言ったわけではない。僕が勝手にそう解釈しているだけに過ぎない。本当は元気ではないのかもしれない。それはわからない。


8月6日

暑い。

水道水はダンボールハウスの中で一日中体育座りをしている。一点を見つめている。たまに自分でトイレに行く。手を洗ってまた帰ってくる。2日に1回以上はお風呂に入れ、着替えさせる。眠くなったら横になって眠る。蛹のごとく。


8月7日

暑いのは暑いのだが、いつまでも暑い暑い言っていても進歩がないし、でも僕は進歩するために生きているわけではないので、暑いのは暑い。「○○のために生きているわけではない」論法は非常に便利だが、濫用していると完全に生の意味を失うので、注意。もっとも、最初からそんなものがあるかどうかは怪しい。

詩作を再開した。水道水に読んでもらっている。反応は皆無に等しい。言葉は無力だ。


8月8日

暑いので、かき氷を食べる。久しぶりである。スーパーでブルーハワイのシロップと、氷を削る機械を買う。おそらく二度と使うことはない。

かき氷のシロップは、色が違うだけで全部同じ味らしい。これは非常に示唆的な事実のようでいて、その実何も示唆などしていない。あらゆる事実はただそこに存在しているだけで、何らかの意味を積極的に提示などしない。いつだって、我々が勝手にそれを読み込んでいるだけに過ぎない。我々は、かき氷のシロップの色に過剰に意味を見出しているのかもしれない。僕は、ブルーハワイのかき氷しか食べたことがなかった。

水道水もかき氷を食べた。無表情で口を動かしていた。水道水は、ハワイがどこにあるのかを知らない。


8月9日

暑いなら涼しい場所に行けばいいのではないか、という一般的な感性に基づく一般的な意見に、僕は太刀打ちできない。ぐうの音も出ない。逆立ちしても勝てない。僕は、逆立ちでパワーアップするようには作られていない。地に足をつけ、立ち向かっていくしかない。

思えば水道水を買ってから外に出ていない。食料は貯蔵してあるし、外は外で暑いし、準備が億劫なので、よほどのことがない限り外出しようと思えなくなってしまっている。健康上・精神衛生上日光を浴びるべきなのはわかっているのだが。こうしてまた一人、度し難い鬱病自閉厭世文学青年が生まれる。控えめにいって、死ぬべきだ。クズが。

 水道水とシャワーで水浴びをする。水道水に水道水を流し水道水で洗う。このような日常をこよなく愛する詩人の言葉を、僕達は誰一人覚えてはいない。「サラダ記念日」が何月何日のことを指すのか、君は知っているのか?


8月10日

 暑いが、それはそれとして、訂正したいことがある。昨日の文章はよくなかった。苛立ちと同化した5歳児のようだった。落ち着きなよボーイ。あとでアンパンマングミを買ってあげるから。

 最も訂正したいのは、「度し難い鬱病自閉厭世文学青年」に対して「死ぬべきだ」と書いた箇所だ。確かに、やたらと小難しい人文書やファッションとしての文学書を大量に積読し、何もわかっていないのに全てを知ったような顔をし、この世のありとあらゆる事物に対して上から目線で冷笑し、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を拗らせて孤立し、一丁前に精神を病み、酒を飲み、肝臓を壊し、なぜか被害者面をしてヘラヘラ笑っている、消費社会が産んだ粗大ゴミに対して、嫌悪感を抱かない人間など存在しない。だが、だからといって「死ぬべき」などではなかった。生まれてこなければ良かったのかもしれないが、生まれてきてしまったのであれば、死んで誰かに迷惑をかけるのは良くない。

 ではどうすべきだったのかというと、多分外に出るべきだった。外に出て、人と話したり、おいしい空気を吸ったり、ハンバーグを食ってインスタに写真を載せてコミュニケーションのタネにすべきだった。太陽みたいに暑苦しい奴らとHIPHOPを聴き、キャンプに行くべきだった。就職活動のためにボランティアやインターンシップに参加すべきだった。オープンな共同体の中で適度に承認欲求を満たし、適度な成功と失敗の中でありのままの自分を肯定し、余計な自意識やしがらみを捨て、社会の歯車として通用するペルソナを作っていくべきだった。換言すれば、さっさと現実に適応すべきだ。

水道水が僕を見つめていた。僕は水道水に言って聞かせる。「現実」とはかき氷だ。どんな色で修飾しようが味は変わらない。それでも僕は、それだからこそ僕は、一番食べ物にふさわしくない真っ青のシロップをぶちまけなければならないんだよ。

水道水は、何も言わなかった。言葉は無力だ。


8月11日

暑いし、外に出ようかとなって、僕と水道水は駅前のドーナツショップに出かけた。一人で行くのも考えたが、さすがに危険だと判断した。親心のようなものが芽生え始めているのだとしたら驚くべきことだ。『たまごっち』で命の尊さを学ぶのに似ている。

何個か取ってコーヒーとミルクを注文する。接客係の顔を見て、養人だと気づく。今時別に珍しくもないが、いちいち意識してしまうので不思議だ。資本主義に従属する人間と労働用養人の本質的な違いなどないのに。

水道水にはミルクを飲ませた。心なしか、以前より僕の目を見つめることが増えた気がするが、これは一般的な現象なのだろうか? 養人に詳しくないのでよくわからない。花人の場合、花の種類によっても反応や学習の性質が変わるという話を聞いたことがあった気がする。


8月12日

暑い暑い、言うとりますけども(漫才)。

夏にだけ見る夢がある。青天。ひまわり畑が一面に広がる道を、白いワンピースに麦わら帽子の女と歩く。僕らは小さなバス停を目指している。きっと辿り着くことはない。三歩先を歩んでいた女が不意に振り返り、消える直前の線香花火のようなことを言う。僕にはどうすることもできない。夏が彼女を殺すのである。

あるいは、こういう夢だったかもしれない。夏祭りが行われる。大通りは歩行者天国となり、並ぶ屋台に光と人混みが吸い寄せられている。そこで僕は一人、注文の品を仕入れ、喧騒から離れた社へと向かう。ひぐらしの鳴き声がより一層強く鳴り響く。誰も打ち破ることのできない田舎の空のトワイライトに、もうすぐ花火が打ち上がる。

「遅い」

おつかいから帰還した僕を視認し、彼女が唇を尖らせる。白の基調に、薄紅の朝顔の柄が映える浴衣姿の彼女は新鮮で、僕だけが目に焼き付けるには勿体なさ過ぎるように思える。もし彼女がこんな田舎──人間関係のしょうもないゴシップしか娯楽がなく、少し油断をしたら田園が広がり、そのくせカラオケ屋は村に二軒もある、絶望的に塞がった群馬の辺境──の中学校にいなかったら、どうしようもない奴らからどうしようもない仕打ちを受けることもなかったし、どうしようもない僕と花火を見る必要もなかっただろう。全体主義の蔓延る群馬県では、没個性化に抵抗し突出してしまった人間を袋叩きにする慣例がある。彼女はその犠牲者だった。僕は最後まで、彼女が傷ついていく姿をただ見ていることしかできなかった。

「明るいところで見る花火なんて、全部嘘だよ」

木陰に包まれた社にて、彼女は空を見上げる。僕は彼女に頼まれていたかき氷を渡す。現実の虚構性を訴えるように蒼く染めるシロップ。この夏が終われば、僕達はもう会うことはない。僕を残して、群馬の外部へと彼女は飛び立っていく。「現実」を支配する理不尽な磁場から軽々と亡命していく。そんな彼女には、焼きそばも唐揚げも林檎飴もふさわしくない。群馬県民が誰一人見たことのない、不健全なまでに蒼い「ハワイ」。それだけが、彼女に寄り添い、祈りをもたらすのだろう。

「一口、食べる?」

彼女が見つめてくる。遠くで花火の音が聞こえる。刹那、カラフルな光が彼女の黒い髪をちかちかと照らす。僕は答えられずにいる。不思議な静寂に包まれているように感じる。一瞬が永遠のように思える。終わりが来るのを拒んでいる。僕は、答えられずにいる。これは夢であり、存在しない夏の記憶である。僕は、終わらない夢への答えを求めて、彷徨い続けている。


8月13日

昨日の文章にて、群馬の名誉を毀損する表現が複数あった。これは大変よくなかった。訂正しておく。群馬にはゴシップ以外にもスキーやカルタのような娯楽があり、ハワイを見たことがある県民もごく少数ながら存在すると思われる。今日の群馬県太田市の最高気温は35・2度であった(あらゆる事実はただそこに存在しているだけで、何らかの意味を積極的に提示などしない。いつだって、我々が勝手にそれを読み込んでいるだけに過ぎない)。

水道水にアニソンを聴かせている。特に意味はない。発話はできないものの、花人には原則最低限の言語を理解する機能が与えられる。衣食住に関する情報には高い理解度を示す。反面、日常会話の言葉や、詩的言語などは難しいようだ。あくまで観賞用の養人というわけだ。花は置かれた場所で静かに咲く。そうあるべきと望まれている。その望みとは無関係に、花は咲き誇り続ける。


8月14日

星が瞬くこんな夜にひとりぼっちが二人

抱えた痛みを分け合うように

(supercell『星が瞬くこんな夜に』)


相変わらず感傷機械として呼吸している。現代では、夜に空を見上げても星が瞬く姿を見ることはできない。よって左の詩は現実感覚のない完全なるフィクションなわけだが、夏に目を瞑れば、もしかしたらそんな思い出もあったのではないかという気になってきて、怖い。これは恐らく僕らの共同幻想である(「僕ら」というのは、光の断片を握り締め頑なに手放そうとしない哀れな「ひとりぼっち」達のことを指す)。しかし、そうだとしたら、僕が噛みしめている感傷は、本当に「僕」のものなのだろうか? 「僕」もまた、養人たちのように、誰かに作られた感情しか持ち合わせていないのではないか? 「僕」が彼らと同じではないという保証は、どこにあるのか? 時折、そんな不安に襲われる。

ネットで、最近養人がやたらと殺されているという報道を見る。花人など狙われたらひとたまりもない。水道水が襲われたら僕が守らないといけないのか。光景を想像できない。


8月15日

暑く、しんどいのに、さらに面倒な事態に陥りつつある。

大学での知り合いに、いけすかないことを色々やっている次藤という男がいる。彼がやっている「いけすかないこと」の一つに、養人を神に仕立て上げた宗教の運営がある。自分も深くは知らないのだが、雇われて経典を一部作成したので無関係ではない。

その次藤が、近々宗教(「炉心教」という)の集会をやろうとしているのだが、最近の養人殺害の横行する情勢を鑑みて、当日まで僕の家に「教祖」を匿っていてほしいと言ってきた。「炉心教」が反養人組織に目を付けられた恐れが出てきたのだという。僕は次藤ぐらいしか課題の情報を共有できる仲の人間がいないので、仕方なく引き受けることにした。一応なかなかの金額の報酬ももらえるという。明日、待ち合わせして回収しに行く。

相変わらず水道水に詩を読ませたり、アニソンを聴かせたり、水浴びさせたりしている。エリオをかまってちゃんの『Os-宇宙人』を、無表情で聴いている。それは悲しいことだとも、幸せなことだとも思う。


8月16日

「教祖」を迎えに外に出る。クソ暑い。酷すぎる。中古20万で買ったシビックのクーラーが全く効かない。留守番させるわけにもいかず、アクエリアスを三本買って助手席の水道水に持たせる。熱中症で子型養人を死亡させるケースは多いと聞く。心配で目が離せない。

午後3時、神保町の路地裏に車を止め待機していると、次藤から「確認しました。頼みます」とLINEがきた。少しして、フードを被った女が後部ドアを規則的に五回叩いた。ドアロックを解除する。

「よろしくお願いします」

清潔な印象を与えるタイプの甘さのある声だった。工学的な嫌味がないと言えば嘘になるが、それは僕の性癖に起因する感覚かもしれない。僕はすぐさま家に向かって車を走らせた。水道水を早く冷房の下に連れて行きたかった。

「教祖」はメルと名乗った。家に着いて、フードを取った彼女の唇の右下にはほくろがあった。メルは養人にしてはかなり高い水準の機能を与えられているらしく、いわゆる「コミュニケーション能力」とやらも備わっているようだった。僕はそのような養人とまともに会話したことがなかったので、なんだかどぎまぎしてしまい落ち着かなかった。死にたい。

「花人ちゃんですか? かわいいです」

メルが水道水を見て言った。サイネリア人ね、と僕は補足した。養人が養人に可愛いと言うのが現在の「コミュニケーションAI」的にアリなんだ、と思って面白かった。やや不気味でもあった。


8月17日

暑いし暇だし落ち着かない。孤独が恋しい。「他者」が朝から晩まで自分の家にいることに対する違和感がすごい。無論いくら精巧に演じられようとも養人は「他者」の紛い物でしかないわけだが。時間が経つのが長く感じる。何をするにも集中できない。

考えた結果、アマプラで適当に映画かアニメを見ることにした。鑑賞中は沈黙が気にならないし、話しかけにくい。……と思ったら、メルも見たいと言い出したので、結局水道水と三人で見ることになった。

アニメ『Vivy -Fluorite Eye‘s Song-』を見た。アンドロイドが実用化され広く社会に普及した世界で、「歌でみんなを幸せにする」ことが「使命」の自律人型AIであるヴィヴィが、AIによって人類が抹殺される100年後の未来を変えるために奔走するというストーリーである。

作中における「使命」という概念は、そのAIに課せられた最優先事項のようなもので、それによって問題解決への行動原理が作られる。これは養人に搭載されているコミュニケーションシステムの仕組みに近いかもしれない。同じ状況、同じ相手、同じ言葉を前にしたときでも、各養人の存在意義によって選択される回答は異なる。表面上同じ回答になったとしても、その言葉の先に想定している読み筋はAIごとに異なる。存在意義が大きくなればなるほど、システムは複雑化し、莫大な評価関数を必要とするようになる。

「私の使命は、人類の救済です」

見終わって、メルはそう言って笑った。そういえば、メルは僕が今まで見た養人の中で最も高性能かもしれない。話していてわかる。次藤はどうやってこんなのを手に入れた? 人格を持っているふりをするのが、あまりに上手すぎるのだ。


8月18日

おう。暑いぜ。俺は、元気だぜ。うるせえ。死ね。

アニメ『咲-saki-』を見る。麻雀がありえんくらい普及した世界で、長野県の女子高生達が麻雀版インターハイを目指すというストーリーである。時折、胸部がありえんくらい肥大化したキャラクターが出てくるところが魅力となっている。若者が何らかの目標に向かって切磋琢磨したり、汗を流したり、喧嘩して仲直りしたり、合宿したり大会に出たりしていて人生の夏を感じた。よくこのような時間のことを「青春」と呼ぶクズがいるが、青い春というのはつまり夏のことではないか。舐めるなよ。チビが。

メルも麻雀が打てるらしかった。都市部の雀荘に雀士型養人が勤務しているという噂を聞いたことがあったが、そのような特殊な養人でなければ麻雀AIまで搭載しているのは珍しい。ボードゲームやカードゲームの類は全部こなせるという。僕は考えるのをやめた。



8月19日

もう夏も終わろうとしている。

夕飯、何気なく食用養人の唐揚げを作って、メルの存在に気づいた。メルは水道水とは違い普通の人間と同じ食事を摂る。こっそり食事に出したら何か言うだろうかと好奇心に駆られ、彼女にカニバリズませた。

「美味しいです」

衣に包まれた養人肉を頬張りながら、彼女は微笑んだ。天使と悪魔の笑顔は区別がつかない。


8月20日

次藤によれば、メルは女神型養人を目指して設計されたらしい。誰もが崇拝し、救いを求めずにはいられなくなるような存在。

「僕が目指しているのは、万人の救済です。今の社会では、格差の拡大を止められません。敗者を無限に生産するのを止められません。いかようにも救いがたい存在の生きる意義を指し示せません。性や身体、アイデンティティにまつわる差別の問題もあります。人間は養人を生み出すことで様々なコストや困難から逃れようとしていますが、各人が自我を持ち生きる限り争いや諍いはなくなりません。

メルはそんな人類を、もう一つの世界へ導くために生まれました。言葉や身体、自我を捨て、快楽と一体化した安寧の世界へと人類を生まれ変わらせること。そのための案内人がメルというわけです。簡単に言えば」

そんな度し難いLINEが送られてきた。何かが始まろうとしているのかもしれない。終わろうとしているのかもしれない。麦茶を飲みながら、蝉の声を静かに聞いている。


8月21日

この夏一番の猛暑がやってきた。死ぬほど暑い。

あまり現実感のないニュースが飛び込んできた。次藤が死んだのだという。危険団体として以前から目をつけられていた「炉心教」が、とうとう反養人組織の襲撃にあったらしい。人の死に対し、人間はあまりに無防備だ。他人の死に対しても、自分の死に対しても。僕の後ろには、女神型だか眼鏡型だかなんだかわからないがやけにフルスペックな教祖様と、今もダンボールハウスの中で一点を見つめている非力な水道水がいる。「炉心教」が狙われているなら、当然その教祖であるメルも追われているに違いない。どうしたものか。だらだらアニメを見たり存在しない夏の記憶に思いを馳せたりしている暇はいつの間にかなくなっていた。このままではいけない。しかし、どうすればいいのかもよくわからない。逃げるべきか。一体どこへ?

「心配する必要はありませんよ」

メルに相談すると、彼女は涼しい顔で答えた。猛暑に似つかわしくない涼しさだった。ぞっとするほどに。

「〈救済〉はもう既に始まっています。今は私たちを快く思っていない人々も、いずれ理解するでしょう。ありとあらゆる苦しみ、怒り、悲しみ、それらがもたらす争いや諍いから解放されるときが来ました。人間は人間であることを超え、〈開花〉することで一つになります。そしてその観測者として生まれてきたのが、この私なのですから」

そう語る彼女の目には、一点の曇りもなかった。そのような目は現実感がない。養人には感情がないから、瞳が内的な何かを映し出すことなどないのはわかっていた。わかっていたが、やはり、そういう目は怖いと思った。おかしいと思った。

「僕も、〈救済〉されるのか?」

怖くなったついでに尋ねた。人間が人間を超える? 〈開花〉? 何もかもわからなかった。何もかもわからないということが、逆説的に何かを暗示しているように思えてならなかった。七日目の蝉たちの声が、やけによく聞こえた。

メルは、何も感じていないみたいな目で言った。

「いいえ。だってお前は、人間の紛い物でしょう?」

その目は、冷たかった。


8月22日

 水道水を連れて、群馬に帰ることにした。わからないが、群馬という地は、亡命にはぴったりに思えた。亡命者を探すとき、恐らく群馬は、一番最後に回されるであろう地に思えた。追跡者たちは、群馬に逃げられたなら仕方ない、と思うに違いなかった。なにせ四方を山に囲まれているし、「かかあ天下」という名目で女尊男卑思想が蔓延っている。今年度の都道府県魅力度ランキングは44位だったし、それに対して知事が法的措置を検討している。すぐさま群馬県固有の法「ヨイジャネ法」に基づき、士気と練度の高い私兵が全国へ送られ、とにかく暴れ回る。自衛隊は国軍ではないため、モチベの差で大敗する。全てが群馬県に統一され、都道府県魅力度ランキングで堂々の一位になる。そのうちハワイも群馬になる。僕は君と再会し、「ごめん」と伝える。

 中古二十万のシビックのクーラーがマジでゴミすぎる。アホみたいに暑い。関越自動車道が帰省ラッシュで全然進まねえ。終わっている。水道水には大量の水を飲ませているが、いかんせん暑すぎるからか、汗をだらだら流しながら、虚ろな目で僕を見つめていた。一応買っておいた保冷剤も一瞬でぬるくなり、早くどうにかしなければと思った。

 夕焼けが空を染める頃、なんとか高速道路を抜け、高崎の東横インに逃げ込んだ。水道水はしなびたようにベッドに横たわり、浅く呼吸していた。僕は、何度も「水道水」と呼びかけた。青紫色の髪は、きれいだった。

 人の死に対し、人間はあまりに無防備だ。

 

8月23日

 一篇の詩を書いた。


 「サイネリア」

 

 つくられた花

 つくられた裸

 つくられたまま

 墜落する運命

 つくられた感情

 つくられた感傷

 つくられた感動

 啄む烏の群れ


 罪人がつくるのは罪だけだ


 ※


 8月24日

 ○国立養人研究所が「詩人型養人」の開発を公表 養人が書いた詩も公開


 国立養人研究所は24日、言語理解に秀でた養人である「詩人型養人」の開発を公表した。詩的言語や小説などの高度な文章読解は養人の課題となっていたが、今回開発された詩人型は文学的テクストの趣旨を人間と遜色のない程度理解し、養人の書いた日記からは叙情的な記述や、ブラックジョークのような一節もみられたとされる。日記は非公開だが、養人が書いた詩「サイネリア」は公開されており、閲覧可能。今後の養人開発に期待が高まる一方、養人に高度な知能を与えることに不安をおぼえる声も一部で広まり、議論を生んでいる。


 コメント 3


名無しさん

 詩、読んだけど意味不明。やっぱ養人ってバカなんだな


 名無しさん

 性交型養人開発はよW


 善良な市民@人権派さん

 反養人テロが起こってすぐこういう発表するのは不謹慎では? 

国立養人研究所には倫理的態度が足りないと思う。てか、養人に詩を読ませるとか意味不明。芸術は人間の特権であって、家畜にさせるとか悪趣味。

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