第85話 月が綺麗ですね

 ジャリッ……


 背後で、土を踏む音が聞こえる。

「月が綺麗ですね」

 私が振り返る前に、声が聞こえる。

 誰の声かだなんて、確かめなくともすぐに分かる。でも、振り返って確かめずにはいられない。


「………るぉ…………」

 私の口から、小さな吐息のような音が出た。


「陽菜子。………連絡しなくて、ごめん」

 その人は、


 ジャリ、ジャリ


と土を踏みしめて、私の目の前までやってきた。

 けれど、目の前を涙の膜で覆われてしまった私の視界は、歪んで滲んで、はっきり見えない。

 手の甲で何度か涙を拭ってみたけれど、一向に止まる様子の無い自分の涙に、とうとう私は、両手で顔を覆ってしまった。


 そろりと私の腰に腕が回ると、ゆっくりと抱き寄せられる。

 夜の低い気温のせいで、思ったよりも体が冷えていたのか、彼が私を抱きしめてくれると、温かい体温を感じてホウッと息が溢れる。

「いつからここにいたの?体が冷え切ってる。

 風邪ひくよ?月を……見てたの?」

 彼は、コートの前を開けて、その中に私をスッポリ包み込むように覆ってくれる。

 私は、安心と、嬉しさと、腹立たしさと、色んな感情が、一遍にグルグルと体の中を渦巻いて、中々涙が止まらない。 

 それでも、小さくしゃくり上げながら、どうにか言葉を紡いだ。

「……ウッ……ヒグッ………わた、わだしと、ずっと一緒に……つ、月を……ヒッ……見て、くれまずか?」


 暖かいコートの中から見上げた彼の顔は、みるみるうちに、耳まで真っ赤になった。そして、くしゃりと笑うと、低くて優しい声で答える。

「はい、勿論。

 陽菜子、ずっと、ずっと一緒に……、貴女と月を見上げたい」



 泣きすぎと、寒さのせいで、鼻水が垂れてきた私の顔を見て、琉旺さんはポケットに手を突っ込むと、ハンカチで私の鼻を拭いてくれる。

「はい。チーンして」

 そう言われて、ズビーーーッと鼻をかむ。

 まるで、親がするように(実際には、親にしてもらった覚えなんてないけど)、何度もハンカチを鼻にあててくれるので、遠慮なく鼻を噛んでおいた。

 すご〜く、優し〜い肌触りだったので、きっと高いハンカチに違いない。

 けれど、そもそも私が泣いて、鼻まで垂らした責任は、琉旺さんにあるのだから構わないのだ。

 

 やっと鼻がスッキリして、涙も止まった私の顔を、えらく優しい顔で覗き込んだ琉旺さんは、私をコートの中に収めたまま、縁側に腰掛けた。

 私は、琉旺さんのコートの中で、琉旺さんの膝の上に腰掛けて、背中を温かい彼の胸板にくっつけて、月を見上げる。


「ふぅ……」

 琉旺さんは、一つ息を吐き出す。

 その息が、私の頸に吹きかかって、くすぐったい。

 背中を丸めて、私の肩に顎を乗せると、耳のすぐ近くで話し始める。

「連絡しなくて、ごめんな陽菜子。ごめん……」

 耳元でそう言うと、私のお腹に回した腕に力を込める。

「竜化が解けて、色々体に負担がかかってたのか、本家に着いて気がついたら2週間ほど寝込んでた。

 熱が出て、意識が朦朧としてて、全然体が動かなくて。

 やっと頭の中がちょっと回り始めて、周りの様子が理解出来た頃には、あの日から2週間経ってた。

 すぐに、陽菜子が心配しているだろうから連絡を取ろうとしたんだが、じい様に携帯を取り上げられて、部屋から出ないように、何人も監視をつけられてだな……」

 そこまで言うと、思い出したのか、ハァーーーーーと、ため息をつく。

 その息が今度は耳に吹きかかって、くすぐったい。


 けれど、琉旺さんは私の肩から頭を上げようとしないし、両腕をがっしりとお腹に回しているしで、身動きが取れない。

「まぁ、監視を振り切って、本家を出るのは容易いことだったんだが、監視の彼らに、怪我をさせたい訳じゃないし、多分俺が逃げたら、彼らはじい様に怒られるんだろうなと思ったら、ちょっと簡単に逃げ出せず。

 で、じい様にスッゲェ、スッゲェ、スッゲェ文句言ったら、ほろっと泣かれて……。

 俺も、まさか泣かれるとは思ってなかったもんだから、ちょっと及び腰になっちゃってな」

 そう言いながら、私の肩にグリグリ頭を押し当てる。

 子供みたいだな。ちょっと、可愛い……。


「なんかさ、心配してくれてたらしくて……。で、絆されちまって………」

 そっか、嬉しくて、照れ臭かったのか……。

 やっぱり、可愛い。

 おじい様も、琉旺さんに厳しくしていても、やっぱり孫のことが可愛かったんだと分かって、私の中の『孫最強可愛い説』が裏付けられたような気がして、嬉しくなった。

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