将来のために

山田貴文

将来のために

「将来のために勉強しなさい」

 角井健は母親から毎日そう言われて育ってきた。今は死語となった教育ママというやつである。実際に彼はよく勉強した。小学生の時から家庭教師をつけ、複数の学習塾に通った。家にいるときは母親がつきっきりで勉強させた。当然ながら遊ぶ時間はなかったので、友達は全くできなかった。テレビはニュース以外見せてもらえなかったし、ゲームや漫画は論外だった。

 もうひとつ母親が口を酸っぱくして角井に言ったこと。

「将来のために貯金しなさい」 

 小遣いは貯めるのが基本で、使う時は厳しくチェックされた。買い食いや漫画などもってのほか。金を使うのは必要悪という価値観が幼い角井に染みこんだ。

 中学、高校は部活に入らず、空き時間はひたすら現役学生向けの予備校に通った。もちろん、一流大学に入るためだ。その結果、誰もが認める都会の有名大学に現役で合格して、初めて親元を離れた。

 大学生になると、角井は他のどの学生よりも真面目に授業に出た。もちろん、優秀な成績を修めて一流企業に就職するためだ。

 さらに空き時間はサークルやクラスの仲間との交流になど見向きもせず、すべてアルバイトを詰め込んだ。家庭教師、警備員、訪問販売等々。独り暮らしでも金はあったのに食べ物を最低限に抑え、服もほとんど買わなかった。痩せこけて身なりもボロボロだったが、角井は気にしない。入った金はその大部分を貯金し、四年生になる頃には学生とは思えない額の金が貯まっていた。

 大学四年間を通じて角井に女っ気はゼロだった。だが、一流大学を出て一流企業に入れば最高のお嫁さんが来ると親から言われていたので、全く気にしなかった。

 そして大学四年生に。超優秀な成績をひっさげて自信満々に就職試験へ臨んだところで初めての挫折。

 一流大学で成績が良ければ楽勝かと思っていたが、何社受けても、なかなか内定が取れなかったのだ。もちろん、普通の企業を受ければそれなりに取れたのだろうが、そんなところを角井は狙っていなかった。名だたる一流企業だけがターゲットだった。そのためにこれまで頑張ってきたのだと。

 一流企業の最終面接までは行くのだが、そこで落とされることが多かった。就職セミナーみたいなところに通って履歴書の書き方、面接の受け方、プレゼン技法等をひと通り学んでいたとはいえ、テクニックでカバーできることには限界がある。

 志望動機他の標準的な質問にそつなく答えたものの、面接官が角井に雑談をふると、途端に彼の人間的魅力の乏しさが露わになった。饒舌だった志望動機とは正反対に雑談ではしどろもどろになってしまうのだ。何しろ、大学のサークルに入っていない。友達はいない。テレビと映画は見ていないし、本も読んでいない。旅行には行っていない。その事実が判明すると、いつも面接官は呆れたように言った。

「いったい大学の四年間で何をしていたのですか?」

 ちゃんと授業に出て優秀な性格をおさめたからいいだろうと角井は言いたかったし、事実言ったりもしたが、面接官に好印象を持たれることはなかった。

 それに見るからに暗く、性格も悪そうな彼を同僚に迎えようという企業もなかなか現れなかった。実際に角井は暗くて性格も悪かったので、ちゃんと見抜かれていたのだ。

 とは言え、結果的には何とか大量採用をしていた外資系IT企業に入ることができた。労働環境についてあまり評判の良くない会社だったので、学生たちは滑り止め代わりに内定を取っては辞退しまくっていた。その結果、就職活動のシーズンが末期になっても採用が定員に満たず、焦った人事担当者が、もう来たやつ全員採用するぞモードに突入。角井の内定はまさにそんな時期だった。

 角井は営業に配属された。営業の給与は外資系によくあるコミッション制、つまり歩合給だった。売れれば給与は上がるし、売れなければ安い給料に甘んじることになる。当然ながら、会社が社員に貸した目標は過酷なほど高く、真っ当な手段では達成困難なものだった。

 心身を病んで休職、退職する同期が続出したが、角井は平気だった。と言うより、むしろ水を得た魚のようにいきいきと働いては好成績を上げた。この仕事は彼に向いていた。数字を上げるためには半ば欺すようにして顧客や代理店に商品を押し込む必要があり、良心があれば躊躇してしまうのが普通だ。ところが、角井には良心がない。生育の過程で他者への思いやりとか気配りを全く身につけてこなかった男だ。平気で無茶な販売をやっては営業成績を上げまくった。

 顧客や代理店から殺到するクレームの処理を他の社員に押しつけ、角井は涼しい顔をしてトップ営業の表彰を何年も続けて受けた。

 その結果、コミッションとして普通のサラリーマンではもらえるはずのない金額が毎月角井に入ってきた。彼はそれにほとんど手をつけることがなく、ひたすら貯金した。相変わらずぼろアパートに住み、食と服は最低限。酒は飲まず、煙草も吸わず、趣味も全くなかった。

 人からそんなに貯めてどうするのだと尋ねられると、都内の豪邸と高級外車を買うのだといつも答えたが、実はそのどちらにも全く興味がなかった。そもそも家や車を評価できる知識など角井にはない。その場しのぎで答えているに過ぎなかった。彼はひたすら自分でもよくわかっていない将来のために金を貯め続けていた。

 トップ営業として好成績を上げ続けた角井だが、いくらドライな外資系でも彼を管理職に昇進させようという上司はいなかった。あまりに人望がなかったからである。もとからの性格の悪さに加え好成績で天狗になっていたから、なお始末に負えなかった。

 こんなことがあった。昼休みのオフィスで同僚が趣味の話をしていた時のこと。同じ課の同期、山田が演劇が好きで毎月のように行っていると言うのが聞こえてきた。いつの間にかそばで話を聞いていた角井が山田に質問した。 

「おまえ、また芝居を見に行っているのか?」

「ああ。昨日も行ったよ」

 こいつが口をはさむなんて珍しいという顔をして山田が答えた。

「芝居のチケットって、いくらするの?」

 角井がニヤニヤ笑いでさらに尋ねる。

 山田がおよその金額を答えた。

「うわっ。高い。おまえ月に一回は行ってるんだろ?十二倍すると、一年でこんな金額になるぞ」

 角井は電卓を取り出して計算してみせた。  

「せっかくコミッションをたくさんもらっても、使ってしまったら意味ないじゃないか」

 こんなことを言うやつが人から好かれるはずはない。さらによせばいいのに、巨額の残高を記した預金通帳を同期に見せびらかしたりもしたから、なお嫌われた。

 角井は何度か体調を崩して入院した。原因は過剰労働ではなく、食う物も食わず節約したがための栄養失調である。医者や栄養士からこのままでは死ぬぞと繰り返し食事指導を受けたが、一切聞き入れない。退院すると、百円ショップで買ってきたジャンクフードをひたすらむさぼり食った。彼にとって食は滋養や楽しみではなく、体を動かすための単なるガソリンであった。もともと関心がないし、これまでちゃんと普通の食事をしてこなかったので、味の違いなどわからない。そんな無駄な物に金を使っていられるかというのだ。

 ある休みの日。角井は自宅で寝っ転がって預金通帳を見ていた。残高がついに大台を超えたのだ。それは都心のタワーマンションだって余裕で買えそうな金額だった。

 だが、彼にはこの金を使って何をしたいということが特にない。家も車も別に欲しくなかった。これまでは一流大学への入学、一流企業への就職という目標があったが、それらを一応達成した今、次の目標は何だろうと角井は考えた。

 嫁か。行きがかり上、これまで何度か女性とデートしたが、すべて一度きりで終わった。趣味がなくて話がつまらない。味がわからないので必ず料理にケチをつける。せこいから会計は一円単位の割り勘となれば、そうなって当然である。だが、彼は反省をする男ではない。二度目のデートがないのはすべて女性の方が悪いのだと考えていた。いや、正確に言えば少し反省していた。自分の貯金がもっと増えれば、もっとよい女が来るはずだ。まだまだ足りないと。

 ただ、角井にとって結婚は付随的なものであり、必須の目標ではなかった。彼は自分の人生の目標を何にするか考え続け、はたと思い当たった。そうだ、老後だ。よりよき老後のために頑張ろう。そのために金をもっと貯めようと決意した。

「駄目だ、これ」

 突然、彼以外に誰もいない部屋に声がした。ふと気がつくと、白い服を着た男が角井を見おろしていた。泣きそうな顔をしている。その男はふところから白いタオルを取り出すと、ふわりと角井の顔にそれをかぶせた。苦しい。息ができない。角井はタオルを取ろうとしたが、まとわりついてどうしても取れない。彼は胸をかきむしり、苦しみながら意識を失っていった。 

 ふと気がつくと、彼は浮かんでいた。下を見ると、自分が床に横たわっている。目と口を見開いたまま苦悶の表情を浮かべ、ぴくりともしない。死んでいるようだった。角井は自分の体に戻ろうとしたが、どうしてもできなかった。

 そこからは早送りのように時が流れていった。死んでから二日後に大家と会社の上司が合鍵を使って部屋に入り、角井を発見。警察と救急車がやってきた。そして葬儀は閑散としていて、お義理でやってきた会社の連中は薄ら笑いすら浮かべている。母親以外に泣いている人は一人もいない。角井はただその様子を呆然と眺めていた。

「もういいだろう。行くぞ」

 いつの間にか白い服を着た男が隣にいた。どこへですかと尋ねる暇もなく、角井は腕を捕まれると連れて行かれた。

 着いた所はひと目であの世とわかる場所だった。大勢の死者が一列に並んでいる。

「ここに並んでろ」

 白い服の男は吐き捨てるように言うと、どこかへ消えて行った。角井は列の最後尾についた。すると、前に並んでいた男が振り向いて彼に言った。

「君も守護霊に見放されたのか?」

 白い服の男は守護霊だったのか。そのわりには無愛想で俺の面倒を見るどころか、タオルかぶせて殺しやがったなどと角井がいろいろ考えるうちに列の先頭近くへ来ていた。

 そこには机がひとつあり、係員らしき男が一人座っていた。彼は先頭に来た死者を手元の書類と見比べながら左右のどちらに行けと振り分けていた。

 左は花が咲き乱れる白く光り輝く門。美しい音楽が流れていた。どう見ても天国だ。右はその逆におどろおどろしい黒い門。門の奥は業火の炎がはっきり見えた。聞こえてくるのは責め苦を受ける亡者の悲鳴。

 天国と地獄って、入口がこんなに近いのかと角井は驚くと共に、二者択一なら自分が天国に行けるはずはないと恐怖におののいた。そして、ついに列の先頭に。

 係員は角井の書類らしき物をひと目見ると、大声を出した。

「これ、駄目。連れて行って」

 いつの間にか角井の横にいた白い服の男は何度も係員に頭を下げた。

「本当に申し訳ありません」

 そして、角井をきっとにらむと、彼の首根っこをつかんで天国でも地獄でもない方向に引きずり出した。

「どこへ行くんですか?ぼくは地獄じゃないんですか?」

 叫ぶ角井。白い服の男はめんどくさそうに行った。

「あれは、ちゃんと悪いことをやった奴らが行くところだ。おまえレベルじゃ話にならん」

「じゃあ、どこに行くんですか?」

「おまえはもう一回生まれ直すんだよ。赤ん坊からやり直しだ」

「えーっ、地獄じゃないなら天国に入れてくださいよ。端っこでいいですから。人には好かれなかったかもしれないけど、ぼくは真面目に生きてきたじゃないですか。常に将来のことを考えて」

 白い服の男は突然、角井を地面に投げつけて彼をにらみつけた。

「それが問題なのだ。おまえはすべてを先送りにして、今を生きなかった。天国と地獄は、自分の人生に向き合い、結果をだした者が行くところだ。だけど、おまえは何もしなかったじゃないか。だからやり直しだ」

 再び引きずって行かれながら、角井は思った。また赤ん坊からなんて、気が遠くなる。もうやり直しはこれっきりにしたい。次の人生が終わったら、せめて地獄に行きたいものだと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

将来のために 山田貴文 @Moonlightsy358

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ