中野さんは勝ちたい
俺が要求したのは、アウトローのチェンジアップ。返ってきたのはインハイの直球だった。
なんとか飛びつき後ろに反らすのだけは防いだ。ボールは前にこぼれたがすぐに拾い、目で三塁ランナーを牽制する。
俺はタイムをかけマウンドの中野に声をかけに行った。彼女は肩で息をしていた。
「今のはサインミスか?」
そうでないことはわかっている。
彼女は息を整えて言った。
「先輩なら……捕ってくれると思いました」
7回裏、ツーアウト満塁。一打サヨナラの場面で信頼されたものである。
中野の大きく、澄んだ瞳が俺を見据えている。
──私は先輩を信じているのに、なぜ先輩は信じてくれないの?
彼女の瞳は強く訴えていた。彼女が直球にこだわっていることはわかっていた。
たかが研究室対抗のソフトボール大会で何を熱くなっているのか。
「寒くなってきたな」
冬の日の入りは早い。
初冬の風が俺たちの間を駆け抜けた。
(熱くなっているのは俺だ)
彼女に打たれてほしくない。
彼女に負けをつけたくない。
たかが親睦目的の球技大会で俺は何を本気になっているのか。何を恐れているのか。
なぜ彼女を信じないのか。
「暗くなってきたし、もう終わらせよう」
俺は彼女に背を向けて言った。
「さっさと終わって、カレーでも食いに行くぞ」
彼女がどんな顔をしているかわからない。ただ彼女は。
「……うん!」と返事をした。
守備位置に戻った俺はグラブをアウトローに構えようとしてやめた。
さっきのインハイは打者に対する見せ球にはなっていない。相手にはコントロールミスかサインミスとしか思われていないだろう。それでは打者の目線は変えられない。
それに細かいコントロールはもう今の中野には無理だ。
(だったら……これしかない)
俺はど真ん中に構えた。中野は笑っていた。
笑うのは勝ってからにしろ。そんなことを思っているうちに、彼女は投球動作に入った。
彼女の左腕がしなる。腕と足が見事に連動し、美しい回転がかかったボールが放たれた。
彼女の左手を離れた白球は、なにものにも阻まれることなく俺の左手に収まった。
バットが空を切り、ミットを打つボールの音が夕闇のグラウンドにこだました。
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