萩原朔太郎の散文─自殺の恐ろしさ
読みやすさを求めて今らしい仮名遣い・言葉に直しつつ……
自殺の恐ろしさ
自殺そのものは恐ろしくない。自殺について考えるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時における、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の五階の窓から、自分はまさに飛び下りようと用意している。遺書も既に書き、一切の準備は終わった。さあ! 目を閉じて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、ついに窓を離れて、身体が空中に投げ出された。
だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮かび、電光のように閃めいた。その時始めて、自分ははっきりと生活の意義を知ったのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかった。世界は明るく、前途は希望に輝いている。断じて自分は死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身体は一直線に落下している。地下には固い鋪石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!
この幻想の恐ろしさから、私はいつも白布のように蒼ざめてしまう。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事実が、実際に有り得ないということは無いだろう。既に死んでしまった自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの実験を語るであろう。彼等はすべて、墓場の中で悔恨している幽霊である。百度も考えて恐ろしく、私は夢の中でさえ戦慄する。
「自殺の恐ろしさ」萩原朔太郎『宿命』
やっぱり良い文章だな、と思います。萩原朔太郎の文章は今でも読みやすく、それでいてかっちりとした印象を受けます。完璧なバランスの文章。大好きなんですね、要は。
相当前の文章ですが、ちょっと共感できるところがあるのが面白いですね。倫理観というか、価値観が似通っているところがあります!
萩原朔太郎は「気弱で優しく繊細な、影響の受けやすい」という性格だったという証言がいくつも残っていますが、紙の上での彼はいつも雄弁で暴れん坊で……もう、可愛い。
萩原朔太郎が自分を解放できるのは、文章の中だけだったのかな、と思います。人の書く文章の中には良くも悪くもその人の秘められた性格が出る気がします。彼も、彼自身の抑圧された性格を文章に吐き出していたのでしょうね。
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