ep.27 星河一天



 ナタリー・ヴェシエールに残されたのは他人への過度な信頼。


 幾度の期待に添えられなくとも、裏切られようとも、死んでいこうともナタリーは人を信じ続けてしまっていた。


 取り憑かれているかのように、狂っているように他人を信じることが出来てしまう彼女は、自分にはそれしかないと思っていた。


 人間として在るべき姿を保つ一つの手段である他人との関わりに彼女は考えるのを辞めたような異常なまでの固執を見せていた。彼女は正常でありながら正常ではなかった。


「はあっ!」


 月も出ぬ日差しの中、海原から引っ張っているかのような水がディルバートに押し寄せるが全くもって無意味であった。ナタリーの操る水は風圧に押し返され、僅かにすり抜けるのはナタリーの意識下ではなくなった勢いのない滴り。


「無駄だ、私に全ての攻撃は通用しない」


 殺気。たった一歩でブリッジを後にするほどの大きな移動を行うが、それでも遅かった。ナタリーの左足には鎌鼬かまいたちに襲われたような傷が増えていた。


「うっ…………」


「大した野望も持たぬ人間が、この私の願いを邪魔するな」


「貴方のっ……願い?」


「そうだ」


 国連の左官以上の人間のみが着用しているオーバーコートが靡く。ディルバートは手を掲げ天にその願いの成就を祈っているようだった。


「私はこの世界が大嫌いだ」


 語り出しはそれはそれは大それたものだった。前人未踏の嫌悪はその口からすらすらと言葉になって現れ始める。


「無意味かつ無価値の人類が自然という奇跡的に与えられた恩恵を食い潰した上、行うのは自然という名の弱者を食らった強者の殺し合い。それが戦争だ」


「っ…………」


「人々は惰性でこの世に住み着き、乱し続ける。上位種である人間に歯向かうことが出来るのは同じ人間のみ。これからも神の存在を免罪符にしてこの地球ほしを穢すのだろう。汚しきったのなら、次は宇宙さえも。それは冒涜だ、この世に生まれ落ちた全ての生命と神に対する冒涜」


 自分は人間ではないというような口ぶりに唖然としながらもナタリーは剣先を彼に向け続けていた。


「だからってそれは貴方が自然と人を殺していい理由にはならない」


「その概念すら私は消したい。罪や罰という存在も、人間も、自然も、この世界も、全て!」


 ナタリーは自分なりに噛み砕いた結果、ディルバートはこの世の全てに絶望しているのだと考えた。為す術なく喰われ続ける弱者と、永久に喰らい続ける強者。その両方が憎くて仕方が無いのだろう。


「だから私は全て壊す。人類も、世界も、概念も、私すら、壊してみせる」


「その先に何があるっていうの?」


「分からないが、今の世界よりもマシであることを祈ろう」


 彼の思想に共感したくはなかった。しかし今の世の中にその側面がある事自体はナタリーは否定出来なかった。

 何かを生かし何かを殺す。それは本来、あってはならないはずなのに、いつしか人はそれが当たり前であると刷り込まれ、生活に浸透しきっていた。


「その世界で貴方は何を……」


「そんな素晴らしい世界に私なぞ居る必要が無い。私の目指す理想が叶った時、私は自らの命を絶つ」


 彼はその先を見届けるつもりは無かった。その世界に観測者など存在しなかった、する必要が無いとディルバートは考えていた。それはあまりにも傲慢な思想であった。


「最初はちょっとアリかなって思ったけど、やっぱり歪んでいるんだね」


「そんなことは分かりきっている。他人の普通など私にとって苦痛であり私が抱く幸せは君達が忌み嫌うものであることなど、君に言われなくともな」


「へぇ、でも、私の答えはもう出てる」


 アルメストリアは海の全てを味方につけるように大量の水を巻き起こし、風を司る魔術師を脅かす。


「死にたいだけの貴方に、私は抵抗してやる」


「ほう、来るがいいさ」


「はあッ!!」


 剣に纏わせた流水は迷わずディルバートに突っ込んでいく。当然のように風圧で防がれ届くことすらなかったが、もう一度ナタリーに視線を向けるとブリッジに彼女の姿はなかった。


「ふむ」


 風によって自らを押し上げ浮いているディルバートの背後を取ったのは一度デッキの地面を踏み、ひとっ飛びで彼のいる空中にまで辿り着いた。ギラギラとした彼女の目つきは今にも男の命を刈り取ろうとしているようだった。


「てやあああっっ!!」


 両手で握った剣を全力で振るが、今度は竜巻が彼女を襲う。切り傷は増えていくばかりでディルバートに一撃すら与えられない中、その風を断ち切るようにナタリーはその剣を振り切ることに成功した。


 だがディルバートの身体にナタリーの剣が触れることはなく、既に彼は移動していた。船頭側に移動していたディルバートは若干口を歪ませながら彼女を評した。


「決して私に攻撃が当たるはずないというのに、己の損傷を顧みずに仕掛けてくるとは。君は相当肝が据わった……いや、君も君の考える私と同じか」


 その言葉にナタリーが反応することは無かった。


「君も死にたい訳だな」



 死にたがりは他人に強要をしていた。生きて欲しいと他人を想い、信頼し続けるという罪を背負い、他人が死んでいく罰を与えられた。


 そうやって出来上がったのは絆という名の他人を縛り続ける呪縛。人の一生に縋り寄ってくる寄生虫であり、人の行いを永遠に制限する足枷。


 そう成り果てた彼女が、彼女に縛られた人間が解放される唯一の手段は彼女の死であると、彼女自身はそう考えた。


 何があっても人を信頼するなどというエゴにまみれた思想と、数えきれないほどの別れによって助長し続ける狂ったプライドに、その意識もない中で幾度も押しつぶされそうになっていた。


 正しいかどうかも分からないまま今まで生き続けた彼女を清算する機会は何度も訪れたが、死への恐怖はそれをも上回る。


 しかし、今のナタリー・ヴェシエールは不思議と軽い気持ちでいられた。



「貴方と一緒なんかじゃない」



 目の前の男とは根本的に違うと心から信じていた。死は呪縛からの解放ではなく、新たな鎖であると身をもって理解していたからだ。


 同じことを繰り返しても届くはずのない願いを込められ、乗しかかる重圧も、日を増す事に強くなっていく。生きていて欲しい、軍の悲願を叶えて欲しい、数多の願いを受け取った彼女は願望の塊に成りかけていた。


「死ぬのが怖いわけじゃない。今でも怖いし死にたくないよ、私は」


 ナタリーの背後には既にアルメストリアの準備を終えていることを指しているかのような流水が無数に流れていた。その全てが集えば大河を作れるかの如く。


「でも、今の私には託せる人がいる」


 アルメストリアはディルバートの風に向かって全力で飛んでいくと同時にナタリーもまた傷だらけのその足を動かした。既に額から流れる血によって世界は半分紅くなり、まともとも思える四肢は何一つない。


「無様な姿で私に抗おうとするな、私と同じ世界に絶望した者よ」


「そうかもしれないけど!」


 グラシアナ・カベーロの護衛をした時、印象に残ったのはその横顔だった。綺麗なはずなのに、何処か全てを諦めているようなその顔に悲しんだ記憶もある。結局それは分からないままであるが、今なら天才の思考も理解出来なくもないともナタリーは思えていた。


 アルテュールとフリッツの間接的な衝突を見た時、自分に同じ事ができるとは思えなかった。自分に確かな自信も持てず仲間に対して怒りという感情が湧くことがない自分は酷く不出来かもしれないと思うきっかけにもなった。


 マスト・ディバイドと再会した時、厄介だと感じたと同時に二度と会いたくないとも思った。このような思考はとうに捨てた筈なのにもしかしたらと考えてしまう。もし戦場では無いどこかで会った時、何かの巡り合わせで邂逅した時、果たして彼は厄介な相手であるのかと。


 今までの人間全てに会えてきたからこそナタリーは。


「私には人の全てを諦めることなんて出来ない!」


 全ての水は彼女と一体になるかのように動きその全てがナタリーと共にディルバートに覆い被さった。風圧と鋭利な風邪によって防ぐはずの彼はそれが効いていないようにも見える魔術とナタリーにほんの少しの焦りを見せた。


「何!?」


「はああああああああああああああっっっっっ!!!!!」


 間髪入れずに加えた流水を纏った剣の一撃は見事にディルバートの右胸を貫いていた。よろめく彼と共にコートが揺れ動く。


「はぁ、はぁ……」


 自身の血で足跡が作れそうな程に傷つき息を上げるナタリーが剣から手を離し、彼から数歩ほど離れようとしたその時だった。


「ふん!」


 風を司る魔術、エスペランサはナタリーの身体を見えなくなるまで吹っ飛ばした。あまりにも強烈で、致命的な一発だった。


 衝撃で艦内にまで入り込んだナタリーを最初に見つけてしまったのは彼女のその姿を見て静かに泣く男だった。


 朦朧とした意識の中、自分を抱え上げる男とその傍に立つもう一人の青年を血が滲んだ瞳で視る。


 震えた唇で血だらけの彼女に触れた男の名前をナタリーは呼んだ。


「そんなに、悲しまないでよ、ワイアット」


「…………」


「そんなに泣かれ、たら、私。死にたく、なくなっちゃうから」


 横にいるマストはワイアットの後ろ姿ばかりを見るだけでその顔を見ようとも思えなかった。


「あなたの、やるべき事は、終わったみたいね」


「…………ああ、あの男に反対するヤツらの避難は終わった。ミサイルもマストが止めてくれた。だからアンタに……アンタは…………」



 振り絞った言葉に彼の涙が伴う。手に入れたものを失うワイアットがその瞳に映したのは他でもない、ナタリーであった。



「生きてくれよ……!!」


 その言葉を聞くと、彼女は微笑んだ。残り僅かな体力がその笑顔を彼に届ける。


「ワイアット」


「……っ」


「説得力、ないかもしれないけど、人は信頼しない方が……いいかも」


「俺は、アンタを信用したからここまで来た……っ!! そんなこと、言わないでくれっ!」


「でも」


 彼の今あるだけの想いを聞けたのが嬉しい。頷くナタリーの言葉には続きがあった。


「でも、本当に信じられる人に出会ったら、その人のこと、大切にしてあげて。死にたいなんて寂しいこと、もう言わないでね」


 その時初めてワイアットはあの夜のナタリーの全てを知った。


 生き抜く為に人を知ろうとし、欺瞞であろうと世界を知ろうとした。そんな彼を誰が悪く言えるだろうか。


 酷い人間であるとナタリー自身も自覚していたが、それでも伝えたかった。


 その全てを何処かへ置き去えば楽になれたかもしれないが、それは彼女の想いに反した。だから、その全てを込めた願いを彼に託したかった。それが彼女に出来る、最期のことだった。


「ワイアット」



「っ…………ナタリー……」



「がんばって」




 世界も知らない、人も知らない未熟な少年の腕でナタリー・ヴェシエールは散った。彼女の瞳は閉じ、映るものは一切無くなった。


 眼前で死んだ彼女に向かってかける言葉は思いつかなかった。ただ名前を呼ぶことしか出来なかった。もう少し教養があればとも思ってしまう。


 過去を尊重し、未来を気楽に考え、現在いまを信じた彼女を尊敬している。無垢な心を持つ少女のような存在は戦禍の中でも一際輝いていた。たとえそれが報われぬ理想であったとしてもそれを胸に抱いて生きていくという決心が彼にはあった。


 ワイアット・ヴェゼルは抱えていた亡骸をそっと置き、腫れた瞳を擦り世界を見た。


「マスト、俺からも頼む」


 その瞳が映す世界に彼女は居ない。しかし、その世界に彼女の遺志は確実に遺されていた。


「協力してくれ」


「……ああ、勿論だ」



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