003. 迷走し、奔走する
地獄だった。
五年前は、地獄だった。
彼等は血と泥濘と死体を乗り越えていた。右にも左にも、そして前にも仲間はいた。彼らと共に生きたかった。それも叶わぬ夢だった。
そんな過去もあった気がしていた。
忘れたくとも忘れない過去だ。
いずれ、話さなければならない過去が彼には在った。
「中尉? どうかしましたか?」
問いかけられグレイスは目を開く。そこには黒髪黒目、グレイスが思う典型的な日本人像の塊、櫻井潤だった。
「ぼーっとされていたような気がしましたよ」
ここ最近グレイスは気づいたらどこか遠くを見ていることが多い。それは本人も気付かぬうちに。
あの三人との昼食を済ませてから談話室で一人、作業をしようとしていたところ潤はグレイスが窓の向こうを見ていることに気付き声をかけたそうだ。
「いや、少し疲れてるだけさ」
「お疲れなら自室に戻って休んでは? その仕事自分がやりますので」
こんなに少ない会話でも謙虚かつ真面目、人に気配りができる他自ら進んで仕事を請け負うという性格が垣間見えている、そうやって深読みしすぎたグレイスは今思っていたことを隅に置き遠慮する。
「気遣いありがとう、だがこれは潤にも他のみんなにも開示できない資料なんだ」
それなら何故こんなところで、と言いたくなるがグレイスは仕事よりも仲間との交流の方が全てにおいての作業効率が上がると踏んでいるため、准尉になった時からこうして談話室などで仕事を済ませている。
だが、それと同時に窓の向こうに見えるどこか遠くを見つめる機会も多くなっていっていた。
「そうですか…」
彼はほんの少ししょげた。仕事が減ることを喜ばず、少し悲しそうに喋る。それに気付いたグレイスは彼をなだめる。
「すまないな、今度他の仕事を受け渡すよ」
こう言うと潤は笑顔を取り戻す。余程自分の役に立ちたいんだろうと感じるも、グレイスは続けざまに話す。
「勿論、自分の仕事を済ませてからな。それと砕けた喋り方でいいぞ」
「…はい!」
最後に潤と自分を気遣い、言葉を付け足す。会う度にそう言っているのに治さないのはやはり自分に何か特別な念を持っているのか、と考えるグレイス。
何故グレイスのことになると自分の身と時間を削ってでも助力しようとするのか、付き合いがまだ浅いせいか潤の抱く気持ちをいまいち理解出来ずにいた。
重要資料、と言っても国連本国に届ける『ブレイジスの大戦五年目の動き』の考察という本来なら誰でも出来るような論文じみたものであった。佐官以上の階級を持つ者全員と一部の尉官へ配られるこの資料は、上の人間は大体あてにせず届いた瞬間ゴミ箱に投げ捨てるようなものなので、結局は体だけのものなのである。
意味が無いのだ、これには。
これを書く殆どの者は現実味の無いふざけたような話でその全てを適当に済ませ、目の前の戦いに集中する。斯く言うクライヴもそうやっている。
ただ、グレイスは『一部の尉官』に位置する存在、上層部にも一目置かれていることは目に見えてわかっている。彼等の頭が回っていないのは明白だがそれでも失望させまいとこうして真面目に文を綴っている。
五年の間にそれまで生きていた将校達は殆ど死んでしまった。それまで決定的な地位を持っていなかった者達が上層部となり国連を回そうとしているのをグレイス他、まともな人間はあまり良く思っていなかった。
彼らがどうやってこの戦争の現状を維持しているのかはグレイスは理解することが不可能だった。
だが、少しでもこの状態を続けられていることは評価すべき所であり、こうしてガーディアンズの一兵士として彼等についていける一つの理由だとグレイスは推し量っていた。
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作戦前日の夜、魔術師全員はクライヴから司令室に呼び集められていた。
「明日は久方ぶりの最前線の押し上げだ、気を抜かない方がいい」
二ヶ月ぶりの戦線の進撃は潤とガルカの緊張感を最高潮にするのは容易だった。クライヴの言葉の意味には気は抜かずとも肩の力は抜けというメッセージが込められているが、その真意を理解するしない以前に理解しても何を言っているか意味が分からないのである。
潤とガルカ、二人の新米魔術師による実戦はこれが初。本国の訓練校での最後の試験は例年通り
これはグレイスやその前の代から行われていた試験で一部の地域に小さな戦場を造り、そこで擬似的な闘いを行うというもので銃弾は勿論魔術も制限される。
この欠陥的で致命的なシステムは何年経っても改善されず、魔術師は実戦としての魔術を行使出来ないまま本当の戦場へ送り出される。
彼らにとってはそれは苦以外のなにものでもないが、こんな人数で抗議をしても変えられない普遍的なものである。
「一般兵のみなには既に伝えた、あとはお前らがどれだけ活躍できるかだ」
クライヴはドライシガーを口にくわえてグレイス達に話しかける。仕事熱心で身体も心も熱いニンバスは今すぐにでも葉巻の先端に水をかけてやりだろうと思うグレイス。
「私達新兵は具体的に何を?」
口を開いたのはガルカ・ヒルレー一等兵。
「ああ、これから話す」
そうやってクライヴは再び切り出す。
「今回行うのはさっき言った前線の押し上げの他、その向こうにある武器庫の破壊だ。これはニンバス、マスト、そしてガルカの魔術師第二分隊がメインとなって奇襲する」
マストの魔術で出来るだけの物資を運搬ニンバスの魔術による炎の力で武器庫の炎上、ガルカが援護となる。
「そして、グレイス、グルニア、シルライトに櫻井は真正面からの戦闘だ。思っきりやってこい」
第一分隊は主に先頭に特化した部隊。グルニアの持つ少しながら属性を与える銃弾。シルライトの雷鎚。潤の氷炎の剣、そしてグレイスの刃の創造の力をもってすれば突破も容易であるとグレイスはクライヴと事前に話し合っていた。
「相も変わらず敵の指揮官は俺と三年間もこの戦線で戦いあってるスレヴィ・パーシオって奴だ。あいつ自身は前線に出ないだろうが指揮能力は確かだ、たまに変な戦法も使うから潤とガルカもその程度で驚くなよ?」
「了解です!」
その男は三年もクライヴも戦ってきたのだ。名前だけ知っていて顔こそ知らないグレイスは彼の好敵手ということもあって敵ながら興味があった。
だが私情は交えず戦闘に向き合うグレイス、その目はとても凛々しかった。
「じゃあ前日の会議は終わり、寝るやつは寝る、寝ねぇやつは寝ないで頑張ってくれ」
「了解」
全員が声を合わせ退出していく。グレイスには隣ですれ違ったガルカと潤の内緒話が耳に入った。
「やっぱ緊張するなぁ司令室は」
「その気持ちは分かるけど外に出てからにしてよ」
まずかったか? と言いたげな顔をしながら外に出ていく。
残ったのはニンバスとグレイス、そしてクライヴとなった。
「俺達を残した理由はなんです? 世間話するにはグレイスだけで充分でしょうに」
公の場ではない状態のこの場で、ニンバスは冗談めかしてクライヴに問う。
「二つある、一つはグレイス、もう一つは戦線全員が関わる」
顔を合わせ、疑問を浮かべるニンバスとグレイス。グレイスに関係する方は大体の見当がついていたが、後者については二人ともわかっていなかった。
「まずは戦線全体の話だ、なんなら俺個人の話と言ってもいい」
もしや、という顔をしたげなグレイス。ニンバスはクライヴの話の切り出しとグレイスのあからさまに出した表情でなんとなく分かってしまったような動きをする。
「三週間後、晴れて本国に帰国することになった」
やはりか、そう思うグレイスであった。
「転属、ということになるのでしょうか?」
「そうだな、どうやら俺は国連に認められるくらいには活躍したらしい」
ふざけ半分でクライヴは言うが実績は確かではあった。
「俺の後は俺の旧知の仲とも言うべき奴が引き継ぐ。安心して任せられる程の実力もある」
クライヴはこのアリアステラ戦線を三年間も守り続けた、それほどまでに彼に合っていた仲間達とこの場所を引き離し、新たな上司は未知なる存在。グレイスは不安だった。彼がそれほどまでに信頼を寄せている人間をグレイスは知りたかったが今は目先のことに集中していたかった。
「次の話していいか?」
「俺は大丈夫ですよ、結構ぶっ飛んだ話でしたけどね」
ニンバスはグレイスを横目に言い、グレイスはそれを見てクライヴに頷く。
「次はグレイス、お前の話だ」
「また、ですか」
「ああそうだ、お前の例の話だ」
若干鼻で笑いながらクライヴは言う。
「これほど断っているのに何故こんなに…」
「そりゃあお前が英雄で、人柄も良く顔も整っているからだろ?」
ニンバスはグレイスを茶化し、それにクライヴはくすりと笑う。
二、三年ほど前から彼には見合いの話が何件も来ていた。
英雄、という言葉を苦手としているグレイスにとって、それらを理由に結婚を迫ってくる裕福な家庭達は軒並み断っていたがいくら断ってもよってくる者達もいた為、グレイスは彼女ら、そして見合いをけしかける彼女らの親に呆れていた。
「この際一回受けてみたらどうだ?」
クライヴがグレイスに一度だけでもソレを受けることを提案してくる。
「そうした方がいいぜ」
ニンバスはそれに便乗する。
「そうするべき、なんでしょうね」
グレイスは彼らに賛同するが心の内ではひたすらに迷っていた。
「ですが、この戦いが終わってからに考えさせていただきます」
「フッ、そうしてくれ」
クライヴはグレイスの言うことに了承し、グレイスとニンバスは部屋から出ていく。
戦いが終わってから、そう言ったグレイスの心中は多少の犠牲があろうと勝つ自信しかなかった。犠牲は出ないのが勿論一番だがグレイスは小を殺し大を得る戦い方が得手だった為に、かつては反感を買っていた。
それでも彼はどんな自分であっても自身は自身であり続けたいと願っていた。
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