ひとり科学部の護丘先輩は全面的に規格外

稲井田そう

第1話


 午前と午後の間の休憩時間。授業が終わった生徒たちが各々昼を求めて行き交う廊下は、私の周りだけが酷く歩きやすい。アーチのように投げかけられるひそひそ声を振り切りながら食堂へ向かい、食券を購入していく。


 高校に入学して、三か月。


 友達と呼べそうな人は、一人もいない。


 元々、同じ中学の同級生はここにいないし、もっと言えば私から積極的に友達を作ろうと動くことはしていない。


 だからこの高校の特色とされる、「皆が楽しんで食事ができるように」と、有名建築士が手がけた開放的な学食で、私が一人今日のお昼が出来上がるのを待っていることは、当然でもある。


 例年の最高気温を遥かに上回る今日の暑さは、いつもなら外で弁当を食べていた学生たちが食堂になだれ込み、大盛況となり、私は壁にもたれかかり、プラスチックのコップで麦茶を飲みながらひたすら注文した品物を待っていた。


 すぐに食べられると思って注文したけれど、冷やしたぬきうどんは失敗だったかもしれない。カウンター越しから見える調理場では、おばさんたちがせっせとトレーの上に料理をのせ、学生を呼んでを繰り返している。


「おっ丁度いいところにいた!」


 快活な声が間近に聞こえ、反応しないように視線を床に固定する。


 声はすぐそばで聞こえたけれど、どうせ私を呼ぶものではないはずだ。この学校に、私に話しかけようとする存在は先生たちしかいない。


 しかし、私の予想に反して 自然に湧き出たかのように私の目の前に誰かが立った。


 私の後ろは、ただの壁。ポスターが貼ってあるわけでもない。


 躊躇いがちに顔をあげると、強い原色の、まるで夏を投影したような煩いオレンジのTシャツに白衣を羽織り、かと思えばスラックスを七分丈ほどにまくりあげた、季節感がちぐはぐな男子生徒が立っていた。


「俺に五分くれねえ?」


 発された言葉の意味が分からない。ふざけて私をお昼に誘えるほどに、目の前のこの男は馬鹿なのだろうか。それとも、私が皆にどう言われ、どういう扱いを受けているのか知らないのか。はねた黒髪にいかにも明朗そうな笑顔は、私を馬鹿にしてなのか、元からこういう顔なのか分からない。


「すいません。無理で……」

「303番でお待ちの冷やしうどんの方ー!」


 その場を立ち去ろうとする私に、おばさんがうどんの完成を知らせてきた。


 とりあえず、逃げよう。そう考えてうどんの乗ったトレーを受け取ろうとすると、目の前の男は私の持つ食券を当然のように奪い、鮮やかな手口でおばさんからトレーを受け取った。


「あそこで食お。エアコンが直撃しない位置、日差しが直撃することもない。不快指数もそこまでじゃねーし完璧だろ?」


 冷やしうどんが誘拐にあってしまった。私は軽やかな足取りの背中を追わざるをえなくなり、横目で周囲を窺っていると、男を見て生徒たちはぽつぽつと「ていりせんぱいだ」と呟いていく。


 どうやら冷やしうどん誘拐犯は有名な先輩らしい。もしかして人のお昼を拉致することで有名なのかもしれない。


 座席に到着すると、ていり先輩とやらはようやく私の冷やしうどんを解放……もといテーブルに置いて、私の元へとずらした。


「そういや名乗るのが遅れたな。俺の名前は護丘定理もりおかていり、二年でお前の先輩。よろしくお姫様」

「は?」

妃咲鈴ひさきすずちゃん。姫みたいなもんじゃん」


 私の名前を知っていながら、にやりと口角を上げる。そんな表情を見て、呆れた。このまま冷やしうどんを確保して逃げてしまおうか。


 しかし、そんな思惑を見透かすように護丘先輩は椅子を引く。何故か私も席に座らないといけないような気持ちになって、渋々座った。


「じゃあ今から俺の話を聞いてもらうからな。安心しろ、俺は約束を守るやつだから。しっかりお前の五分を貰うけど、それ以上を奪うことはしねえかんな」


 護丘先輩は折り畳み式の携帯電話を操作して、こちらに画面を見せる。一体何の話をする気だろう。何か怪しい勧誘か何かか。さっさと昼と済ませようと割りばしに手をかけていると、先輩はカウントダウンのスタートボタンを押したのだった。





「さあ、今から始めるのは、俺とお前の前世の話だ」


 そう、神妙な面持ちで切り出した先輩を、担任やカウンセラーさんに相談しなかったのは、私の人生の失敗だろうと思う。


 舞台は中世。私は国のお姫様。先輩はお姫様を守る執事で、お姫様は隣の国の王子様と結婚する予定だった。いわゆる政略結婚というもので、国同士の和平を目的とした結婚らしい。


 しかし、隣の国の王子様は、結婚する気なんてなかった。お姫様の国の王様に復讐することが目的だったらしい。


 という話を、きっかり五分で聞かされた。護丘もりおか先輩の話は余りに荒唐無稽で突拍子もない話だったけれど、臨場感もあり、先輩の言葉によってその出来事を追体験するようで、引き込まれなかったといえば嘘になる。


 それからは、坂を転がり落ちるのと変わらなかった。


 自分でお弁当を作るにも、買い出しが必要で、学校の往復以外許されていない私は、昼を食べるには食堂しかない。


 私には選択肢というものが、昼に何を食べるか以外全く存在していなかったから、この一か月、前世の話を聞きながら昼を食べるしかなかった。


「……よ! 今日は冷やしうどんか?」

「……はい。暑いので」


 そして護丘先輩は、今日も私の前に現れた。


 正直知らない後輩を捕まえ前世の話などスピリチュアルめいたことをするなんて正気を疑う。


 しかし食堂の周り、窓際最後方のこの席は私の存在によって誰も近づかず、傍にあるのは温かみのある空間を演出するやたら大きな観葉植物だけ。


 先輩は皆に背を向けるよう座っているから、周囲からは先輩が熱心に話をしているにもかかわらず、私が不愛想に昼を食べている様子しか伝わらないだろう。だから助けは来ない。私が困っていることが分かったところで、助けようとする人間なんて、この学校にはいないけど。


「うまそうだな、一口くれよ」


 当然のように開いた口に、態度に出さないまでも驚きを覚えた。


 なんで私が口に入れてあげなきゃいけないんだと思いながら、トレーごと目の前の先輩にずらす。少しギザギザしたように思える歯は、「あえ?」なんて間抜けな声と共に形のいい唇に隠されていった。


「怒んねえんだ?」

「自分で食べてください」

「いいの? 俺全部食うよ?」

「じゃあなしで」


 新手のストーカー。そう名付けるには不明確で曖昧だ。というかこの護丘先輩とやらは、これまで「前世の話を聞いてくれ」以外に好意も、金銭も、何一つ求めてこない。


 ただ昼を食べる時、一方的に中世の話をするだけ。ひとしきり私にそれを話して、去って行くだけ。後されていることはと言えば、「じゃあな姫」とか「マイプリンセス」とか言って、ひらひら手を振ってくるか、ピースをして人差し指と中指を曲げるくらいだ。


「つうかまじで最近熱いよな。食堂でアイスとか売ってくんねえかな」

「じゃあ白衣脱げばいいじゃないですか」

「白衣は俺のアイデンティティなんだよ」


 自分の白衣の襟を引っ張り、暑さを強く主張してくる姿に構うことなく冷やし中華に口をつける。護丘先輩は科学部に所属していて、いくつか賞を取っているらしい。


 昇降口にある、ガラスのショーケースの中に並ぶトロフィーや賞状には、先輩の名前が必ずあった。最優秀という言葉と共に。


 先輩を廊下で見かけたこともあるけど、体育以外常に白衣を着ているみたいだし、そういう行動が許されるのは成績がいいと黙認された結果なのだろう。


「じゃあ実験のふりして作ればいいじゃないですか。液体窒素とかで」

「あー。もうそれやってるんだよな。でもやっぱ自分で作るのと食堂で買って食うのは違うじゃん?」


 そんな事を言う割に、護丘先輩は食堂で昼を食べない。昼に食べると眠くなってパフォーマンスが落ちるかららしい。それを聞いた時、「俺に興味が出たのか?」と先輩はちょっと目を輝かせていて、聞くのを後悔したのは二週間前の話だ。


「そうだ。お前作ってくんない? アイスの液」

「は?」

「そしたら俺凍らせてやるから、ビシャーってかけて。まじ一瞬だかんね」


 ――放課後にでもすっか。


 そう付け足された言葉に、しんと頭の奥が冷えた。そんな時間、私にはない。科学室を与えられ、放課後の下校時間ぎりぎりまで好き勝手実験にあけくれ、先生に注意されてもなお態度を改善しないこの人と私は違う。


 いっそのこと、言ってしまおうかと思った。私と会ったことがないにもかかわらず名前を知っているのだから、きっと私の噂だって、この人は知っているのだろうから。


 苛立ちにも似た感情が、ふつふつと心の底から湧いてくる。でも、それをぶつける相手を致命的に間違えていることはよく分かっていって、私は押し黙った。


 それから、私が黙っても尚、先輩は気にせず前世の話をし始めて、いつもと同じように五分が経過すると私の前を去ったのだった。




「鈴」


 アスファルトのでこぼことした地面を見つめながら校舎を出ると、斑津ふづ先輩が立っていた。夕焼けを受けた姿は一枚の絵のようで、周囲は彼を振り返って見ている。会釈をすると冷えた目をこちらに向けた。


「帰るぞ」

「はい」


 斑津先輩は私が着いてくることを当然とするように歩き出す。私もそのまま、足を止めることなく後ろを着いていくと、彼は親指の爪で自分の人差し指を刺し、それを何度かしてからこちらを振り返った。


「今朝何も連絡が無かったが、何かあったのか?」

「いえ……忙しくて、ごめんなさい」

「ならいい。次からは無いようにしろ」


 声色から、心配の温度は感じない。やるべきことをやらなかったことへの、純粋な注意だ。婚約者である私が連絡をせず学校に行ったことに対して――いや、移動をしたことに対して。


「最近、昼に食堂に滞在する時間が増えてきたが、何かあったのか」

「いえ……最近疲れていて、食べる時間が遅くて」

「そうか」


 私の返答に満足したのか、斑津先輩の雰囲気が若干柔らかくなる。それでも、この人を前にすると息苦しく、触れたら切れてしまうような糸を周囲に張り巡らされている気持ちになることに変わりはない。


 高校一年生。


 普通に付き合っていても、結婚なんて話になるとは到底思えない。だけど私の家は、会社を経営していて、お父さんはそこの最高責任者。その父の娘である私は、いわゆる社長令嬢というものだった。


 でも、いかにも大金持ちで裕福です! という会社の規模でもなく、おそらく社長たちの中で父は貧しいランクに入るし、その娘の私も、社長令嬢の中では一般家庭寄りの部類に入る。


 しかし、そんな私を自分の婚約者に指名したのが、今どこか納得いかない様子で私が返事をした斑津先輩だった。先輩は明らかに格上の、いくつもの会社を経営するグループのトップの息子で、明らかに釣り合いが取れていないにも関わらず、中学生の頃に私を婚約者にしたいと言って、婚約した。


 私が大学を卒業すると同時に結婚が決定しているけれど、それまで婚約の事実は伏せ、あくまで恋愛結婚である体を装うという双方の両親のシナリオのもと、今に至る。


 容姿も整い、学内での成績も優秀。そんな斑津先輩が、何故私を婚約者にしようとしたのか分からない。彼曰く一目惚れだと言うけれど、私はそんな容姿はしていない。


「明日の朝の連絡は忘れるなよ。あまり続くようなら、君の両親に送迎をするよう進言する」

「ごめんなさい」


 駅で別れ、私の姿が消えるまでじっと見つめる先輩の視線から逃れるように、近くの角を曲がる。


 私は毎日、毎日、毎日、朝起きたら斑津先輩に連絡を入れ、家を出ても連絡を入れて、学校に着いたらまた連絡を入れて、そして学校から出て、家から帰って、夜眠る前に同じように先輩に連絡を入れなくてはならない義務がある。


 どこかへ出かけることも、友達と遊びに行くことも斑津先輩に伝えて、そして却下される。私の両親も、それが不当だとは思ってくれている。でも、斑津先輩や先輩の家を敵に回せば、生きていけなくなってしまうから、励ましたり慰めはくれるけど、何もしてはくれない。


 こんなこと、おかしい。歪んでいると思う。


 そう考えた私は、私立受験の入試のとき問題をあえて半分ほど解かなかった。


 私は斑津先輩と同じ高校へ行くことを強く求められていて、その為に寝ずに勉強することを強いられていた。食事の時間やお風呂の時間まで短縮を求められるほどで、家族や周りの大人たちは皆高校受験が終わるまでの辛抱だと言っていたけれど、私にはその苦しみがこれから続く先の見えないどこかへの一歩に感じて、怖くなったのだ。


 結果、先輩と別の高校に通えることになったけど、私は高校入学までの間、外出を禁じられた。


 日々海の底へと潜っているような生活だなと、斑津先輩を前にする度に思う。


 でも先輩は、聡明で、口数が少ないだけで優しく、大らか。そう周囲は評価し、私の人権を静かに削ぎ落としていく振る舞いも「心配性」だからと片付けられている。私が何を言ったところで、何も変わらないし、事態は悪化するだけだ。


 だからせめて、昼の間だけは自由に、外に食べ物を食べに行くなんてことは出来ないから、好きなものを食べたいと食堂に通い、私は護丘先輩のスピリチュアルめいた前世の話を聞きながら昼食を済ましている。



妃咲ひさきさんってさあ、誰とも絡みないよね、結局どんな性格なんだろ」

「やめなよ、呪われるよ?」

「勿論話かけはしないよ。怪我するの怖いし」


 斑津ふづ先輩に待ち伏せをされた翌日。お昼を食べるために食堂の券売機に並んでいると、目の前の女子生徒たちがメニューを選びながら私の話を始めた。


「そういえば昨日めっちゃかっこいい人と歩いてるの見たよ。あの進学校のさ、名前なんて言うんだっけ。真っ白な制服のとこあんじゃん。あそこの制服着てた」

「え?幽霊じゃない?」

「絶対違うでしょ。だってあの子をカラオケに誘った野球部の男子、腕折られたんでしょ? 絶対妃咲の呪いじゃん」


 明確な悪意はなく、面白半分と緩やかな軽蔑が混ざった言葉を浴びせられるのはもう慣れた。今だって、私が後ろに並んでいることに気付いている様子はないし、私に伝えるつもりはないのだろう。


「うわっ妃咲じゃん」


 しかし、私の後ろに立った男子生徒が怯えた声をあげ、女子生徒たちはぞっとした様子でこちらを振り返った。どうしていいか分からないと言わんばかりにおろおろして、顔を見合わせている。


「すみません。券売機使いたいんで」


 お金を投入して、ぱっと目に入ったものを購入し私は食堂の中へと入った。中は賑わってはいるけれど、私が通った後の道は必ず静まり返っていく。券と引き換えにランチセットを受け取って席につくと、間もなくしてトレーを持った護丘もりおか先輩が隣に立った。


「よう、待たせたな」


 周りの生徒は、私に声をかけ迷惑そうにされても尚、何事もない護丘先輩を見て、複雑な表情をしている。いわくつきに話しかけても、今のところ怪我はしていないけれど、きっといつか酷い目に遭うのだと、少なからず心配はしているみたいだ。


 護丘先輩は、分かりやすく変人だ。制服の上から白衣を着て廊下を歩くし、化学室を勝手に私物化して、勝手に化学室に機材を持ち込んで授業を抜けて実験を繰り返しているなど、漫画のキャラがすることを日常として行っている。


 でも、悪人ではないし、明るく気さくで、人に避けられるわけでもない。


 人に囲われている感じがしないのは、悪人ではないといえど変人だからか……私といるからか。


「さーて飯だ飯だ」


 護丘先輩が私の隣に椅子をぴったりとくっつけるように座ってきた。私は静かに拳一つ分の距離を開けて座りなおす。抗議するように視線を向けると、ちょうど護丘先輩の首筋にみみず腫れのような痣が見えた。


「何えっちな目で見てんの」

「いや見てませんし、……どうしたんですかそこ」

「白衣かぶれ」


 確かに、さっき見つけた時はどきっとしてしまったけど、よくよく見てみればかなり年季が入ったように見える。少なくとも、私と出会って以降ついた傷ではなさそうだ。


「つうのは嘘で、実は前世で取り返しつかないことしてたり……?」

「……お大事に」

「おう。じゃあ今日は王子の話でもすっかぁ」

「先輩は王子のこと、あんまり好きじゃないんですか?」


 王子と発した声色に僅かな棘を感じた。水の入ったコップに手を伸ばしながら問いかけると、護丘先輩はどことなく忌々しそうに口を開く。


「俺は馬鹿が大嫌いなんだよ」

「はあ……」

「頭悪い奴見てるとすげえイライラする。自分の家族を姫の国に殺されたからといって、姫を殺すなんて最低だ」


 イライラ、なんて言いながら私の腕を人差し指でつついてくるのは、頭の悪い人のすることじゃないのか。


 口から飛び出しそうな言葉を飲み込んでいると、護丘先輩は「お前、疑ってるな?」なんてわざとらしく、人差し指をくるくる回してアニメのキャラみたいな動作をした。


「ならお前五時間目終わった後、科学室来いよ。いいもん見せてやる」

「授業あるんですけど」

「さぼれ。お前毎日学校来てんだから腹が痛えっつって保健室にでも行ったことにしろ。バレたら俺に脅されたって言っていいから」


 この人は、昼に前世の話をしてくること以外は、そこまで強引なことをしてこない。だからさぼれという言葉に驚いていると、先輩はその瞳を三日月のように細めた。


「俺のとっておきも見せたいしな」

「とっておき……?」

「とっておきについては、お楽しみだ。まー安心しろよ。危険物は学内に持ち込めないから、危なくて痛いことは一切ねーし」

「……行きます」


 私が返事をすると、護丘先輩は意外そうな顔をした。目をぱちぱちと瞬き、「いや、まさか来てくれるとは思わなかった」なんて驚いた様子を見せてくる。


「たまには、いいかなって」


 そう言って私は先輩から顔を背けて、割り箸に手を伸ばす。


「ありがと」


 けれど割りばしを割る直前、隣で発された声が酷く低く聞こえて、私は戸惑いを覚えながらも定食に手を付け始めたのだった。





「よーう」


 科学室に向かうと、白衣を着て、のんびりとした手の振り方をする護丘もりおか先輩がそこにいた。何故か勝ち誇った笑みを浮かべる先輩は、私を中へと促す。


「じゃあ、アイス食うかー」


 護丘先輩は一番奥のテーブルを指した。そこにはボウルや何だか物々しい金属の容器が鎮座していて、隣には場違いなアイスの素などと可愛らしい文字で書かれたパッケージがあった。


「何で」

「約束したじゃん。放課後は無理なんだろ?」


 ――さ、食おうぜ。という言葉を纏った声色は、平坦なもの。


 でも、放課後に思うようにいかない雁字搦めの糸の一端を解かれた気がして、私はどう返していいか分からない。でも、先輩は全部見透かすような目をしながらも、「牛乳でこの粉溶かすっと……」なんてボウルに牛乳を注いでいる。


「ちょっと離れてろ。危ないから。……ほら、こん中に液体窒素ぶっかけてーっと」

「え」


 先輩は軍手をはめて、躊躇うことなくボウルに物々しい容器のふたをあけ、中の液体をアイスの入ったボウルの中に注ぎ始めた。瞬く間に液体からは白い煙が上がり、ゆっくりと下へ下へ伝っていくように流れていく。


「で、混ぜまーす」


 物々しい容器のふたを厳重に閉めた先輩が、がしゃがしゃとミキサーでボウルをかき混ぜ始めた。ボウルの中身は液体だったはずなのに、どんどん凍り付いて固形へと形を変えていく。


「……すごい」

「また見たくなっても勝手にやんなよ? 普通なら教師がそばにいなきゃいけねえもんだから。……ほら食え」


 アイスを差し出され、受け取る。明らかに実験用の器具に盛り付けられているけれど、護丘先輩のことだし、洗浄はされているだろうと思っていたら「それ俺が飯食う時に使ってるやつだから、実験とかに使ってるんじゃねえよ?」なんて念押しがされた。


 そんなこと、まだ言ってないのに。こちらの想いは少なからず見通されているのかもしれない。当の本人は「うめー」などと明るい笑顔でアイスを食べているけれど。


「ほら、早く食えよ! 溶けてももう固めてやれねえよ? 今月使いすぎちゃったから」


 平均気温を更新し続ける炎天下の窓の外をに目を向け、ため息を吐く。アイスに口をつけると、じんわり冷たさが喉の奥に広がった後、ぴりっとした頭痛がした。


「いっ」

「お前がっつきすぎじゃない?」

「一口食べただけですけど……」

「よしよし。痛いの痛いの飛んでけーっ」

「うわっ! ちょっと」


 人の頭を無遠慮に触れてくる手に嫌悪を示すと、先輩は笑いながら倍撫でてくる。こんなこと、家族以外に誰にもされたことない。それに、私に触った人間は皆怪我をしたりするから、私に必要以上に近づくことは――そう考えてはっとした。先輩が、危ない。


「やめてください、触るの」

「触られるの嫌ならやめてやるけど今はやだー」


 別に俺怪我なんてしねえしな。と続けられた声に、何も言えなくなる。やっぱり、護丘先輩はすべて知っている。私が避けられていることも。いわくつきであることも。放課後、自由に出来ないであろうことも。知っていてなお、私に近付いてきている。


 どうしてと疑問を抱いて、護丘先輩の語る前世の話を思い出した。内容が突飛すぎて本気で言っているわけじゃないだろうと思っていたけど、先輩は本気なのかもしれない。


「あの、先輩前世の……」

「じゃあ次は、俺の趣味でも見せてやろうかな」


 護丘先輩が奥の扉を開いて、こちらに手招きしてくる。ついていくと中は実験器具がひしめいていて、一角だけ周囲から浮くように水槽が立ち並ぶスペースがあった。


「水槽……?」

「おー。家庭菜園っつうか、水槽菜園? みたいな」


 もっとよく見ろと促され近づくと、 水槽の中には生き物ではなく、見慣れない植物が入っていた。彩度の高い草花たちは、酸素を取り込む泡によって水の中を揺蕩うように揺らめき、小さな魚たちが群れをなして泳いでいるようにも見える。


「水の中で育つ植物の研究ですか?」

「いや、元はそこらに育つのと変わんねえもんだけど、水ん中で育つようにしてたら色が変わっちまってさあ」

「なるほど……」


 もしかして護丘先輩のしている研究は、ものすごいことなのでは……。でも「今どうしようかなって思ってるとこ」と隣でけらけらと笑う先輩は、とても偉大な人には見えなくて、頭の中が混乱してくる。


「水はわりと地震とか台風来た時皆気にするけど、土ってわりと放置されがちじゃん? どっかぶっ壊れて畑とかにやべえもん流れてもすぐ変えらんねえし……そう思って始めたんだけど、農業系の人間の仕事とか無くすやばいもんだなーと思って、今は観賞用」


 確かに、土が必要なくなれば、土で困ったときに便利だ。でも、それで仕事をしている人は、困ってしまう。この人はただ楽しいで研究しているだけじゃなくて、自分の研究で人がどうなるかも考えているのか。護丘先輩の顔を見ると、先輩は「まぁ、これから何百と様子見しなきゃいけねえんだけどさー」と頭をかいた。


「お前はどう思う?」

「え」

「これ、観賞用にするだけでいいと思う?」


 護丘先輩のまっすぐな瞳に戸惑いを感じて私は一瞬止まってしまった。私に意見を聞かれても、困る。両親が私に意見を求めることなんて殆んどないし、斑津先輩に意見……、なんて大層なことはしないけど、どこかへ行こうと伝えるとすぐに却下されてしまうから、彼との婚約が決まってからはずっと、自分の意見を出さないように努めていた。


「……私には、判断できません」

「まじかよ。お前に決めてもらおーと思ったのに」


 なのに、私の答えに護丘先輩はあからさまに残念がった。道化じみた態度を見ていると、だんだんとくだらないような気持ちになってきて、私は付け足すように呟いた。

「……それと」

「ん?」

「いつものふざけた話とは大分毛色が違っていて、驚いています」

「なんだよお前。俺のこといつもふざけた奴だって思ってんの? 俺より真面目な奴なんていないのに?」


 いや、今まで先輩からはふざけた前世の話しか聞いていない。


 私が一国の姫で、婚約者がいて、その婚約者の復讐により、姫を殺そうとするけど姫は助かり、色々あるけど幸せに暮らす。


昔話の絵本のような話しか聞いて来なかったから、先輩とこんな風に前世でも昼食に関連することでもない会話を交わすのは新鮮だ。


 新鮮だし、自由な感じがする。


「やっぱお前、笑ってたほうがいいよ」

「え……」


 今、私は笑っていた? そんな風には思えない。でも護丘先輩は「撮っときゃ良かったな」なんてスマホを取り出す。


「私、笑ってました?」

「笑ってたぞ。もう一回笑ってほしいくらいだ」


 実感がわかず頬に触れると、先輩がくしゃっと笑って、頬に触れる私の手に自分の手を重ねてきた。


 今まで、この人の表情を沢山見て来た。でも、今護丘先輩がしている表情……切なさと、悲しみを混ぜ合わせたような表情を見るのは初めてだ。見入ってしまっていると、護丘先輩はすぐにいつも通りの笑みに変わって、口角をあげていく。


「お前がそんな風に笑うのが、当たり前になればいいな」


 ぽん、と頭を撫でられた。今日の先輩はいつにも増して距離が近い。


「じゃあ、そろそろ時間だな」

「はい……」


 時計を確認すると、六時間目の授業が終わろうとしていた。これ以上は、駄目だ。放課後が来てしまう。そして、斑津先輩も。


「アイス、ごちそうさまでした」

「おー。片付けは俺しとくから、お前先戻っていいぞ」

「でも」

「いいから」


 護丘先輩が私を押し出していく。私は流されるままに科学室を後にしたのだった。





 護丘もりおか先輩と一緒に授業をさぼった翌日。二時間目の授業を終えた私は、鞄の中からあるものを取り出すと椅子から立ち上がった。私が椅子を引いたと同時にクラスメイトはしんと静まり返っていく。


 いつものことだから慣れている。でも今日はもやもやして、手元の包みに視線を落とした。ビニールの包装の中には私が昨日焼いたクッキーが入っている。


 護丘先輩にあげる用だ。何か買って渡したほうがいいんだろうけど、外出は斑津先輩に止められているわけではないけれど、言ったら自分が買って届けるとか、そんなことを言われて遠回しに制限されてしまう。


 だから、家にあるものでアイスのお礼をするしかなくて、手作りのクッキーにした。クッキーを焼いたことは、先輩も知っている。ただ家族に作ったそれを故意に余らせてラッピングしたことは知らない。


 どうしてこんな風にこそこそ隠れてやらなきゃいけないんだろうと、複雑な感情も抱くけれど、でも、今に始まったことじゃない。振り切るように廊下を歩いていると、こちらに向かって松葉杖をついて歩く女子生徒の姿が見えた。右足にギプスを装着している彼女は、私の存在に気付くと、一気に顔を歪める。



「あんた……」


 呪うようにこちらを睨みながらも、はっとして私を避けるように距離を開ける。しかしそうしたことで、体勢を大きく崩してしまった。咄嗟に手を伸ばし支えると、間一髪間に合い彼女は体勢を持ち直した。


「あ」


 顔が間近に見えたことで、今私が支えている女の子が、先日券売機の前にいた子だとわかった。唖然としていると、彼女は私の手を大きく振り払う。


「触らないで!」


 ぱしんと、軽い音がした。手を叩かれて、自分の存在が他人にどんな影響を及ぼすのかじわじわと思い出していく。そうだ。私の存在は、他の人を傷つける。最近は私に近づく人間なんて護丘先輩しかいなかったし、先輩も特に何もなく過ごしていたから、忘れてしまっていた。


 立ち尽くしていると、女の子は後ずさりながら踵を返し、私から逃げるように離れていく。その背中を見つめていると、ポケットに入れていたスマホが振動を始めた。ひどく嫌な予感がして、発信者なんて誰か分からないはずなのに、もう知っているような、妙な気分で手に取ると、そこには想像通りの名前とともに、淡泊だけど、痛いほどに何が起きたかはっきり分かる一文が並んでいた。


『何か、悪いことは起きていないか?』


 斑津ふづ先輩だ。


 また、彼が、他人を傷つけたのだ。


 私は急激に冷えた頭に痛みを感じながら、護丘先輩のいる教室の方向に背を向け、自分の教室へと歩いていく。進むたびに速度は上がっていって、やがて駆けるように廊下を蹴った。


 私がいわくつきと言われるようなことをされるたび、斑津先輩は私にメッセージや電話を送ってくる。「何か、悪いことは起きていないか?」と。


 必ず。絶対に。毎回だ。一度直接聞かれ、どろどろに煮詰めた蜜のような目を見たとき、私は確信したのだ。全て、斑津先輩がしたことであると。


 斑津先輩は高校内での行動は干渉しないようにしているけれど、おそらく、何かしらの機材を使って今までの私の行動は報告せずとも知られていたのかもしれない。


 そう考えて、護丘先輩の少し人を馬鹿にしたような、余裕ぶった表情が浮かんできた。


 もう、昼食を食堂で食べることはできない。護丘先輩に会うことも、できない。


 高校受験のことがあってから、斑津先輩をおかしいとは感じても、憤りは感じなかった。なのに今は息が詰まりそうで、私は彼に怒りを感じている。今まで、そんなことは一度も感じたことがなかったのに、どうして私はあの人の言葉を聞いて、あの人は私を支配しているんだろうという疑問もとめどなくあふれていく。


「プリンセス?」


 闇雲に走っていると、背中に声を投げかけられた。どうしてこうも、辛い時に現れるんだ。私は甘えてしまいそうな自分を殺して、護丘先輩に返事をすることなく足を動かしたのだった。



 


 深い色のスーツを纏った人々の隙間に、濃淡様々なドレスが揺らめいていくのを、壁を背にぼんやりと眺める。


 護丘もりおか先輩から逃げるように立ち去り二週間。私は夜、県内の会社経営者とその家族を招待したパーティー会場にいた。今は家族と一通り挨拶を済ませて、父は兄たちと共に他の経営者らと会話をし、母も母で別のグループの輪に混ざり言葉を交わしていた。


 一方の私はといえば、中央から逸れるよう、壁伝いに設置された観葉植物たちの横に身を潜めるようにしている。しばらくそうしていると、斑津ふづ先輩がやってきた。


 彼はただ、私の隣に立ち、グラスに入った飲み物を興味なさげに見つめては、グラスを持っていないほうの手で、しきりに親指の爪を人差し指の第二関節あたりに刺している。


 これは、癖だ。何かしら考え事をしている時の。そしてこれが終わると大抵何かしら注意されるか、かなり前のことまで遡って私の行動について抱いた疑問について質問される。


 でも、この場を離れるわけにはいかない。今後結婚する時のために、しっかりとお互いを想い合っている様子を見せるべく、参加しているパーティーに彼も同席していた場合、私はすぐそばにいることが決められていた。


 それは今日も同じで、私はいつも通り斑津先輩の隣で時間が過ぎるのを待っていなくてはならない。


 張り詰めた気持ちで、ただ会場を眺める。前は、こうじゃなかった。出会ったばかりの彼は、今のように寡黙だし、冷たい雰囲気もあったけれど行動を制限するようなことは絶対にしてこなかった。


 けれどいつだったか、彼の両親と共に別荘へ行った辺りから、段々関係性が変わっていった。別荘では一緒にバーベキューをして、焚火をした翌日、彼は体調を崩し家族とともに先に家に帰った。私はそんな彼の分まで写真を撮って送ったけれど、今思い返せばそれ以降、彼に報告を頼まれることが増え、義務に形を変えていった。


 行動を報告したり、制限されるのは、辛い。


 そう伝えられたら、どうなるかを私はよく知っている。初めにいわれるのは、「誰かに何か言われたのか」だ。次に「欲しいものがあるなら俺が用意する」そして最後に、「君は俺と結婚する。その為危険が迫ることだって多々ある。仕方がないことなんだ」と言われて終わり。何も変わらない。


「少しバルコニーの方へ出よう。話をしたいことがある」


 視線を落としてただ時間が過ぎるのを待っていると、斑津先輩が口を開いた。彼に逆らう権利は私にはない。黙って頷き、彼の後ろをついていく。そうして訪れたバルコニーは、夜も深まりはじめ、月も雲に隠れていて、なんだか酷く冷たい印象を受ける場所だった。


「……高校を卒業したら、結婚しよう」


 会場と外を遮るように扉を閉じた直後、斑津先輩が放った言葉が、うまく頭に入って行かない。大学を卒業することは、確約されていたはずだ。大学を卒業するまでは、私は何かを、ほんのわずかな何かを選ぶことが出来るはずだ。なのに、どうして。


「え……」

「大学で学んだことが斑津の妻の役に立つこともないのだから、通う必要は無いだろう?」


 斑津先輩の言葉に、石を飲み込んで身体に積み重ねていくような錯覚を覚えた。彼の想いが私を心から愛して、私を求めるつもりであったなら、少しは違っていたかもしれない。でも、違う。彼は私を見ていない。ただ物を扱うように、支配をしようとしている。


「君は、俺の傍にいればいいんだ。他を求める必要はないし、何も考えなくていい」


 私は、斑津先輩が何を考えているのか分からない。分かっても意味がないと思っていた。彼と私の結婚は揺らがない。例えそれは私が加虐の限りを尽くされてもだ。


 行動を全て縛られ、殺されたとしても私に斑津先輩から逃げる権利はない。だから彼が何を考えているかなんて知らなくていいのだ。私には、従うことしか出来ないのだから。


 でも。


「斑津先輩、私たちは、結婚するんですよね」

「そうだ。決まっていることだからな」


 斑津先輩は、特に表情を変えることなく小さく頷く。私は今まで、斑津先輩の行動や行い、思考について改善してほしいと求めることばかりで、何かしたいと考えたことはなかった。でも、今明確に、彼にしたいと思ったことが出来た。


「私は、あなたのことを一生愛することは出来ないと思います」


 私は、この先斑津先輩を愛することは絶対にない。何をするのも連絡をしなきゃいけなくて、行動を制限されて、人間関係だって操作をされる。そんな関係は、紛れもない支配だ。彼は、私を支配したいだけだ。愛のない政略結婚ですらない。互いが互いを利用するのではない。一方的な搾取だ。そこに衣食住の確保をすりつけて、正当化しているだけだ。こんなことを言って、だからなんだと言われればそれまでになる。でも今言わないと一生後悔する気がした。私は、彼を拒絶したい。


「それは、他に男がいると言うことか?」


 一瞬、脳裏に護丘先輩の顔が思い浮かぶ。だけどあの人はただ一方的に私に前世の話を語ってくるだけだ。そんな関係でもない。だけど、斑津先輩よりは間違いなく、一緒に歩くという映像が明確に浮かぶ相手だ。


「いいえ、他の人が好きだから、あなたを愛せないんじゃありません。あなただから、私は愛せない」

「俺、だから……?」


 搾り、血を這うような声に一瞬委縮しそうになる。でも、言わないといけない。


「いないもののように扱われるくらいなら、縛られている方がましなのかもしれないと考えていました。でもそれは違うと思ったんです。私は、私を不当に縛って、枷をつけて、そして暗に威圧をする貴方の行動が、とても苦しい。結婚はします。私の身体はあなたのものです。私に選択の権利なんてない。これから先、私はあなたに従います。……でも私の意思は、心は、私だけのものです」


 全てを伝えると、自分の曖昧だったものが色づいていくのを感じる。今私は、この場所に立っている。ちゃんと、生きている。私はいわくつきなんかじゃない。空気なんかじゃない。私には意思があって、選ぶ権利がある。


「違う……。俺は、お前を幸せにしたい……、それが俺の、生きている意味なんだ。俺は……!」

「だから、俺は馬鹿が嫌いなんだよ」


 聞こえてきた声に、振り返る。そこにいたのはスーツに身を包んだ護丘先輩だった。


「結局お前だって最後は同じじゃねえか」


 そう言って鼻で笑う護丘先輩が私の隣に立つと、斑津先輩は今まで見たことがない程の怒りの目をこちらに向けてくる。


「どけ、俺の婚約者に触れるな……!」

「今日を境に、こいつとお前の婚約は解消された。で、こいつは晴れて俺の婚約者になった。もうお前のもんじゃねーんだよ」


 私が、斑津先輩と婚約を解消して、護丘先輩と?


 そんなはずはない。ありえない。斑津家に縁談が舞い込んで妃咲が切られることはあっても、逆は絶対にない。同じことを斑津先輩も思ったのか、首を横に振った。


「そんなこと、ありえはしない! お前は誰だ」


 護丘先輩の言葉に、斑津先輩が強く反応する。すると護丘先輩が鼻で笑った。


「お前が一番殺してやりたいと思ってる相手だよ」


 斑津先輩の目が、見開かれていく。護丘先輩はポケットからスマホを取り出し、こちらに画面を向けた。


「そんなことをして、妃咲ひさきの家がどうなるか――」

「どうもならねえよ。俺の研究の特許を手に入れたことで、妃咲は斑津より大きくなる。力関係は逆転する。家に雁字搦めにされることがどういうことなのか、知れて良かったな」


 そう言うと護丘先輩はすっきりとした顔で斑津先輩を見下ろし、私の腕を取ってさっさとパーティーの会場まで戻っていく。最後に振り返ったとき見えた斑津先輩の表情は、まるで憔悴したように呆然としながらも、その瞳だけはじっとこちらを見ている。


「行くぞ。お前は何処にでも行けるけれど、ここはお前の居場所じゃない」


 そんな斑津先輩のほうを見る私に、落ち着かせるように護丘先輩が私の腕を取る手を取る力を強める。でもその力は、言いなりにさせようとするより、迷わないように道を示すようだった。



「じゃあ、この車に乗って」


 そのまま会場を抜け、護丘先輩はしばらく歩くと私の手をぱっと離した。そして「どう? さっきの。かっこよかったろ?」なんて得意気にこちらを振り返る。


「いや、意味わかんないんですけど、婚約ってなんですか? 何であの会場にいるんですか?」

「お前を幸せにするためだよ。ちゃんとな」


 月明かりに照らされた護丘先輩が、少しだけ切なそうに笑う。……でも、全く答えになっていない。それなのに納得してしまうような説得力が確かにあって、余計に混乱してきた。


「俺の研究は、金になる。だからそれを斑津に伝えた。独占して使わせてやってもいいって。条件はお前との婚約解消。……斑津には二つ返事で了承された。で、妃咲に――お前の家の両親と、お兄さんに、俺がどれだけ優秀かを伝えた」

「どうして、そこまで……」

「俺はお前が好きだ。お前は困っていて、俺にはお前を助ける力があった。だから俺は、お前の弱みに付け込んだ。五分も必要ないほどの、簡単な話だ」


 自嘲気味に笑う先輩は、月明りを背にしているためか別人のようにも見える。昼間の明るい雰囲気とは異なり酷く冷たいようで、でも、声色は優しい。


「お前は好きに生きて、自分の選んだ夢を見て、誰かにないがしろにされることなく生きろ。……色々縛って、お前の存在を食い荒らすような婚約者より、少し変でも頭のいい俺を選べばいい」

「選ぶ……?」 


 選ぶ。そんなこと今までの人生で、したことがない。今まで選べていたのは、食堂で食べるお昼くらいだった。後は全部誰かに定められていて、少しでも逸れてしまえば強制的に正されるのだから。


「俺を選べば、お前は好きな時に好きなものが食べられるし、好きなものを好きな時に見に行ける。お前が行きたい奴とな。まぁ……十回に一回くらいは遊んでくんねえと、俺は拗ねるけど」


 いつになく護丘先輩は真っ直ぐに私を見る。


「……少し変ってレベルじゃないですよ、スピリチュアルちょっと入ってますし」

「じゃあお前はこれからかなり変でスピリチュアル入ってる奴が婚約者になるってことだぞ。もう少しいいように捉えろよ俺を」

「無理ですよ。今更」

「じゃあ、出来るようにしてやる」


 わざとらしい咳ばらいをして、スーツの襟を正して見せてから、護丘先輩は私に手を差し伸べる。その手は私を引っ張る手にも、掴む手にも見えない。ただ、一緒に繋いで、歩んで行ける、そんな手に見えた。


「……先輩私のこと好きなんですか?」

「おう。結構俺のこと雑に扱うわりに優しいとこ好き」

「そんなことで?」

「じゃあ一目惚れにするか。お前は可愛いから、一目見た瞬間お前に運命感じて、俺の姫だって思い出して、調べあげて、それからずっと俺はお前と斑津の婚約をどうにか潰せないか考えて、お前以外の人間全員に盗聴器と監視カメラつけて、機会を窺って、今まさに本懐を遂げたってことで」

「清々しいほどの後付けですね。しかもそれ犯罪ですからね?」

「でも、お前笑ってんじゃん」


 やっと願いが叶ったかのように、少しだけ泣きそうにしながら護丘先輩が笑う。その笑顔を見ながら私は先輩の手を取ったのだった。





 この薄汚い王宮の中で、まさしく彼女は花だった。


 だから、手の届かない存在だということは、手を差し伸べてはいけない存在だということは、痛いくらいに分かっていた。


 伝統ある騎士の家の血筋でも無ければ、後ろ盾があるような家柄でもない。そんな俺は、ある時国の王女に執事としてお仕えすることになったのだ。相手は正真正銘のお姫様。しかし絵本に記されていたような幸せなお姫様とは程遠く、その周りはひたすらに彼女に冷たかった。


 既に四人の王子がいることからか、彼女をまるでいないもののように扱う国王と王妃。王族だというのに姫様の護衛騎士を平凡である俺が務めることになったことからも、その冷遇は窺い知れた。

 そして、姫に宛がわれた隣国の婚約者は、姫様に辛く当たる。それなのに、姫様は文句も、泣きごとも言わない。ただ、国民の為に尽くす。そして薄氷の上で、毎日、毎日、儚い糸を紡ぐように過ごしては、王が気まぐれに虐殺に走り滅ぼす国々に対して、涙を流す。


 俺には、姫様の周りのことが何も分からない。それでも、姫様がここまでの扱いを受ける理由は存在しないと思っていた。でも、俺には何も出来ない。もっと家柄のいい家であったなら、俺に力があったなら、姫様を救うことが出来たのだろうか。俺に力があったなら、姫様をこんな閉じた世界から連れ出すことが出来るのだろうか。ずっとずっと考えては、答えの出ない日々を繰り返す。


 姫様は、そんな役立たずの俺にも優しかった。些細なことでも俺に感謝をして、俺の話に嬉しそうに耳を傾ける。でも時折その美しい瞳が寂しさの色に染まって、その瞳を見る度に苦しかった。


 俺は、いつだって姫様に光が当たることを望んでいた。そしてこんなにも望んでいるのに、祈りを捧げ、姫様を救うことが出来ない自分の不甲斐なさを呪っていた。呪っても、呪っても姫様を救えない。そんなことは分かっている。それでも祈ることも、呪うこともやめられない。いっそ攫ってしまえればと考えたこともあった。


 でも、ただ見ているだけの俺には出来なくて、結局俺が行動を移すことが出来たのは、国が滅びを迎えた時だった。


 婿入りする予定であった隣国の王子、姫様の婚約者が企てた謀りにより、城は戦火に包まれた。


 王の間の中央、隣国の王子は憎悪にまみれた怨嗟の声を姫様に言い放つ。その恨みは、国王に向けられたもの。姫様には全く関係のないことで、今まで奴が姫様を苛むようにしていたのは、復讐の為であったことを初めて知った。それは姫様も同じだ。同じであったはずなのに、姫様の口からは、謝罪の言葉が零れ堕ちる。


 きっと、それは言ってはいけない言葉だ。


 そう思って手を伸ばす。姫様に向かって。でも、俺の手が触れたのは、姫様の身体ではなく、熱を持った紅だった。


 滑り落ちるように、崩れていく姫様。華奢なその身体には不釣り合いな剣が突き刺さり、そこから滲むように鮮明な液が滴っていく。姫様を冷たく見下ろすように王子は立っていて、その瞳は葛藤と怒りと、やるせなさに揺れていた。


「どうして、どうして!」


 姫様に駆け寄り、彼女を貫いた剣を握りしめた仇に向かって吠える。すると男は静かに目を伏せた。


「こうするしかなかった。でなければ終われない。この国の王家を、慈悲なき畜生の血を絶やすと誓ったのだ。でなければ王に殺された俺の家族に、村の民に顔向けできない……」

「姫様は、心優しいお方だった! 姫様だけは――」

「分かっている!」


 男は怒鳴りつけ、剣を振り上げた。その瞳には涙が伝い、後悔に揺らめいていた。


「分かっている。そんなことは。ずっと分かっていた! ……だから、これで終わりだ」


 次の瞬間、男は剣を自分の首にあて、一気に引き抜いた。その首から血を溢れさせ、崩れ落ちるように倒れる。


 呆然としている間にも炎は俺と姫様を囲むように迫っていて、俺は姫様を抱えて立ち上がった。姫様は軽くて、もう消えてしまいそうなくらい軽くて、それがどうしようもなく悲しくて、姫様の顔を見るとその瞳は硬く閉じられて、まるで眠っているようにも見えた。


「姫様、大丈夫ですよ。俺が絶対助けますから」


 炎の中を、一歩一歩進んで行く。姫様のドレスに火が移ろうことがないように、慎重に進んで行く。姫様を、医者に診せる。姫様は、この国の王女様だ。王女様だからきっと優先的に医者に診てもらえるはずだ。誰よりも、何よりも優先されるはずだ。そうでなければおかしい。許されるはずがない。


「ねえ、姫様。姫様のお身体が回復されたら、どこか遠いところに行きませんか」


 熱が身体を蝕んでいく。口を開くたびに喉が焼けて痛みが走る。姫様が呼吸をして、痛い思いをしないように、苦しくならないように硬く抱きしめて、一歩一歩また進んで行く。


「ねえ、姫様。遠くの国で、自分で食べるものは自分で育てて、そうやって生きていくのもいいですね。ねえ姫様」


 姫様は、一度だけ、一度だけ俺に言ってくれたことがある。自分の夢についてのことだ。王女ではなく、自由でありふれた暮らしをしてみたいと言った。簡単な幸せを積み重ねていくような、そんな暮らしを。


「明日のことだけを考えて、未来なんて考えなくていい。ただ明日、何を食べよう、どんな曲を聴こう。どんな風に過ごそう、昼寝をしよう。好きなように、自由に、全部姫様の好きなように選んで、どういう風に過ごすか考えて生活するんです」


 眩むほどの業火が燃え盛り、柱が、天井が何もかもが崩れ落ちる。とうとう炎と瓦礫に封じられ、どこにも進めなくなってしまった。


「姫様……ねえ、ひめさま……笑顔を見せてください。私は、あなたの心からの笑顔を見たいのです……」


 頬に触れて声をかけても、姫様の瞳は開かない。唇も固く閉じて開かない。これなら熱に焼かれることもないのかもしれない。


「俺は……、あなたのことを……」


 駄目だ。その言葉を、伝えられる資格は、今の俺には無い。だから、いつか、いつか出会えるその日が来たら。


 最期は、姫様の顔が見たい。それなのに、視界はゆらめくばかりでまともに見えやしない。意識が何度も遠のきそうになって、自分の指に爪を刺すけれど、またすぐに意識は移ろいでいく。


 次にもし、生まれ変わったなら。絶対にあなたを幸せにする。あなたの家族があなたを蔑ろにしてもすぐ助けられるよう、裕福な家に生まれて、力を得て、全てを利用して、何に変えても、あなたを守る。全てから。


 俺はせめて炎に姫様を奪われないよう、彼女を強く抱きしめたのだった。

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ひとり科学部の護丘先輩は全面的に規格外 稲井田そう @inaidasou

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